キミガリ −君許− 第二部



生きることにこの時ほど執着を感じたことはない。
真っ赤な自分の血を浴びながら、帰りたいと思った。
生きて、あいつのもとに。
それが叶うのなら、何もいらない。
誇りも、矜持も、すべて……。



キミガリ −君許− 11




明治元年11月28日。
箱館は雪に閉ざされ、凍えるほどの寒さだった。

「…寒い」
不機嫌そうに呟く伊庭を、本山が背中から抱きしめた。
いま、朝なのか、夜なのか。そんなことは船の中の小さな小窓から出しかわからない。
いつもとなんら変わらない空。それでもいつもよりは澄んで見えるのは気のせいか。
「もう着くな…」
本山が空ろな口ぶりでさらに伊庭を抱きしめる。素肌が触れ合うこうした行為ももう慣れた。
それに本山は必要以上にこうして抱きしめることが多い。それが癖なのか、故意なのか。伊庭はわからなかったのだが。
「鎌吉はいねぇな…」
「お前が寝てる間に来たよ。邪魔そうだから看板に出てるってさ」
鎌吉にはすっかり二人のことはバレてしまった。
この艦に乗り込んだあの夜、伊庭は鎌吉へ正直にはなした。本山には「赤裸々過ぎる」と後で怒られたのだが。
実は鎌吉はずっと昔からそのことは気がついていたのだが「へぇ、わかりました」と初めて知ったふりをしている。
「っていうか、お前、何回ヤってんだよ。腰が痛ぇ…」
不満げに呟く伊庭に本山は苦笑した。
「悪ぃ。でもお前も何度もヤれって感じにこう…」
「黙れっ!」
伊庭はあわてて本山の口を己の手でふさぐ。
この船に乗って気がついたことなのだが、この男は意外と、恥ずかしい言葉を平気で口にする。
伊庭が赤面するのを楽しそうに見ているのだ。
伊庭は膨れっ面を作って見せたが、本山はそんな伊庭を慈しむように見て、笑った。
「なんだよ…」
「箱館についたらこんな時間もないだろうから、楽しんでるんだよ」
「な、なんだよ、それ…」
伊庭は真っ赤になって、布団をかぶった。
己が己でなくなるほど、本山といると表情に歯止めが利かない。


話は少し遡る。伊庭と離れ、本山に率いられた遊撃隊は旧幕府艦隊、幡竜丸に乗り
明治元年10月20日に蝦夷・鷲の木に上陸していた。
旧幕府艦隊は遊撃隊や旧幕府陸軍脱走者、新撰組の生き残りなど合わせて2500名ほどとなっていた。
そして箱館の五稜郭を奪い、榎本を中心に新政府政権を樹立。
だがそれを長州・薩摩が許すはずがなく、冬を過ぎた春の決戦に向けて備えている、というところだ。
そしてこの箱館が、それぞれの命が散る、運命の場所となる。


箱館は伊庭が思っていた以上に雪が降り積もり、一面真っ白だった。
これほどの雪は江戸では見たことがない。
本当に海を渡ったのだ、としみじみ実感した。
ここまでの旅路をともにしたイギリス艦隊に礼をいい、慣れない握手をした。
「Wish well to you」
異国人の彼らが掛けてくれた言葉は、ほとんどそれだった。
最初は異色のものを見るような、差別じみた目だったのだが、数日過ごすと彼らと溶け込んだ。
時折、三人の部屋を訪ね、耳に触れた日本語を話したり、差し入れを渡してくれたり。
そんな彼らの親切にも触れた。鎌吉は彼らとの別れを、涙流しながら惜しんだ。


港に上陸した三人を迎えたのは、かつて分かれた遊撃隊の面々だった。
伊庭を見た途端、まるで子犬のように駆け寄ってくる彼らに、伊庭の顔は綻んだ。
「伊庭先生!ご無事だったんですね!」
「また会えるのを楽しみにしていました!!」
「隊長」「先生」と声を上げる彼らの顔は、分かれたときよりも幾分か大人びて精悍になっていた。
思えば彼らとの再会は半年ぶりほどだ。いくつもの戦を転々としてきた彼らは、生き抜いてきた、という強さが滲み出ている。
伊庭はとても頼もしく感じた。
「ありがとう。皆も、無事でよかった…」
美加保丸に同乗していた遊撃隊の一部の顔もそこにあり、伊庭は深い安堵を感じた。
少し人数は減っていたが、彼らは彼らとして、生き抜いていた。
「伊庭先生。少しお顔色が悪いようですが…大丈夫ですか?」
若い隊士がふとそんなことをいうと、彼らが「え?」「本当だ」と騒ぎ出した。
「先生、大丈夫ですか?」
「まさか、どこかお怪我でも…!」
「い、いや、そうじゃなくて…」
毎晩の腰の疲れからくるのだ、と説明するわけにもいかず、伊庭はあわてた。
取り敢えず「船酔いだよ」と軽くかわしておく。
後ろで本山と鎌吉がくすくすと笑っていた。


