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キミガリ −君許− 第一部


戦に負けても、どんな裏切りがあっても、仲間が死んでも。
涙なんか流さなかったから、きっと俺の目は嗄れてしまったのだと思ったのに。

まだ涙がでるなんて、知らなかった。



キミガリ −君許−  1



久々の再会はお互いすでに心から喜べるものではなかった。少なくとも、この、本山小太郎にとっては。
「……八郎」
「なんだよ、情けない顔しやがって」
どう答えたら良いのかわからない風に、本山は曖昧な笑みを浮かべた。
再会の喜びと、夢を見ているかのような絶望に。


慶応四年(1868年)五月。
鳥羽伏見の戦、江戸城無血開城を経て、新政府軍、いわゆる官軍は勢いを強めていた。
そのなか、箱根山崎の戦いでその勢いに敗れた遊撃隊は箱根の関、箱根峠、鞍掛山、十国峠と移動し、熱海。
そして館山に到着していた。
館山には海軍副総裁に就いていた榎本武揚の艦隊が停泊しており、遊撃隊はその後長崎丸により奥州に向かうことになっていた。
次なる戦いのために、彼らは北へと転戦していた。
二年前に講武所師範や奥詰幕臣らによって結成された遊撃隊。
伊庭八郎はその中にいた。


「ざまぁねぇなって言いたいんだろ。『伊庭の子天狗』と噂された俺がこの様だ。情けねぇ」
伊庭は数人の隊士に付き添われながらも伊庭は強がって、白い歯を見せて笑って見せた。
本山小太郎はそれを直視できずに、うつむいた。
伊庭の左腕は、袖の下で切断されていた。
「……痛まないのか」
「ああ、大丈夫」
その言葉に力はあるが、そんなわけない、と本山は確信していた。
伊庭八郎が箱根山崎の戦いで左腕を落とした、という噂はすでに本山の耳に届いていた。
伊庭は負傷したものの、片手で敵三人を切り伏せその勢いは岩をも斬り砕くほどだったとかいう話も聞いていた。
だが俄に信じられず、こうして伊庭に再会して現実を知った。そして、絶望も。
伊庭は苦笑した。
「しんみりした顔されちゃあ困る。小太の取り柄なんていつも笑っていることなんだから」
「そんなこといってもお前…」
親友の、こんな姿を見て笑っていられるわけがなかった。
本山と伊庭は講武所で知り合った数年前からの友人だった。よく二人で酒を飲み、冗談を言って笑った。
伊庭はいつもにこにことしているが、いざとなれば頼りになる、この本山のことを気に入っていて
本山は名門の御曹司でありながら、奢ることなく冗談を言うこの美丈夫を好んでいた。
「そういえば彰義隊が一日で崩壊したって言うのは本当か」
「ああ。だから小田原も裏切ったんだろう」
「そうか、なるほどなあ」
「若旦那、若旦那」
二人で話し込んでいると、少し背の低い、町人風の男が急いで駆け寄った。
本山の知り合いでもある荒井鎌吉である。
鎌吉は元々本山が通っていた『鳥八十』の板前で、伊庭を伴ってきたある日、意気投合。伊庭を尊敬し
町人の身分でありながら包丁を手に、伊庭と行動を共にしているもの珍しい男だ。
『あっしは若旦那に惚れたんだ』
鎌吉は真剣にそんなことを言っていた。
「榎本先生がお待ちでー…」
「そうだ、そうだった。じゃあな、本山。またあとで…」
「え?……ああ」
伊庭は軽い足取りで、榎本艦隊に向かった。


その場に残ったのは鎌吉である。
「あんなお怪我で…。先生は何とも言わず耐えていらっしゃる。あっしにはできません」
鎌吉の口調が「旦那」から「先生」に変わっていた。
「伊庭がしくじったのか?」
「箱根の三枚橋でございました。官軍と裏切りやがった奴らが追ってきて、あっという間に腕を…
 先生を取り囲んで…。なんてぇことをしやがるんだ。あっしは泣きました」
「……」
「負傷の傷が全身に回るっていうもんですから、すぐに腕を切断しました。
 あっしは見ているだけで痛い、涙があふれたんですが、先生は顔色一つ変えねぇで…。あっしは惚れ直しやした」
鎌吉の目に涙が浮かんでいた。だがその涙をすぐに拭った。
「でも旦那が小田原の奴らに啖呵を切ったときはあっしもすっきりしやした。
 『反復再三、怯懦千万、堂々たる十二万石中、また一人の男児なきか』……旦那じゃなきゃいえません」
伊庭が言った言葉に違いないが、鎌吉が自慢げに語るので本山も微笑を浮かべた。


遊撃隊は箱根関所を制圧するために、四月下旬陸路小田原に向かった。
箱根関所を制するには、小田原藩の管轄である藩主 大久保忠礼を盟主にする必要があったからだ。
小田原藩は資金提供の約は交わしたものの、盟主になることには了承しない。
そしてついに五月、江戸での彰義隊蜂起が伝わった。
すでに新政府軍が藩兵を差し向け、圧力が加わっていたために、小田原藩は二十四日新政府軍恭順へと態度を変え、謝罪。
小田原城内にいた遊撃隊第一軍 人見勝太郎と共にその事実を知った第二軍隊長 伊庭は
『反復三再、怯懦千万、堂々たる十二万石中、また一人の男児なきか』
と吐き捨て、小田原藩の資金1500両と武器・弾薬をせしめて去っていった。
その後、新政府軍と小田原軍の連合により遊撃隊は退散。伊庭も片腕を失い、現在に至るというわけである。



鎌吉に休むように伝えて、本山はすぐに伊庭を追った。伊庭が榎本艦隊に向かったのは傷口の再手術のためだと聞いたからだ。
慣れない艦内を歩き回り、やっとそれらしき医務室を発見した。
だが、足が竦んだ。
「え、榎本先生…」
海軍副総裁、榎本が伊庭と話し込んでいたからだ。
「しくじりました。申し訳ありません」
伊庭は深々と頭を下げた。
「構わないよ。それより無事に返ってきて良かった。けがの方は大丈夫か……」
榎本はちらりと伊庭の腕を見た。伊庭はにっこり笑った。
「力は入りませんが、鉄砲も元込銃もありますから大丈夫です。まだお役に立てます」
「…心強いな」
榎本は本山に気が付いたのか、ポンッと伊庭の肩を叩いて去っていった。
伊庭は一礼で見送った。

「小太」
「これから手当か?」
伊庭はうなずいた。
「お前はあっちにいってろよ」
「なんで」
伊庭は複雑そうに笑った。
「傷口見たら卒倒しそうだからな」
真っ白に青ざめているはずなのに、伊庭の微笑には幼さが残っていた。
酒を飲み交わした、あの日のような暖かさを。
それでいて、随分大人びて見えた。
遊撃隊第二軍の隊長の姿だった。
「八郎」
「ん?」
「ちゃんと……泣いたのか?」
伊庭の表情が固まった。本山はその表情を見つめ続けていた。
『伊庭の小天狗』ともてはやされ、剣士としての道を歩み続けていた伊庭が片腕を失うという屈辱を受け
次々と負け戦を経験し…。
本山には、もう想像できなかった。この男の悲しみが、悔しさが。
せめて泣きじゃくってほしいと思った。

「バーカ」
本山の意図が分かっていたのか、それともまた強がったのか。伊庭はいい放った。
「遊撃隊の第二軍隊長が涙なんか流すかよ。志気が下がるし、みっともねぇ」
「そうじゃねぇよ。お前、そんな屈辱味わって、何でそんなに強がっ…」
「もういいか」
伊庭の剣幕が鋭くなった。本山はドキリとした。伊庭の眼孔はこんなに鋭かっただろうか。
斬りつけるように…。
「そんな甘えたことを言う立場じゃねぇんだよ」

どうしてこの男がこの時代に生きることになったのだろう。
どうにもならないそんなことが頭を巡った。
平穏な暮らしを、不条理な神はおくらせてあげなかったのだろう。

「……ッ!」
伊庭はすでに失った腕にも力を入れるが、抗うことはできなかった。
生々しい唇の感触と、暖かいその体温に。
「八…郎……」
「お前…ッ」
刹那、その感触が離れた瞬間。目の前にあった本山の頬を、伊庭は渾身の力で殴りつけた。
自分の気持ちを押さえつけるように。右腕で唇を拭った。その感触を忘れるように。
「どういう…つもりだよ…ッ」
「…ごめん」
「……馬鹿野郎」


伊庭は医務室に入っていった。


手術は麻酔も効かず、悲惨を極めたが伊庭は平然と耐え医者を驚かせたという。
強がりやがって。
本山は舌打ちした。
















失ったものはあまりにも大きくて。
ただ悲しんで欲しいと。もう我慢はやめてくれと。
俺は叫んでしまいたかった。



キミガリ −君許− 2



数日後。伊庭ら負傷者を残し遊撃隊140人を乗せた長崎丸は奥州へ出航。
奥州へ向かった遊撃隊は、官軍を相手に奮戦する。しかし最終的には請西藩と遊撃隊とに分離してしまう。
請西藩主・林忠崇は徳川家が静岡藩として存続されることを知り、官軍に投降した。


「へぇー。これが美加保丸…」
荒井鎌吉は包丁片手に、八月の青い空を背景にその輸送船を見上げた。
「でも『開陽丸』や『回天』と比べるとまるで小舟だなあ…」
品川沖に並ぶ七隻の軍艦を比べながら伊庭は感嘆のため息を付いた。
8月19日、朝。品川沖には榎本率いる七隻の艦隊がまるで“黒船”のように立ち並んでいた。
一番大きいのは『開陽丸』『回天』などの木造蒸気船。その存在は圧巻だった。その迫力に奮い立たされるほど。
そして伊庭たちはその中の輸送船『美加保丸』にて数人の遊撃隊隊士とともに、蝦夷を目指すことになった。
『蝦夷の地に我らの新しい国を作ろう』
榎本のそんな提案を実現させるために。
そして箱根山崎の戦いから約三ヶ月。
隻腕の身体にも慣れ、一人で食事がとれるほどに回復したころだった。
「何度も言うようだけど鎌吉。お前は…」
「もう聞く耳は持ちませんぜ。先生。生きて返ってこれなくてもあっしは待つ家族もありませんし、
 先生の身の方が気になって、もう包丁で料理などできんのですから」
「……そうか」
しばし逡巡して、伊庭はもうこの男の決意を揺るがせることなど出来ないのだと知った。
「損な性分だねぇ」
「へぇ」
鎌吉は満面の笑顔を浮かべた。8月の空と照りつける太陽と同様に眩しかった。



「八郎!」
そしてこの男もなかなか頑固に伊庭に着いていくことを決めていた。
忙しそうに駆け寄った親友 本山の顔は、だが少し怒っていた。
「小太」
「お前、こんな海辺で傷口を晒すなよ。菌が入ったらどうするんだ。身体に障るだろ」
小言を言う乳母のようだった。
「もう大丈夫だって。お前もたいがいしつこいな、もう治ったって言うのに」
本山は聞く耳持たず、暑い八月に伊庭に上着を着せた。
「治ったって言うのもおかしいか。もう大丈夫なんだよ」
「……」
苦笑した伊庭と反対に、本山の表情は険しくなった。


慶応4年8月19日。榎本艦隊は七隻の艦船を順え、蝦夷へと向かった。
『美加保丸』は大型艦船『開陽丸』に曳かれ品川沖を出航。
太陽が照り続けていた。


カコン、カコン、と海の波のリズムを直接感じる艦内で伊庭は本山と二人になっていた。
ほとんどの者が物珍しさに甲板に出てはしゃぎ、鎌吉もその中の一人となっていた。
子供のようにはしゃぐ声を聞きながら、本山は笑った。
「こんな酔う乗り物、好んで乗りたくないな」
「酔うのか?」
「酒よりも」
蟒蛇本山が答えると伊庭は「確かに」と笑った。
「…でも、久々にあいつらが笑っているの、聞く気がするな…」
甲板を見つめながら、伊庭は呟いた。
伊庭にしたがっていた遊撃隊隊士たちは数名いたが、みな伊庭の身を案じここのところは意気消沈していたようだ。
今は甲板を駆け回っているようだが。
「…そういえば、小太と二人きりになるのも久々だな」
「……ああ」
伊庭の一言で、急に二人の空気が重くなった。
あれから三ヶ月ほど経ったが、伊庭は本山を問いつめることもなく、本山も説明などしなかった。
あの扇情的な感情に、説明など出来なかった。
ただ、あのときは、伊庭が今にも割れそうな果実のように見えたのだ。はじけたら、崩れてしまう。
それくらにあのときは張りつめていた。
「……もう、いいから」
「え?」
本山は首を傾げた。伊庭は急に目をそらす。
「もういいよ、あのときは状況が状況だったし、お前も混乱していたんだろ?……忘れるからさ、お前も忘れろよ」
「……」
「今は大切なときだし…。お互い、徳川様のため、義のため、己のため…だろ」
「…ああ」
小さく同意して、それでも二人の距離は未だ離れたままで。
伊庭は、居心地が悪かった。本山とこんなに距離を感じたことなど、無かったのに。伊庭は唇を噛みしめた。





21日。状況は一変した。
20日から天候が危うくなっていた8月の空は、急に嵐を起こした。
『開陽丸』と繋がっていたケーブルは切断され、『美加保丸』は荒波の中を漂うことになった。
『美加保丸』の帆柱は全て折れ、ついに船底から浸水し始めた。
「おいおい、冗談じゃねぇ…」
皆がそう思った。だがそう言っているまに水はどんどん浸食し、あっという間に水浸しとなった。
嵐は相変わらず吹き付けて、船内は大きく揺れる。
「皆で出来るだけ浸水した水を外に出してくれ!しばらく持ちこたえれ!!」
誰とも無く叫び、あらん限りの道具を駆使し、船内の水を掻き出した。
「八郎、捕まれ!」
「あ、ああ…」
揺らぐ船内でバランスを保てなくなった伊庭は、本山に抱えられるようにして縋っていた。
辺りの人間は、皆必死に水を掻き出している。
「…情けねぇなぁ…」
「何をいってんだ。こんな水、すぐにひく」
項垂れた伊庭を抱えて、本山はそんな言葉しかかけてやることができなかった。

22日、空は昨日の嵐が嘘のように晴れ上がった。
鎌吉などは「なんてぇ、おてんとうさまのいたずらだ」と苦笑し、皆の無事を喜んだ。
船員皆で船内の水をかき出し、3日かかってようやく鹿島灘に戻った。
「八郎、大丈夫か?」
本山は随分海水に晒された伊庭の左腕を気遣ったが、
「大丈夫だから、もう言うなよ」
と煙たがられた。

だが暗澹を思わせる嵐が再び『美加保丸』をおそった。
暴風雨によりすでに破損していた『美加保丸』は機能を果たすことが出来なくなった。
一晩雨風に晒された『美加保丸』は大きな振動と共に暗礁に乗り上げた。
皆が甲板から海に飛び降りた。
だが四方は暗闇に閉ざされ、足場も強い風によって安定しない中、黒い海へと飛び込むのは
躊躇いがもたれた。もっとも、普通の隊士ならなんの問題もないのだが。
「先生、」
「大丈夫だよ。鎌吉、先にお行き」
「…へぇ、きっと、きっとまた会いましょう」
鎌吉は今生の別れ、と言う風に海に飛び込んだ。
真っ黒な海に、鎌吉の姿はもう確認することは出来なかった。
「…さて、小太も先に行けよ」
「お前、一人じゃ無理だろ」
「だからって二人で飛び降りてもどうせ離れるさ。俺は死んだりしないから、ほら」
伊庭が暗闇の中で本山に促すが、本山は聞く耳を持たず伊庭の手を取った。
「離さない」
「………」
「絶対、離さないから、俺を信じろ」
力強い本山の言葉。暗闇の中で彼がどんな表情をしているのか、伊庭には分からなかった。
ただ握られた手の力に、もううなずくしか無いことをしった。
「わかった」
傾いた甲板から、二人は真っ黒な海に、飛び込んだ。










覚えてるか?
あのときの口づけは、三度目だった。
一度目は酒に酔って、お前が俺に口づけた。
二度目は……。



キミガリ −君許− 3


嵐の中。
船が沖合で座礁していることに気が付いた農民たちは、総動員で彼らの救出にあたった。
数名の溺死者も出る、惨事となる。



砂浜に照りつける8月の太陽は、労るつもりがないのか容赦なく暑い。
「先生!先生無事でしたか!!」
そんな日照りに目が覚めて、伊庭はうっすらと目を覚ました。
じゃりっという感触で、自分が今浜辺に打ち上げられていることが分かった。
そして初めのうちはぼやけていた視界もはっきりし、声の主が鎌吉であることが分かった。
「鎌吉…お前も、無事だったか」
「へぇ!もう先生の事が心配で心配で…」
「何がどうなったのかよく分からないな…無我夢中で泳いだんだ」
「へぇ、それで本山先生がお運びに」
「え?」
はっと気が付いて体を起こすと辺りには何名も倒れている隊士たちがいた。
皆意識はあるようだが、放心状態、と言う様子で農民たちの助けを得ていた。
具合を悪くしているもの、けがをしているもの。辺りは散々としていた。
だがその中に本山の姿はない。
「もう駄目かと思っておりましたら、海から本山先生が先生を抱き上げてこられて」
「……そう」
残された右手には、本山の手のひらの感触がしっかり残っていた。


「八郎!」
農民の長と話をしていた本山が伊庭の元に駆けつけた。そしてすぐに 「傷は大丈夫か」
と尋ねた。
「ああ、大丈夫…。お前こそ、けがは無かったのか?」
傷口を確認している本山に尋ねると、彼はばつの悪そうな顔をした。
「まぁ…スクリューに巻き込まれそうになってな。ちょっと……やられた」
元来素直な彼は答えも素直で
「え?!どこを?」
「大したことはない。少し切っただけだ」
「見せて見ろ」
本山の手を払いのけ、伊庭が傷を確認した。右肩のしっかりした消毒もなされていない傷は生々しく
伊庭の険相も険しくなる。
「俺はいいから、膏薬を」
鎌吉に言いつけると「へぇ」と短い返事をして鎌吉は去っていく。
伊庭は右手を駆使し、己の着物を破り、傷口を洗った。
「悪い…俺のせいだな」
「何いってんだ。よくここまで泳いでこれたよ。俺がついていけなかった」
そんな本山の笑顔の慰めももはや力にはならず、伊庭は暗澹たる思いを渦巻かせていた。




座礁した港のある高崎藩はすでに官軍に恭順していたため、このことを公にすることは出来なかった。
団体で行動することも人目をはばかられるので、いったん解散し、皆はバラバラに箱館を目指すことになった。
数日前、誇らしげに見つめた『美加保丸』は海に沈んだ。




傷の完治しない本山を連れ、伊庭、鎌吉そして同門の中根淑は近くの名も知れない廃れた寺で
今後について考えることになった。
埃っぽく、蜘蛛の巣が張り巡らされていたそこはすでに廃屋寸前。寂れた仏像が不気味にこちらを見つめていた。
四人は無人化した境内で、箱館までの道筋を詳しく計画するが、すでに左腕の噂は広まっており
追われ者、となっている伊庭が五街道を通ることは至難の業である。
「やっぱり船でしょう」
「そうだな…」
熱心に話しているのは鎌吉と中根で、伊庭はどこか放心していた。蜘蛛の巣が張り巡らされた窓から空を見る。
「…暑いな」
本山はそんな伊庭を心配そうに見つめていた。