港から程近い場所に五稜郭はあった。
遊撃隊隊士たちに囲まれるようにそこにたどり着いた伊庭と本山は、その重々しい雰囲気に言葉を失った。
五稜郭はかつて江戸幕府が北方警備の箱館奉行庁舎として1864年(元治元年)に建造した城郭。
榎本らが激しい銃撃戦によって松前藩を制圧し、手に入れた最後の拠点である。
入り組んだ道に水路が挟まれ、砲台などが設置されているそこは守りの砦ともいえる。
「西洋式の軍事方法を取り入れた城だな…。榎本さんらしい」
伊庭が本山とともに感心していると、ふと、目の前に男が立ちはだかった。
西洋の軍事服に身を包み、全身真っ黒に包んだ渋好み。遊撃隊隊士のように髷はなく、顔に沿い、整えられた髪の毛が
さらさらと風になびく。遠目でも美男子であり、伊庭にははっきりわかった。
「歳さん…!」
「よぉ、伊庭。お前とこんなところで再会するなんてな」
土方歳三。かつて都で「新撰組の鬼副長」と名を馳せた男である。
もっとも伊庭にとってはかつての悪所仲間であり、飲み仲間。年は離れているが同志のような人だ。
「久しぶりですね。江戸でお会いしたきりですよね」
伊庭が駆け寄ると土方も微笑んだ。
「ああ、あの時は時間がなくてあまり話せなかったな…」
伊庭が最後に会ったのは江戸で、勝海舟のもとへ向かう土方の姿だった。
あのときは新撰組局長、近藤勇の除名嘆願に向かう途中であまり長話はしていられなかった。
「近藤先生のことは…残念でした」
「…もう、ずいぶん昔の話のように思える」
土方は穏やかだった。この人はこんなに穏やかに笑う人だったのだろうか、と思ってしまうほど。
たしかに江戸にいたときから快濶で、明るく、周りに気遣いができるような人だったが
都に上り、「鬼副長」と呼ばれた彼からはとても想像ができないほどだ。
「俺は勇さんを失い、お前は左腕を失った。……同じことさ」
「……そうですね」
土方は伊庭の左腕についてそれ以上何も言わなかった。彼なりの優しさが、身にしみた。
「お久しぶりです」
間を見計らっていたように、今度は本山が土方に挨拶した。
本山と土方は数度、伊庭を挟んで一緒に飲んだ程度で、あまり親しくはない。
「ああ、本山さんも元気そうだな」
「はい」
本山と土方は握手を交わした。本山には「鬼の副長」のイメージが消えていなかったのだろう、いささか緊張しているようだ。
伊庭がその隣で隠れるように苦笑する。
「そういやぁ、伊庭。榎本さんがお呼びだ」
「榎本さんが?」
「お前がここに来たことは一大事件だからな。すぐに伝わったさ」
それは遊撃隊の様子から見てもわかった。
想像以上に歓迎したようで、目を凝らせば涙を流すものもいたのだから。
「じゃあ、小太。ちょっと行ってくる」
「ああ、先生によろしくな」
伊庭は土方に連れられ、本山と別れた。


本山と別れ、少ししか経たないが急に寂しさを感じた。思わず振り返って彼の背中を捜してしまう。
自分がすっかり弱くなってしまったような気がする。
空気が薄くなってしまったように。
「……おい」
「あっ…なんですか」
前を歩いていた土方が振り返り、伊庭は激しく驚いた。
物欲しげな自分の顔を見られてしまっただろうか、と焦る。
「なーに、見てんだよ。そんなに心配なのか」
「な、何が、ですか」
慌てて取り繕って何事もなかったかのように笑って見せたのだが
「ったく、そんなにヤりましたーって感じの顔で歩いてんじゃねぇよ。士気が乱れるだろ」
「……う」
容赦ない土方のコメントに返す言葉もない。昔から隠し事はできない、と思っていたがまさかこんなに
早く見破られるとは思わなかった。
「どうせここに来るまでイチャイチャしてたんだろ」
「…ご尤もです」
ここまで言われて隠しようもない。伊庭は素直にぶちまけた。もっとも、これ以上この人に隠せるわけないのだから。
そして、すべて聞き終わった土方は満足そうに笑う。
「でもその指輪は外したほうがいいんじゃねぇの。もし榎本さんに二人揃いの指輪を見られたら
 すぐにばれるぞ。あの人は異国帰りのきてれつなんだ」
「……ご尤もです。でも俺だけじゃ外せないんですよ。歳さん手伝ってください」
伊庭が右手を差し出すと、土方はすっぽり、銀の指輪を抜いた。