夕時になり、顔の知れていない鎌吉と中根は食料調達のため寺を出た。
「先生のために上手い飯を作りますよ」
鎌吉の言葉にも、伊庭は力無く微笑んだ。



夕闇が辺りを包み、空気が冷たく辺りを覆い始めた。
8月の夜とはいえ、ただの廃屋ではそれなりに冷え込んだ。
「……なぁ、小太」
「なんだ」
愛用の刀を抱えて、伊庭は目を閉じた。

「俺は生来の江戸っ子だよ。それでいて武士だよ」
「うん」
何を言い出すんだ、と本山は首を傾げた。
「でも官軍に追われ、左手も失って、敗走する。無様だよなぁ。俺はそんな自分を生かしておくのは……恥だ。
 箱館までなんていけねぇよ。片腕の身で官軍の追捕を逃れるなんて無理だ」
「八郎…」
本山は伊庭がいわんとした意味を察したのか、表情を曇らせた。だが伊庭は続ける。
「これ以上、お前や鎌吉を道連れにするわけにはいかねぇよ。こんな廃屋でっていうのもなんだけど…お前、介錯……」
伊庭は刀を抜こうとした。だがそれは叶わず、伊庭の言葉は遮られた。
本山の素早い平手が伊庭の頬を弾き、大きな音を立てた。周りの鳥たちが一斉に飛び立つほどの。
「……小太」
「泣けよ」
「…」
「泣けばすっきりするんだよ!なんで、なんで、お前はそうやって……!」
本山は伊庭の首元に掴みかかった。
そしてその勢いのまま伊庭を押し倒し、戸板に打ち付ける。
「いてぇ」
「お前、昔、お父上が亡くなったときは俺の胸でわんわん泣いたじゃねぇか?
 なんで、変わっちまったんだよ!なんでお前はそうやって強がって、我慢ばっかりして……最期は死ぬのか?!」
本山が握りしめた手が、強くなる。
「格好悪くたっていいじゃねぇかよ!馬鹿野郎……ッ」
「小太」
絞り出すようにして吐き出した本山を伊庭は見据えた。
「それでも、守らなきゃいけねぇもんがあるんだよ」
「……意地か?誇りか…?」
「さあ…な。武士の矜持かな…」
伊庭が自虐的な笑みを浮かべた。すべてに絶望した瞳が、もう光を失いかけていた。

崩れたら、こぼれてしまう。
手を離せば、離れていく。
弾けたら、消えていく。

そんな感覚に、本山は襲われた。



覚えてるか?あのときの口づけは、三度目だった。
一度目は酒に酔って、お前が俺に口づけた。
二度目はお前が「小天狗」と呼ばれ出した頃、何となく二人で畦道を歩いていて
何となく目があって、何の意味もなく、口づけた。
お前は何も言わなかったし、俺も何も言わなかった。

でもわかっていた。
俺はあのときも、お前が消えそうだと思った。
名声と実力を手に入れて、俺の傍から消えるのだと思った。





「ん…ッ、ふ……!」
伊庭の右腕を押さえつけ、本山は四度目の口づけをしていた。
今までの比でない濃厚なそれは、伊庭を翻弄していた。
息継ぎを許さない、荒い、野性的な。
「…なに…すんだよ……」
「…消えるなよ」
「っ…なにが、……ッ、待て!」
本山は抵抗の出来ない伊庭の衣服を乱れさせ、その肌に触れた。
体毛の薄い伊庭の肢体は女のように艶やかで、男らしさなど感じられない。
本山を煽るには十分だった。
「馬鹿野郎…!何すんだよ、離せ……!」
伊庭の拒絶の言葉を聞こえないふりをして、本山は抵抗の出来ない身体を貪った。
確かめるようにじっくりと。
それでも焦る気持ちは抑えられず。
獣のように。
「馬鹿…ッ、痛…ッ」
爪痕を残して。
赤い印を刻んで。

どこへも行くなと。




いつの間にか。

どこかに彷徨ったかのように、不安定なすべてに伊庭は身を任せていた。
その浮遊感をつなぎ止めるのは、不思議と、時折感じる本山の熱い吐息だった。









古びた床板が軋む音と、あいつの吐息の暖かさだけが耳に残っていた。



キミガリ −君許− 4



すっかり闇に包まれた廃屋を出ると、とても夏とは思えない寒さを感じた。ぶるっと寒気が全身を走る。
本山は空を見上げる。気温は低いが天気は良いらしく、輝く星の光が少し目にいたかった。
「……はぁ」
本山は傍にあるどっしりと構えた大木にもたれかかった。
まだ、夢から覚めないみたいだ。
だが現実だ、という証拠にこの手のひらに伊庭の体温が消えなかった。
「…やっちまった……」
そのつぶやきが本音だった。
死にたい、と言う伊庭を止める方法など、あの激情した本山には思いつかなかった。
死んで欲しくない、と思うのは本山の私的な感情でしかなかったのだから。
力づくで生かすには、ああするしか、あのときは思いつかなかったのだ。
「単純だよなぁ」
思わず頭を抱えた。
でもその感情には欲情が混じっていた。
もう意識が薄れ力無く、倒れ込んだ伊庭に本山は労ることなく何度も抱き続けた。
嫌だという言葉に聞こえないふりをして。
「……最低だ」
もう親友なんていえないのかもしれない。


「本山先生」
苦悩する本山に耳慣れた声がした。ガサッガサッと足音が近づくとそれは明かりを差し出した。
「ああ、鎌吉か……中根さんはどうしたんだ」
「お知り合いに会ってちょいと別れました。あっしはそこらの町家で台所を貸してもらったんて遅くなったんで…」
細い明かりのなか、鎌吉の腕からは美味しそうな湯気が立っていた。
「上手そうだな」
「貸していただいた町家の奥様にも『あなた様は何者ですか』と尋ねられました」
「ははは」
海水をかぶり見窄らしくなった鎌吉の風貌は、料理人と言うよりもどこかの浮浪者に近かった。
その鎌吉が見事な包丁捌きを見せたものだから、町家の妻女も驚いたに違いない。
「それで伊庭先生は」
「あ、ああ……」
鎌吉の突然の問いに、本山は言葉を濁した。
すっかり気を失った伊庭は眠りこけている。疲れも溜まっていたのだろうが、身体への負担も大きかったはずだ。
伊庭を心酔している鎌吉に、まさか事実を伝えるわけにもいかず…本山は口ごもった。
「……実はあっし、半時ほど前に一度ここへ来まして」
「え?」
「その、ええ…まあ」
今度は鎌吉が口ごもる。
「最初は女人を連れ込まれたのかと思うておりましたが……」
「!」
本山は身の毛が弥立つ思いがした。どうやら経緯はすでに鎌吉に知られているらしい。
「……俺はとんでも無いことをしてしまった…よな」
「…へぇ…、まぁ、強要されたということならそうなりましょうが…あっしにはそうには見えませんで」
「え?」
「その、うっとりとなさっていらっしゃるような…。前から伊庭先生は見目麗しいと思うておりましたが
 こう、なんていうか…艶やかになって……その」
鎌吉は言いずらそうに続けた。
「先生が嫌がっているご様子なら、あっしも踏み込もうと意を決したのですがね。
 嫌がっているご様子でもありませんでしたので…あっしはお邪魔になるかと、うろうろと」
「そ、そうだったのか…」
少なくとも強姦にはならないのだろうか、と弱気な本山は首を傾げた。
しかし鎌吉はそれ以上何も聞かなかった。



古びた戸板の、ギシッと言う音が廃屋に響いた。
伊庭は重たい瞼をゆっくりとあけ、掛けられていた布団代わりらしい着物に気が付いた。
これは本山のものだった。
「……あ」
次第に暗闇に目が冴えていくように、段々記憶もはっきりした。
「そうか…俺は……」
本山に、抱かれた。身体のあちこちに残る痛みもそれを証明してくれた。
吐息も、体温も、すべて肌に染みついていて。
「夢じゃないんだな…」
思わず呟いていた。
だが、あのとき思い詰めていた「死にたい」という感情はすっかり消えていた。
誰かの足手まといになり、誰かに迷惑を掛けるのなら、潔く死んでしまえばいいとあれほどまで強く思ったのに。
どこか、頭がすっきりしていた。
「…そうか……」
本山の言葉が響いた。
「泣いたからか……」



伊庭が身だしなみを整え、重たい体を起こしたとき廃屋の扉が開いた。
「先生、お目覚めですか」
「鎌吉」
鎌吉のもつ蝋燭の仄かな明かりは、その後ろに本山がいることも確認させてくれた。
だが、本山はどこか伊庭と視線をはずしていた。
「町家の台所で作ってきました」
「上手そうだな」
伊庭は鎌吉が自慢げに見せた粥と二、三のおかずを見た。どれも伊庭の好物ばかりだった。



鎌吉が作った夕飯は、『鳥八十』で腕を振るっていたころの味に遜色なく、久々に良い食事をした、と
満足させてくれた。すると鎌吉がふいに厠に立ち、廃屋は再び二人になった。
「…大丈夫か」
本山は沈黙を破って尋ねた。それまでは一言も口を利いていなかった。
「ああ…」
「その、…気持ち悪かったら悪い」
「なにが」
「…その、中に出しちまったから…さ」
「バ、バカ!」
本山が顔を逸らし、伊庭は赤面した。
色事には慣れている方の伊庭だが、本山の口からそんなことを聞くと動揺せずにはいられない。
本山は伊庭とは違って、色里通いも滅多にせず初な奴だ、と思っていたのだが。
実際の手管はそうでもなかった…ようだ。
「…お前、てんで吉原に通わねぇと思っていたんだけど、もしかして陰間趣味だったのか?」
「ば、馬鹿野郎!」
今度は本山が慌てて怒鳴った。そして蚊が鳴くように
「俺は、……だから」
と答える。
「……何、聞こえねぇ」
「…なんでもねぇよ」
本山は口を閉ざしてしまった。




その夜遅く。
中根淑が道で出会ったという知り合いの姫路藩の藩士のもとから帰ってきた。
「門弟の大河内一郎を覚えていますか?今、木更津にいて…しばらくはそこに潜伏しないかという話を伝えられました」
中根は伊庭にとって同門の兄弟子で、昔からなにかと世話を焼いてくれていた。
武芸に秀でるというわけではなくどちらかと言えば文芸が得意な方でもあったから
昔「本の虫」だった伊庭は、よく彼から知識を学んでいた。本当の兄のようだった。
「大河内か…木更津で何を」
「無頼の門弟たちを集めて再起を図ろうと」
「馬鹿な……」
「それを止める意味でも、そしてここは危険という意味でも、そちらに移りましょう」
中根の強い言葉に伊庭はうなずいた。だがすぐに
「他の隊士はどうしようか」
と問いかけた。
美加保丸に乗った遊撃隊隊士たちは、官軍に悟られることを畏れ、ちりぢりに散ったが伊庭の指示を待っていた。
彼ら全員を匿うのは至難の業である。
「俺がやろう」
きっぱりと言い切ったのは本山だった。
「小太…」
「状況が落ち着いて、北に転戦できる支度が整うまで俺が遊撃隊をまとめる」
「そういっていただけると、安心します」
本山の心強い言葉に中根はホッと息をおろした。
だが伊庭は違った。
なぜだ、と本山を見つめる。

本山は何も答えなかった。





「いいか、馬鹿なことだけは考えるなよ」
何度も念押しされ、本山は数少ない遊撃隊の隊士たちを連れ、江戸へと向かった。
段々小さくなる彼の背中は、朝霧のせいでよけい霞んで見えなかった。



キミガリ −君許− 5



夕暮れ時。中根は飯を調達するため、目立たないように街に出かけた。
すると強ばった面持ちで、町の噂話を聞きつけてきた。
「大河内が捕縛されたそうです」
顔を顰めて、兄弟子の中根が重々しく伊庭に告げた。山道を越え、目的地の木更津はもうすぐだった。
「…大河内が」
「すでに官軍に捕縛されてから、5日も経つそうです…!無念だ…」
反乱軍の挙兵の首謀者を官軍が生かしておくとは思えない。
伊庭の頭に大河内の顔が浮かんだ。人懐こい笑顔の、野太い声で「若先生、若先生」と慕っていた。
大柄な男で、心が広く、時論を語るときは汗水を流して語っていたものだ。
「先生…」
鎌吉が心配そうに伊庭の顔をのぞく。伊庭は唇を噛みしめていた。
自分が一足早く到着していたならば、こんなことにはならなかったはずだ。
悔やんでも悔やみきれない。
伊庭が己の唇からにじむ血に気が付いたのは、しばらく後だった。

「私の友人が木更津の中島の方にいます。そちらを頼りましょう」
中根は力づけるように言い放ち、歩を進めた。彼らしくない、どっしりとした歩調で。
ふと、本山のことが浮かんだ。
「馬鹿なことだけは考えるなよ」
本山の鋭い眼光が、焼き付いている。
「……死ねないな」
せめて本山にもう一度会うまでは。



その後立ち寄った茶屋で三人は正体を隠すため、変装を改めた。
伊庭の左腕の話はすでに広まっているようで、茶屋の主人も驚いた顔をした。
そこで伊庭は味噌商人、中根は塩商人になりすました。鎌吉はこれまでの服装を変えずとも料理人であった。
「先生、似合ってますな」
鎌吉は笑った。
「言うなよ。俺だって意外に似合ってるから困っているんだ。しかし、こんなことが知れたら生涯最大の恥だな」
嘯くと中根も苦笑した。
中根は失った左腕に傘をくくりつけた。折しも、関門を抜けるときには雨が降っていた。




木更津 中島。
「中根さん!」
立派な邸宅の裏口から伊庭らを歓迎して迎え入れたのは、伊庭より少し年上の二本差しだった。
闇の中で到着したのだが、伊庭らの気配を察知したのか、彼は戸口で待ってくれていたようだ。
「乙骨さん。久々だ」
中根は彼を知っているようだったが
「さ、中へ」
彼と再会を喜ぶ暇などなかった。三人を戸口の中へと案内し、客間へと通した。

乙骨太郎乙。従士目付という三十歳中頃、という彼は蝋燭一本の光の中で、深々と頭を下げる。
「私は乙骨太郎乙と申します。名高い伊庭八郎先生にお会いできて、光栄です」
その声は凛としていた。
蝋燭一本で彼の顔はよく見えないが、誠実で実直。そんな印象だった。
「こちらこそ、助けて頂いてありがたいことです。だがあなたも知っているとおり、私は追われ者。
 もし官軍に知られるとあなたの立場も危うくなるが……」
なぜ、と伊庭が問う前に彼は答えた。
「友誼、としかいいようがありません」
そして乙骨の表情が和らいだ。
「私と中根さんは共に英語を学んだ仲なのです」
「英語…」
「エゲレス語です」
乙骨が笑った。伊庭は納得したが英語もエゲレス語もしらない鎌吉は、ポカンと口を開けている。
「初めはそう仲が良いわけではなかったのですが、隣に座った彼のエゲレス語の発音があまりにも悪くて。
 私まで移ってしまいそうになったので、『これはいかん』と思い、指導してやったのです」
中根は恥ずかしそうに頭をかいた。
「ただ教えてやるうちに段々と彼の方が上手くなりまして。これまた『いかん』と思い直して
 もう彼に教えてやるのはやめにしました」
「おいおい、それは聞いてない」
中根が慌てて突っ込むと、乙骨はにやりと笑った。伊庭は中根の隣で吹き出して笑っていた。
「まあ、そんなわけでして。あなたを匿うことに何をためらうことがありましょうか。
 私のことは構わず、まずはごゆるりとお休みください」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
伊庭は心からの信頼を、乙骨によせた。


伊庭たちのことはすでに乙骨家の者が知っていて、親切にも夕飯や寝床を準備してくれていた。
「伊庭先生」
湯を頂き、伊庭が借りた寝所へ向かおうとすると部屋の中から声がかかった。
聞き慣れない、乙骨のものだった。
「はい」
音を立てないように障子を開けた。乙骨は神妙な顔持ちで伊庭を見つめていた。
伊庭はとにかく置かれていた座布団にすわり、乙骨と相対した。
「なにか?」
もしや、出ていってくれ、などと言われるのではないかと冷や汗を流したが、彼の目はもっと違う
輝きを放っているように伊庭には見えた。
「…いつまで、いや…どこまで、戦われますかな」
「……」
彼の質問はまっすぐだった。何の飾りも下心もない。
「…どこまででも。私が死ぬまで」
そんな彼への礼儀としてきっぱりと言い切った伊庭だが、乙骨はその答えを予想していたのか間髪開けず
「死ぬおつもりか」
と問いただした。
伊庭は口をつぐんだ。
なぜ戦うのか、なぜ死ぬのか。…そんなことは一番、伊庭が知りたかった。
「…私は先日の上野での彰義隊蜂起の折り、その応援のためにおじとともに奔走しました。
 ですがおじは官軍に追われ、今も静岡に潜伏しております。私は命からがら戻ってきたのです」
乙骨は遠い目をした。
「あなたもすでにご存じのはずだ。もう勝てる戦などどこにもない。いつになろうとも、どこへ行こうとも。
 ガトリング砲に武士は必ずしも平伏すのです」
幕臣としてふさわしい目をもっている。
伊庭は乙骨をこう認識した。
だが、彼の意見に屈することなどできなかった。意地か、誇りが邪魔をして。
「それでも、戦うのは…忠義のためとしか申し上げられません」
「伊庭先生、幕府はなくなったのですぞ」
乙骨の言葉は、ひどく現実的だった。
「あなたが忠義を尽くす場所はもうないのです、たとえこの戦に勝ったとしても」
「……」
「戦をしている場合などでは、ないのです…」


「私は来年、静岡藩に復士し駿府に行きます。駿府にて新しい学問と技術を学ぶための兵学校づくりに
 参加する。そして、その場には是非、中根にいてもらいたいと思っています。
 彼の知識と学識が大いに役に立つからです。おわかりだろう思いますが中根は『武』より『文』の人です。
 あなたの人生につき合うよりも、よっぽど合っている」
乙骨は伊庭がもう何も聞かないことを知っていた。
すでに、初めから。
「…中根は私にとって家族同然の兄弟子です。彼が犬死にするのは私も耐えられるものではありません。
 中根を連れていっていただけるのなら、是非、そうしていただきたい」
伊庭は微笑んだ。
これに対して乙骨は、寂しく笑った。
「…この学校に、あなたも参加して頂きたかった」
「申し訳…ありません」
そして乙骨は何も言わず、伊庭の失った左手を見つめていた。







もう何も聞かないで。
答えることが出来ないから。



キミガリ −君許− 6



本山は江戸に戻っていた。
遊撃隊の隊士たちは皆有能で、伊庭の代わりとなった本山の指示に素早く、従順に、従った。
途中、官軍に見つかるのを畏れたが無事に幕府軍に合流。北へ転戦する彼らを見送った。
「伊庭隊長に、再びお会いできることを願っております、とお伝えください」
「どうかご無事で」
若い隊士たちが本山にそう、伝言した。


本山は横浜に向かった。父の古い知り合いである幕臣を訪ねるためだった。
条約によって開港された横浜は活気にあふれ、多くの船が停泊していた。
商人が扱う品物も珍しいものが多く、派手な才色が目を引いた。
賑わう市をぶらり、と歩く。和服、洋服と様々な衣服に身を包み、人々が行き交っていた。
顔の知られていない本山を追う者など、誰もいない。
(戦なんて、どこ吹く風……だな)
伊庭の置かれた状況とあまりにも正反対で、虚しくも感じられた。
(あいつも……吹っ切って、こんな生活を送ればいいのに)
新しい物好きの伊庭なら、ここでの生活を気に入るだろう。異国からの美味い食べ物もたらふく食べられる。
頭もいいから、西洋のことを勉強すれば重宝されるだろう。
…何不自由ない生活を送れるだろうに。
「……くだらないことを、考えたな」
本山は己にため息を付いた。
何がどう転んでも、伊庭は戦うことをやめないだろう。それは本山が一番知っていた。
「…バカだよな」

本山がそんな横浜をぶらぶら歩いていると。
「ん?」
市で珍しい洋服や小物を並べている雑貨の店を見つけた。
女たちが群れたがり、きゃあきゃあと騒いでいる。品物を手に取り、「綺麗ね」「可愛いね」と言い合う。
彼女たちは銀製の小さな輪状のものを手に取り合っていた。
なんだろう、とのぞきこむと。
「本山さん」
ポンッと男の手が、肩に触れた。
「尺先生」
男は尺振八(せき しんぱち)という。本山と同じくらいの背丈だが、年は本山よりも随分上で
無骨な雰囲気と生真面目な性格が同居している、そんな人だった。そして本山が探していた元幕臣である。
彼は元々高岡藩の医者の息子として生まれ、尺家に養子に入り、中浜万次郎(ジョン万次郎)に英語を学んだ。
江戸城無血開城後、米国大使館の通事を勤める傍ら、英語塾を開いている。
横浜でも有数の、国際人だった。
「お久しぶりです」
「久しぶりだな。こんなところで会うとは思わなかった。ところで何を見ているんだ?」
尺は本山がのぞいていた店に目を向けた。そして笑った。
「ああ、指輪か」
「ゆびわ?」
「ああ、こうやって指にはめるんだ。ちょっとした飾り物だよ」
尺は己の指にそれをはめて見せた。銀の光沢が光に照らされて綺麗だった。
「へぇ」
「誰か買ってやりたい人でもいるのか」
「え?!」
カッと真っ赤になった本山を、尺はさらに笑った。
「こういうものは男女の仲で同じ指にはめたりして楽しむものなんだよ。たいてい男が女に贈ってやるものでね」
「は、はははは。そ、そうなんですか。いや、そんな人なんていませんよ」
「その年になって好い人もいないのか」
尺のからかいに、本山は笑うしかない。女はいないにせよ、男はいるのだが。
まさかそれを尺に話すわけにもいかない、と本山は内心思っていたのだが。



市を離れ。市に比べ閑散とした畦道を歩いた。
「そういえば、伊庭の若先生のことを聞いたよ」
尺は急に声を顰めた。
尺は江戸の佐久間町に生まれ、伊庭道場は目と鼻の先。伊庭のことをよく知っていた。
「ああ、腕のことですか?」
「それもだが…。今は木更津の中島に潜伏しているそうじゃないか」
「え?」
本山は驚いた。確か木更津の大河内の元に向かう、と聞いていた。
「同門の挙兵した首謀者が官軍に捕縛されたそうだ」
「な…」
大河内が捕縛された、と本山は聞いていなかった。官軍に捕縛されたとなると処刑は確実。
本山は唇を噛みしめた。また、きっとあいつは……。
「知り合いが小者を通じて知らせてきた。きっと本山さんがこっちに来るだろうから、と。
 伊庭の若先生の計らいだったそうだ」
「そうですか…」
本山はほっと胸を撫で下ろした。まだ伊庭は、前を向いているらしい。
「今は中島の乙骨太郎乙という者の家に潜伏しているそうだ。近日中に私の家に来ることになっている」
「しかし、それでは尺先生にご迷惑が……」
尺は笑った。
「なに。面白そうだ、と思ったまでよ」
江戸生まれの江戸っ子は、得意げに微笑んだ。


尺の家に案内された本山は目を見張った。数名の生徒たちが正座し、声を合わせて聞いたことない言葉を合唱し
真剣な顔で繰り返している。
「あれはエゲレス語だよ」
「はぁ…」
「ここは開港地だからね。エゲレス語を学ぶ者は少なくないよ」

「ようこそ、お越しくださいました」
尺の妻、キクは和服で本山を迎えた。美しい薄桜の着物は彼女によく似合っていた。
尺の家は英語塾を開いている、というわりには日本家屋の荘厳な作りである。広い庭はちゃんと手入れされていた。
キクは客間に本山を通し、茶を出した。
そしてふと、本山が気が付いた。
「奥方、その指輪は…」
「ああ、これ」
キクの左手の細い指に、銀の指輪が飾られていた。先ほど見た指輪とは少し形が違う。
キクは微笑んだ。
「これは主人が贈ってくださったのです。異国では夫婦で同じ指に、同じ指輪をするのが習慣だとかいって…。
 ここにね、真珠が埋められているの。綺麗でしょう」
指輪をよく見ると、そこには美しい真珠がきらきらと輝いていた。
「綺麗ですね」
本山は思ったままを口にしていた。
「ええ。とても嬉しく思いました。本山さんも好いたお方に贈ってみてはどうでしょう」
「ははは……」
夫婦で言うことは同じなんだな、と本山は苦笑した。



「本山さん。若先生はどこまでいくのかな」
尺はキクが部屋から出ると、しみじみ語った。だが、その顔はもう結果を知っていたようにみえた。
「おそらく…北へ向かい、遊撃隊と合流するのだと」
「そうか…いや、そうだろう。ところで君はどうするつもりだ」
「え?」
尺が意外なことを聞いた。
「評定所の書物方をやめたそうじゃないか。若先生に付き添うからとあっさり。……君も北へ向かうつもりなのか?」
「……そうです」
「しかし、君も見ただろう、横浜の様子を。今は戦っている時ではない。
 日本を諸国が狙っているのだ。銃とガトリング砲をもって、この地を征服しようとしている。
 それに刃向かうには、横浜のように日本が近代化し富国強兵を目指すしか道はない」
尺は言い切った。
「今、国内で戦う意味などない」


「それでも、あいつが戦うというから、俺はつき合うつもりでいます」
戦うことに意味などない。

意味などいらない。

あいつがいるなら。







己自身にその答えを求めることはできなかった。



キミガリ −君許− 7



本山と再会したのはもう夏が終わろうか、という頃だった。
「小太」
「八郎…無事だったみたいだな」
伊庭は心の底から己が安心しているのを感じていた。それは本山も同じだったようで彼も笑っていた。

横浜の尺邸にたどり着いたのは、夕方だった。もちろん中根、鎌吉も同行し乙骨太郎乙も伴った。
乙骨の計らいで横浜までは川を下り、駕篭に乗り、と随分早く到着することが出来た。
「やあ、若先生」
伊庭に明るく声を掛けたのは尺だった。
「尺先生。お久しぶりです。この度はお世話をかけます」
「いやなに。それは家内に言ってやってくれ」
隣で控えていた妻女のキクは、微笑んだ。
「とんでもない。お客様をお迎えするのは楽しゅうございます」
「お世話になります」
キクの綻んだ顔に、伊庭は安心した。


キクが台所で夕餉の支度をし、鎌吉がそれを手伝う。尺は乙骨が話す兵学校の話に興味を示し、中根はそれを傍聴している。
そんななか、伊庭は小太を中庭に連れだした。
尺家の中庭は、英語塾を開いている、という割には古典的な和風庭園になっている。
手入れが行き届いた庭は夜でもその重厚な雰囲気を醸し出していた。
「元気だったか」
最初に口を開いたのは本山だった。
伊庭が本山を連れだした割には、口を開こうとしなかったからだ。
「ああ。乙骨さんには親切にしてもらったよ。初対面の俺に…」
「そうか。まあ、気のよさそうな人だからな」
「……ああ」
伊庭の返事は歯切れが悪かった。
「……どうかしたのか」
彼らしくない歯切れの悪さに、本山はなにか嫌な予感がしていた。
すると伊庭が、意を決したように呟いた。
「……中根さんは、乙骨さんと一緒に兵学校に参加することになった」
「え…?」
伊庭はうつむいた。
「確かに中根さんは『武』よりも『文』の人だから、そっちのほうが合っていると思うんだ。
 俺のために犬死になんてさせられない……。乙骨さんからそういう話をもらったんだ」
「ちょ、ちょっと待てよ」
本山は伊庭の肩を掴んだ。
「でもお前の兄貴分だろ…。それにあの人はお前に誰よりも世話を焼いていたじゃないか」
「だからこそ、だよ」
伊庭はうつむいたまま続けた。
「俺はもう…戦うことをやめられない。でも、中根さんはそうじゃない。
 大切なひとだからこそ……道連れになんてできないんだ」
「……」
伊庭の語尾が震えていた。
中根は昔から兄として、伊庭を見守っていた。
早くに、母を亡くし父を亡くした伊庭にとって家族以上の存在であったことは間違いない。
そしてそのことを本山はよく知っていた。
『世話が焼けるよ』と中根は疲れて、しかし嬉しそうに言っていた。
「…だからお前も、同じ」
「え?」
しばらく回想に耽っていた本山は、伊庭の言葉を聞き逃した。
「俺は、お前まで…道連れに出来ない。だから…お前も選んで欲しい」
「なにを…」
「……何もかも」
伊庭はそれだけをいって、本山の前から踵を返した。伊庭は、一度も本山と目を合わせなかった。
そして、その背中はとても小さく、本山に映った。



庭を後にし、
「きゃ…っ」
「あ、失礼」
伊庭が早足で客間に向かおうとしていたとき。角でぶつかった相手はキクだった。
その手には御盆と茶が乗せられていたが、間一髪、零さずにすんだ。
「すみません」
「いえ、こちらこそ。先生こそ、お怪我はありませんか」
キクはちらり、とぶつかった左腕を見た。刹那、痛々しい顔になる。
それに気が付かないふりをして、伊庭は微笑んだ。
「大丈夫ですよ。お茶なら、運びましょうか」
「い、いえ。先生はごゆるりとお休みください。夕餉ももう出来ますので」
キクは慌てて小さく頭を下げる。
小柄な彼女は美しい顔立ちをしている。尺に身請けされた、と聞いていたが品もあり礼儀も備わった
なかなかいない女性である。
「夕餉の支度も大変でしょう」
「いえ。鎌吉さんが手伝ってくださるので。それにしてもあのお方の包丁捌き、ご立派なものでした。
 わたくしもご教授賜りたいと思っておりますの」
「へぇ」
近くの台所から、リズムのいい包丁の音がする。どうやら鎌吉によるものらしい。
二人は客間へと歩き出した。
そしてふと、伊庭は目を留めた。
「奥方。その指の金具は…?」
「まあ、先生も同じことをお聞きになりますのね。これは指輪というものですの」
キクは誰とも言わず微笑んだ。
「指輪?」
「ええ。西欧の習慣で夫婦でそろって同じ指にはめるものですの。わたくしの主人が贈ってくださいました」
新しい物好きの尺らしい、と伊庭は微笑んだ。
「素敵ですね」
「ええ」
キクはふふ、と意味ありげに微笑んだが、伊庭はその意味を聞くことは出来なかった。

「若先生。この横浜で異国の船にのって北へ向かうのはどうだろうか」
客間へと落ち着いた伊庭に、尺は早速提案した。乙骨も、中根も同意しているようだ。
「異国の船…ですか」
「異国船の往来もはげしい横浜ですから、それなりに金を積めば乗せてくれるでしょう。
 若先生のお体ではとても海を使わずに北へ向かうのは難しい」
「そう…ですね」
尺はきっぱりと断言してくれたことで、伊庭も決心が鈍らないですんだ。
横浜にいても、彼の江戸っ子気質は抜けていないらしい。
「私も駿府へすぐに移住することを考えています」
乙骨は続けるように述べた。
「そうですか…」
伊庭は中根にちらり、と目を向けた。彼も決心を固めているようで、その表情も固かった。
「異国船には私が交渉します。めぼしい船が見つかるまで、若先生はこの家で過ごしてください」
「恩に着ます」
尺は頭を下げた伊庭に頷いた。
「面白いと思ったまでだよ、若先生」
その言葉に、また安堵した。


夕餉が終わり、キクが忙しく鎌吉を伴って片づけに勤しんでいる頃。
「ちょっといいか」
と、今度は本山が伊庭を連れだした。
真っ暗になった空の元、本山は火を借りて中庭に繰り出す。
「さっきの答えだけど」
ギクッと伊庭の身体が震えた。
本当は答えなど、要らなかった。
できるなら、「一緒に来て欲しい」と縋って、泣きついて、叫んでしまいたかった。
でも出来なかった。
出来るほど、己に自信がなかった。
「あのさ、尺先生にも同じことを聞かれたけど、もしかして陰謀…とかじゃないよな?」
「え?」
「俺がこの先どうするのかって。同じことを聞かれたよ」
笑った本山に、伊庭はポカンと口を開けた。
「確かに俺にはお前ほど、立派な誇りも意地もないし幕府への忠誠心もないし…。
 お前に出会っていなかったら、俺はもしかしたら新政府軍に身を投じたかも知れない。
 だけど、結局こんなとこまで来ちまったのはさ」
本山は伊庭の右手を掴んだ。
「お前がいたからかな」
「……え?」
小さなろうそくの光で見えた本山の表情は明るかった。
「俺はもう決めてる。お前につき合うって」
「……ッ」
喉元に、なにかがつっかえたみたいに。
何も言うことが出来なかった。
言いたいことは山ほどある。それで本当にいいのか、後悔しないのかと。
けれど、紡ぐ言葉が見つからない。
嬉しい、と。
「俺はお前を選ぶよ」
欲しい言葉はそれだった。まるでそれを知っていたかのように、本山は言う。
もうこいつには敵わない。
そう思った。
「…ありがとう」
涙声で、聞こえたかどうか、わからない。




「若先生。お体だけは気を付けてください。また、会える日を願っております」
中根は涙ながらにそう言った。翌日の昼のことである。
乙骨と共に横浜を去った中根に、もう二度とあえないのだと、伊庭はうっすら、感じていた。
それでも
「また」
と見送った顔は、ちゃんと明るかっただろうか。
中根は安心できたのだろうか。
その答えは、伊庭には分からなかった。



後。
沼津城あとに作られた沼津兵学校は、西洋式軍制による陸軍仕官の養成を目的に設立された。
教授には中根を初めとして多くの幕臣が名を連ねた。
明治2年のことである。







わたくし、高梨哲四郎が尺先生の英語塾に入門して数ヶ月たった頃。
ある日やってきた見目麗しい若者のお話でございます。



キミガリ −君許− 8



彼がなぜ、突然に居座ることになったのか、塾の誰もが知らなかったのです。
塾生の一人が尺先生にお訊ねしたことがあるのですが、先生はきっぱりと「客人だ」と言い切りました。
またある一人は奥方であるキク様にお訊ねしましたが、曖昧に微笑まれて「お客様です」と言いました。
それからもう一人、最近働きにきた下男のことも噂になりました。
奥方に台所を任された下男の料理というのが、とても美味いのでございます。
どこかの料理人であるのか、と誰かが尋ねると下男は曖昧に頷きました。
ですがどこの料理人か、と尋ねると何もいわず、岩のように口を閉ざしました。
なにかヒミツがあるに違いない。塾生の間では噂になりました。
ちょうど見目麗しい若者と同じ時にやってきたものですから、彼の連れだ、ということで話がまとまりました。
しかしこの若者について、奇妙なことがもう一つあったのです。
いつも左手を懐手にしていたのです。
歩くときも、座っているときも、本を読んでいるときも。
ですから塾生の間では『左手がないのではないか』と噂になりました。
しかし、尺先生に問うことは誰もできなかったのです。

ある日、わたくしはその若者が尺先生と相対して話をしているのを見かけました。
しかしやはり彼は左手を懐手にして談笑しているのです。
尺先生が去り、わたくしは若者に問いつめました。
『先生とお話をしているのに懐手にするとは失礼ではありませんか』
若者は微笑みました。悲しく、今にも泣きそうに。
わたくしは自分が悪いことを言っていないはずなのに、悲しくなりました。
なにか、悪いことを言ってしまったような気がしたのです。
すると若者は
『申し訳ありません』
とわたくしに深々と頭を下げられました。
わたくしは何も言えず、慌てて部屋を後にしたのです。

しかし、その懐手の話は塾生の間で噂から、問題へと密かに変わっていったのです。
若者は年は塾生と変わらないのに、尺先生に懐手で相手をし、さらには尺先生に『若先生』と呼ばれておりました。
それを気に入らない塾生たちの何人かは、若者を憎んでいたのです。
そのころその若者は塾にもなじみ、時々尺先生の英語の講釈にも顔を出していたので
わたくしたちと距離が縮まっていたのです。
それを良いことに、若者を憎む何人かは若者にこう言い放ちました。
『この鶏の羽をむしってみろ』
と鶏を渡したのです。
塾では分担でそういった雑務をこなしていたのです。
塾生は若者にそれを押しつけ、『左手がないのではないか』という疑いを試すために
左手なしでは出来ない鶏の羽をむしることを押しつけたのです。
若者は静かに、何も言わずその鶏を受け取りました。


わたくしは戸口の後ろで彼を見守っていました。
悲しいかな、わたくしには勇気がなく手伝ってやろうにも出来なかったのです。
若者は鶏を足で押さえ、懸命に羽を向いていました。
それでも懐から手を出すことはありません。
わたくしは彼に左手がないことを確信いたしました。それでも手伝うことが出来なかったのです。
すると勝手口から奥様のキクさまがやってこられました。
きっと塾生の会話を聞いていたのでしょう。
悲しく微笑まれその羽を代わりにむしったのです。
若者はむしられた鶏を受け取ると
『ありがとうございます、ありがとうございます』
と深々と頭を下げられました。奥様が慌てられるほど、頭を下げられました。



しかし、彼の左手の噂は消えることはありませんでした。
傷口を見よう、と何人もの塾生が突然彼に襲いかかることもあったのですが、彼は軽々と身をかわし
その傷口を誰にも見られることはなかったのでございます。
その動きは滑らかで、流れるようでございました。
きっと凄腕の剣客なのだろう、とわたくしはおもっておりました。


そんな若者には時々客人が訪れておりました。
その客人は三日に一度はやってきて『元気か』と人懐っこい笑顔で笑うのです。
見目麗しい若者とは反対に、彼は若者よりも大柄で男っぽい顔をしておりました。
若者も気を抜いた顔になって微笑まれました。
客人はいつも手に、古本を数冊、もっておられました。
若者がいつも本を読んでいるのですが、決まってこの客人が持ってこられた本でした。
『何だよ、また持ってきたのか』
と若者は憎まれ口を叩くのですが、顔は嬉しそうに笑っておられます。
きっと仲の良いご友人なのでしょう。
『そんなことをいって、もう全部読んでしまったのだろう?』
『まあな』
と二人で笑っておられました。

わたくしは段々と若者と親しくなりました。
わたくしは尺先生同様、生来の江戸っ子でございます。その若者に興味を引いたのです。
そのことをよく思わない塾生は多くおりましたが、それに勝るほどわたくしは彼に興味を持ったのです。
するとやはりわたくしが思った通り、彼はとても気さくでさわやかな人物でありました。
『私は昔、剣よりも本をよく読む、本の虫だったんですよ。
 だからこうしていつも本を持ってきてもらうあいつには悪いが、すべて読んだことがある。
 そんなことをいったらあいつは拗ねるから、言わないんですがね』
わたくしは若者が客人から受け取った本を何冊かお借りしたことがあります。
その中に『二葉集』という本がありました。
その本にある仮名交じりの和歌が挟まっておりました。

あめの日は いとど こひしく思ひけり 我がよき友は いづこなるらめ

我がよき友、とはきっと客人のことであろうと、わたくしは思っております。
わたくしはそのことを若者に訊ねることはいたしませんでした。
しかし若者にその本を返したときに、彼は恥ずかしげに微笑まれました。
『内緒にしておいてください』
と。
そのお顔はどこか、赤く熟れている果実のようで…。
こちらまで照れてしまったものです。


それから一ヶ月が経ち、わたくしはある日、若者と客人が一瞬、口づけをかわしているのを見たことがありました。
わたくしは慌てて目を逸らし、急いで廊下を渡りました。
なるほど、お二人はそう言うご関係だったのか、と妙に納得してしまいました。



それから数ヶ月後。
わたくしの前から急に、若者と、下男が去っていきました。
ある朝、急にいなくなったのでございます。
尺先生と奥方はなにもおっしゃらなかったから、彼らが去っていったのを見送ったのでしょう。
わたくしは寂しく思いました。
せめてなにか一言、と悔しく思ったものです。



しかし今の世になり、わたくしは彼があの剣豪伊庭八郎だったのだ、と聞かされたときは
それはそれは驚きました。
そのころ彼の風聞はすさまじくひどいものでしたが、なぜだかわたくしのあの方に思う気持ちは
今でも、さわやかな夏の香りがいたします。
刹那、訪れる涼やかな風の薫りがするのでございます。








驚くほど。
自分が弱い人間だと言うことを知っていた。



キミガリ −君許− 9



もう横浜は明治の冬を迎えていた。
慶応から明治へと9月に改元され、人々は新しい世であることを段々と意識し始めたようだ。
横浜も西洋化が進んでいた。
「……もう、俺たちも時代遅れかな」
自嘲気味に呟いた伊庭の言葉に本山は笑った。
「流行遅れもいいとこさ。今更だろ」
悲観的にならず、笑ってすます本山に伊庭は安心した。


尺邸に居座ってもう三ヶ月ほど経つ。
何度か尺から異国船の知らせがもたらされたのだが、すでに新政府軍と交易をしている船が多いようで
なかなか蝦夷まで行く異国船は見つからない。
時だけが過ぎていた。

「じゃあ、もう行く」
「…ああ」
本山は立ち上がって別れを告げた。
三日に一度は訪れる二人の時間が、何よりも伊庭を支えていた。
尺の英語塾生とはなかなか折り合いが合わず、いつも気の抜けない生活を送っていたからだ。
もちろん尺夫妻には親切にしてもらっているが、何よりも甘えられる相手、といえば本山だった。
「また来るよ」
「…ん」
そして本山はいつも伊庭の首筋に小さく口づけしていた。刹那触れるその部分がいつも帰り際に熱くなる。
それを待つかのように。

かといって、伊庭と本山の関係が変わったわけではない。
親友以上の関係になってしまったのはあの夜以来、確かなことだが
お互いの思いを睦み合ったり、身体を重ねたりするわけではない。
むしろお互いの胸中が今までになく、分からない状態になっているというほうが強い。
伊庭は帰り際に本山が口づけるのは、きっとジンクスのように思っている。
いつもその熱さに心付けられ、「死ぬなよ」というあの言葉が響いてくる。
お守りのように。


11月中旬。
「若先生、船が見つかったよ」
晴れ晴れした顔で尺が伊庭の部屋(もとは客間だが)に顔を出した。
ちょうど本山が訪れていた時で、二人で顔を見合わせた。
「本当ですか」
「ああ。箱舘にいくイギリス艦に私の知り合いがいてね。請け負ってくれた。ただ……」
「え?」
尺が急に言葉を濁した。本山はその意味が分からず微笑んだまま硬直したが、鋭い伊庭は
「金ですね」
と言う。すると尺も頷いた。
「50両という金を要求してきた。少し時間がかかるが必ず用意しよう」
「いえ、そこまでしていただくわけにはいきません」
尺に、きっぱりと伊庭は言い切った。
「尺先生にはただでさえお世話になっている身です。
 反逆者である私を匿い、こうして客として迎えてくださっている。それ以上ご迷惑をおかけするわけにはまいりません」
「しかし金を頼る相手がいるのかね。お父上は駿河に行かれているのだろう」
「…あります」
伊庭はしばし逡巡して、それでもきっぱりと言った。


尺が部屋を出ていくとすぐに伊庭は机に向かった。墨を擦り、紙を広げる。
だれかに手紙を書くようだ、と思った本山は隣に座りその筆を見守る。
「実家の方に手紙か?」
「いや。道場も門下生が減り、資金繰りが厳しいはずだから家には頼めない」
「なら、どこへ…」
伊庭はすらすらと筆を進め、最後に宛名を書く。その筆には少し躊躇いが見られた。
「おい。遊女に金を頼むのか?無理な話だぞ!」
書かれた宛名に本山は思わず声を荒げた。
相手は小稲と書かれていた。
小稲は本山も顔見知りの吉原・「稲本楼」の太夫である。
伊庭はよく金と時間があればこの小稲の元へ通い、二人の仲は周りからも認められていた。
あのころは伊庭も羽振りがよく、地位もあった。
だが今は状況が違う。
「あのころは馴染みの客だったとは言え、もう昔の客にそんな大金を出すことができないだろ!」
「大丈夫だから。いいからこの手紙を小稲に届けてくれ」
伊庭は墨の乾いたその手紙を本山に渡す。
本山は顔を顰めながらもその手紙を受け取った。
「…無謀だ」
「無謀じゃない」
伊庭はギュッとその手紙を本山の手に握らせた。
「頼む」
言葉に強さはあったものの、伊庭の顔も冴えなかった。




本山が吉原に着いたのはその晩である。
幕府直轄の遊郭はもう廃れてしまったか、と思えばそうでもない。
幕府が滅びたとはいえ、男の欲望が消えるわけではなく依然と変わらぬ様子だ。
夜になるとドンチャン騒ぎで、昼よりも明るいのではないか、というほど提灯の光が眩しい。
もともと本山はあまり吉原に出入りすることがなかったので、余計にそう言うものが眩しく見えた。
そのなかで「稲本楼」もいつもと変わらぬようすで佇んでいた。
「懐かしいな…」
まるで時間が止まっているかのように、あのころが鮮明と思い出される。

小稲とは何度か面識があった。
伊庭が無理矢理本山と一緒に訪れたことも多々ある。
女にさほど興味がない本山だが、「稲本楼」は酒も料理も絶品でただ飲むだけによく訪れていた。
そんな本山を見世の主人もそして小稲も覚えていたようで、すぐに小稲に会うことが出来た。
「おひさしゅうございます」
小稲は深々と頭を下げ、微笑んだ。
小稲は太夫、という遊女で最高の地位を得ているように、とても気品がある美人である。
目元に泣き黒子があるのも特徴だった。
「ああ」
「…伊庭先生のお噂も聞いております。腕を切られなさった…とか」
小稲は顔をゆがませた。
「ああ、それなら大丈夫です。あいつも右手があるから平気だと言っています」
「…先生らしい」
小稲は安堵したようにほっとため息を付いた。
それまで緊張していた表情が溶けて、懐かしい雰囲気を漂わせる。
「それで今日は…?」
小稲は首を傾げながら訊ねた。「稲本楼」に本山一人で来ることは一度もなかったから
小稲も不思議に思っているのだろう。
本山は少し躊躇いながら、懐から手紙を出した。
本山はふいに、この手紙を破ってしまいたい衝動に駆られた。
目の前にいる小稲は伊庭の寵愛を受けた女である。それは身近にいた本山が一番知っている。
そして一番伊庭に頼られている人間…。
「…伊庭からです」
「え…?」
虚をつかれたような表情になって、小稲はしばらく手紙を見つめたまま放心した。
「…先生が?」
「ええ」
小稲に手紙を握らせて、本山は運ばれた酒に手を着けた。
小稲がゆっくり、ゆっくりと手紙を開いていくのを見守りながら。
すると小稲の表情が段々と崩れていくのが分かった。
一文字一文字を確認するように読み進め、ポタポタとその手紙に涙がこぼれた。
「……ッ」
そしてついにこらえきれなくなり、小稲は手紙に顔を沈め泣き崩れた。
「…小稲、さん?」
「姐さん?姐さん?」
傍にいた禿も心配そうに小稲の表情を伺うが、しばらく小稲の表情を知ることは出来なかった。

しばらくして落ち着いた小稲が「はしたないことをしました」と頭を下げた。
手紙を丁寧に畳んで大事そうに包み込んだ。
その表情は落ち着きを取り戻したようで本山も安心した。
「50両は明日までになんとかします。ご安心ください」
「え…」
本山は驚いた。
吉原へくる時も半信半疑で、遊女である小稲が50両という大金を出してくれるとは夢にも思わなかったのだ。
到底無理な話だと思っていた。
「…先生にお伝えください。とても、嬉しいと。こんな大変なときに、頼ってくださって…とても嬉しい」
「…ええ」
小稲が微笑むと本山もつられて微笑んでしまった。先ほどまでの嫉妬が嘘のように。
ただの昔の客である伊庭の手紙にどんなことが書いてあったのか…本山は知らない。
なにが小稲を動かしたのだろうか…。
「先生はうちのこと、お母様に似ている、と言ってくださったんです」
「え?」
本山が胸の内に思ったことがわかったのか、小稲は微笑んだ。
「うちのことを気に入ってくださったのも、元々は先生のお母様に似ているとかで…。
 ここにある泣き黒子も同じなんですって。と言っても、先生はお母様のことを覚えていないのだけれど
 だけど不思議と、そう思ったっておっしゃってました。だからうちは先生と肌を合わせたこともありません」
「え?!」
本山は自分でも驚くほど大きな声を出していた。
その様子に小稲はくすっと笑った。
「だって、お母様と肌を合わせるなんてできないでしょう?」
「あ、ああ…」
小稲はきっぱりと言い切ったのに、本山は動揺してしまった。
まさか、伊庭が小稲と肉体関係を持っていない、など思いも寄らなかった。
そう考えると伊庭と一緒にいた小稲の周りには、清浄な空気しか流れていなかったように見える。
「お金を工面するのもお母様のお役目です。ですから、何も心配なさらないでください」
気丈に言い切った小稲が、随分強い女である、と本山は初めて知った。
そして小稲は小さく呟く。
「うちは先生以外に尽くす相手など、いません」










「…そうか、ありがとう」
本山から小稲の伝言を聞いた伊庭は、落ち着いていた。
しかし手元に届いた50両を見つめて、喜ばしいとはとても言えない顔で佇んでいた。



キミガリ −君許− 10



「それでは尺先生、奥様、お世話になりました」
鎌吉と3人そろって夫婦に別れを告げたのは翌日の早朝のことだった。
「感謝してもしきれないほどです」
伊庭が深々と頭を下げ、続けると尺は照れ隠しのように
「若先生、私の好奇心故の行動だとお思いください」
と言った。尺の男気にはつくづく頭が下がるな、と伊庭は思い知った。
「わたくしも鎌吉さんのおかげで包丁使いが少し上達いたしましたわ」
キクのその言葉に鎌吉は照れたように頭をかいた。
そしてキクは手に持っていた風呂敷を鎌吉に渡した。
「船でお召し上がりになってください。どうぞご無事で…またお会いしましょう」
「…ありがとうございます」
礼を言った伊庭の目にキクの涙が映った。
二度とは訪れない再会を、彼女も感じていたのだろう。


イギリス船へ乗り込むことは容易だった。
尺が色々と根回しをしてくれたのだろう、簡単な身体検査のようなものだけであっさりと船内へと案内してくれた。
案内役の金髪で白いひげを蓄えた男は物珍しそうに伊庭たちを見たが何も言わない。
数人の異国人とすれ違ったがじろじろとその青い瞳で観察していた。
そして三人は船内の一室に通された。


天気は良好で、船はすぐに出航した。
幕府艦隊よりも早い速度でどんどん横浜が小さくなる。
部屋に備え付けられた重厚な窓から外をのぞきながら、鎌吉が感嘆の声を漏らした。
「見てくだせぇ、先生。もう横浜があそこに」
「速度は速いし、振動も少ないし…最新鋭の艦のようだな」
「へぇ」
部屋はもちろん西洋風だった。ベッドやテーブル、尺邸に置いてあったワイングラスなどいろいろなものがそろっている。
どの装飾も日本にはないもので、煌びやかで豪華だった。
床には見たこともない色柄の絨毯が敷かれ、壁には美しい絵画や鏡などが掛けられている。
特に鏡などただ丸いものだと思ったら、色々な装飾が額に施され焼き物のようだった。
伊庭や本山が圧倒して辺りを見渡していると
「甲板に出てきてもよろしいでしょうか」
と、明るい声で鎌吉が申し出た。
「え?いや、構わないと思うが…」
伊庭は戸惑った。先ほどの異国人は明らかにこちらを異色のもの、として見ていた。
蔑むような見下すような…。余り心地の良いものではない。
それに身長がゆうに高く、見たこともない青い瞳と金髪の彼らは…少し不気味に感じた。
それゆえ伊庭でさえ外へ出るのをためらったのだが。
「じゃあいって参ります」
と、鎌吉の江戸っ子特有の好奇心には勝てそうもなかった。
もっとも、金も払った立派な客なのだから、構わないのだろうが。



一室は一気に静寂に包まれ、エンジン音だけが部屋に響いていた。
西洋の椅子に腰掛け、落ち着かない様子の本山は足をぶらぶらさせたり、キョロキョロと辺りを見渡していた。
伊庭はベッドに腰掛けて、そんな様子の本山を笑った。
「なんだよ、落ち着けよ」
「いや、なんかあっちやこっちに色々あると鬱陶しいな。やっぱり俺は和室の方がいいな」
座り慣れない椅子で照れたように本山は頭を掻いた。
「いずれ、日本の生活もこうなるよ」
「はは、そうかもな」
二人で顔を見合わせた。勘弁してくれ、と本山が茶化した。


窓の外に横浜はもうない。辺りは深海が囲み、出口などないのだと自然と感じた。
直面している現実に似ている。
窓辺に腰を下ろし、伊庭は呟いた。
「遠くまで…きちまったなぁ…」
派手な椅子に腰掛けた伊庭に寄り添うように、本山は窓辺に立った。
伊庭と同じように、海を見る。
「これから蝦夷、箱館…いけるところまで、行くんだろ?」
本山は確認するように伊庭に聞く。だが伊庭の顔は冴えなかった。
「いけるところまで…って、どこまでなんだろうな」
「八郎…」
伊庭は視線を違えなかった。
「こうやって幾度となく海を渡り、敵を切れ伏し、生き延びる…いつまで続くんだろうな」
伊庭は悲観しているのではなかった。
解けないなぞなぞを突きつけられたかのように…無邪気に、わからなかった。
しかし、答えが知りたいのではない。
ただ。
「いつまで…お前と一緒にいられるのだろう」
それだけだった。
伊庭のために生きると。戦うと言った本山といつまでいられるのだろう。
深海はその答えを教えてくれない。うち寄せる波は不安を煽る。
揺れる船内はまるで足下から崩れ落ちそうになるほど、頼りない。
支えがなければ…生きていけない。
「いつまでも、じゃないのかよ」
さらり、と伊庭の耳元で聞こえた。
伊庭はゆっくりと、しかし恐る恐る本山を見る。だが、その顔は自信たっぷりで。
「言っただろ。『俺はお前を選ぶ』って」
「……ああ」
お前がいなければ、この船は進まない。
伊庭の顔に、自然と、笑みがこぼれた。同時に、涙が出そうになった。

「…っていうか、お前。まだわかってないだろ…?」
「え?」
本山が顔を歪ませる。そして頭をクシャクシャッと掻いた。そして少し視線をはずす。
「『俺はお前を選ぶ』理由」
「は…?」
いまいち本山の言い分がわからなくて、伊庭は思わず首を傾げる。
たしか『俺はお前を選ぶ』宣言をしたのは尺邸にやってきたとき。
それは『お前がいたから』であり、『もう決めてる』と。
「あのな、お前に口づけした挙げ句、抱いた男が言う台詞がどういう意味か、わかんねぇのかよ」
少しいらだったように、だが顔を赤らめて言う本山の言葉をもう一度頭で繰り返す。
「それにじゃあ、何だったんだよ…尺先生の家での口づけは…」
「あれはッ!…お前の一種のまじないみたいなものだと…」
「まじないぃ??」
今度は本山が呆れた声を出す。ムッとした伊庭が本山に掴みかかる。
「じゃあッ!どういう意味なんだよ。
 お前、何も言わないし…それ以上何もしようとしないだろ!」
右手でドンドン、と胸板を叩く。
「知るかよ…」
その胸板は、妙に固かった。別人かのように。
「……恥ずかしいから一度しか言わないからな」
「……?」
本山らしくない前置きだった。
「俺はお前が好きだから、お前を選んだんだよ」

「好きって…俺も別に……」
ここまで一緒にいるのだから好きに決まっている。伊庭は嫌いな相手とはつき合わない主義なのだから。
だが本山が言いたかったのはそうではないらしい。
「だから、つまるところ…俺は、お前をアイシテルってことだ」
「愛…ッ」
伊庭は思わずあからさまに顔を背けた。
顔が熱くなるのがわかる。そしてその熱が体中に広がるのが…わかる。
空気が薄い。
妙に息苦しい。
「そうだ……これ。尺先生に聞いたんだけど」
顔を逸らしたままの伊庭の右腕に、本山がなにかを握らせる。
今度は何だよと、ムキになって振り返ったが、その握らされたものに目を瞠った。
「指…輪……」
「なんだ、知っているのか」
尺の妻であるキクが毎日身につけていたものだ。三ヶ月もの間一緒にいたのだから見慣れていた。
だがキクのものとは違い、シンプルなデザインで何の装飾もなされていない。だが眩しいほど、銀色に光る。
「お前が俺を…その、アイシテルなら、その指輪を付けて欲しい。邪魔かもしれないけどできれば
 俺のために、付けて欲しい」
「…小太のために?」
「その指輪さえあれば、死のうなんて、考えないだろ」
本山の頭に浮かぶのは、あの廃屋での出来事だった。
死ぬ、という伊庭を押さえ込むようにして止めたこと。だからあのようなことはもう繰り返したくない。
「北へ行けば、俺と離れることも多いだろ。だから、そうだな……これこそ、まじないって奴だよ」
照れくさそうに言う本山が急に幼く映る。
子供じみたまじない。夢に出てきた幽霊。それを信じる、あのころのようだ。

「…恥ずかしい奴」
伊庭は微笑して、その指輪を本山に渡す。
「はめろよ。俺は片手じゃできない」
「……ああ」
本山がわらった。



「思えば…あのときから、縛られてる気がする」
異国のベッドに二人で重なり、息がかかるほどの距離で伊庭が呟いた。
「ん…?」
「美加保丸が座礁したとき……お前『俺を信じろ』っていっただろ…?」
「ああ……そうだった、かな」
愛撫を続ける本山の思考のなかで、ぼんやりとその光景が浮かんだ。
あのときは必死で、海に飛び込む伊庭の手を離さないように…。
「あっ…ん…ぅ」
「それで…?」
「あのとき……から…あの言葉に、縛られてる気がする…」




どこまでも行く。


あのときの言葉と、指輪に縛られている限り。






NEXT

あとがき

キミガリの第一部が終了しました。あとがきといっても第二部もありますのでご安心ください(笑)
第一部は江戸編というか北に向かう以前のお話です。
ほど史実通りに(本山とのこと意外は)書いております。ただ少し物語上、書き換えた部分がありますので
このあとがきにて訂正させていただきたいと思います。

第四話〜第六話まで伊庭と本山が別行動をとっておりますが
キミガリでは、伊庭は中根と共に乙骨のもとに向かっていますが、知人の元へ向かったというのが本当で
乙骨のもとにむかった、という史実はありません。キミガリでは特定できていないことと、乙骨が中根を
引き留めるという部分に早く持っていきたかった(汗)ため、あのようになっております。

それから後半部分の小道具の指輪ですが、夫婦で指輪をはめる、という習慣はあったとは思いますが
左手の薬指、というのはもう少し後の習慣のようです。


第二部は箱館編です。すこしややこしくなる上、伊庭と本山の距離が離れてしまう部分でもあるのですが
是非読んでいただけると嬉しく思います。
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