指に残ったのは、久々の空気を浴びた新鮮さと、喪失感だった。












「この蝦夷地を開拓して、独立国家を作るんだよ。我々、武士の新しい国だ」
五稜郭本営。久々に伊庭と再会を果たした榎本武揚は得意げに語った。
それを聞いた伊庭は
「良い案ですね。やりましょう」
と堅く握手した。



キミガリ −君許− 12



榎本の元から去り、伊庭は小さくため息をついた。
「途方もない、夢物語だな」
その横で、苦々しくに土方が笑った。
榎本との再会は土方も同席していたので、榎本が自信たっぷりに語る「蝦夷共和国論」を耳にしていたのだ。
「たった2500人で薩長に勝てる根拠もねぇし、力も、策もない。それにやつらがそれを認めるとは考えにくいし…」
「そんなこと言ったら元も子もないですよ」
きっぱりはき捨てる土方に今度は伊庭が苦笑した。
榎本はきっと現実をわかった上であのようなことをいったのだろう、と伊庭はわかる。
異国帰りの榎本がこの戦況をどうみるか、彼は正しい判断をしているのだろう。
しかし大将が弱音を吐くわけにはいかない。彼も強がっていたのだ。
ちょうど、土方のように。
「でも歳さんもその案に賛同して蝦夷に来たわけでしょ。いまさら文句もいえないでしょう」
「まあ…な」
土方も榎本に負けないほど、夢を見ているのだろう。
途方もない夢物語を。


「あ、八郎、どうだった?」
五稜郭近くの遊撃隊控え所に本山はいた。数人の隊士とともに囲炉裏に当たっている。
そこには包丁を振るう鎌吉の姿もあり、まるで戦など感じられない、和やかな雰囲気だった。
「どうって……どうもないよ」
伊庭も囲炉裏に当たった。
「榎本さんはこの蝦夷に新しい国を作るんだとさ」
「本当ですか、隊長!」
一緒にいた隊士が嬉々として伊庭に詰め寄った。
「では我々の国がここになるのですね」
「少し寒いが…食い物も豊富だし、新しい国を作るのにはもってこいだ!」
「すごいなぁ、夢みたいだ!」
彼らは嬉しそうに握手を交わしたり、抱き合ったりしている。伊庭は「水を差すこともないか」と思い
榎本の「蝦夷共和国論」を話してやる。
「榎本さんは徳川家を元首とした新しい国にする、といっていたな」
「さすが榎本さんだ!」
「異国帰りの変な人だと思っていたけど、やはり頭がいいんだなぁ」
彼らが今までどういう目で榎本を見てきたのか、伊庭にはわからないが、どうも彼らは榎本を見直したらしい。
それからは彼らはこれからの日々について同志たちと語りだした。
光がさす、希望に溢れた夢たちを。
「八郎、ちょっといいか」
そんな様子を眺めていた伊庭を、本山が呼んだ。


「なんだよ」
伊庭が素っ気無く本山に声を掛けた。雪の降る、寒々しい外に連れ出されたというのに
彼が一向に口を開こうとしなかったからだ。
「その榎本先生の話…お前はどうおもってるんだよ」
やはり、と伊庭は思った。榎本の「蝦夷共和国論」に遊撃隊の隊士はあっさり納得してくれたようだが
本山はそうはいかなかったようだ。複雑そうな顔をしている。
「どうって…どうも、思ってないかな」
「は?」
伊庭の正直な答えに本山は眉をしかめた。
「歳さ…土方さんとも話をしたけど。「蝦夷共和国論」はあくまで先の話だよ。この戦に勝たないとわからない」
本音だった。
薩長の連合軍に負けるとは、意地でも思えない伊庭だが、彼らが戦を仕掛けてくる以上
戦わなければならない。そして自分はそのためにここにいる。
「蝦夷共和国」など、現時点で夢でしかない。
「小太はどうおもってんだよ」
「俺は…よくわかんねぇな。……お前についていくだけだし」
「あ…そう」
本山のこういうストレートな発言に、伊庭はいつも言葉に詰まる。
そして自然と顔が赤くなるのを隠すのに、どうしようか、いつもあせる。
「まあ夢は夢で持っていることも大事だろうから…あいつらにはあんまり言わないけどな」
本山は気づかないふりをしたのか、苦笑混じりにそういった。
「俺はお前についていくって決めてるし、お前にも幕臣の誇りと意地があるから戦える。
 けどあいつらは…俺たちとは違う。もしかしたら後悔してるやつだっているかもしれない。
 だから、それくらいの夢があったほうが、いいさ。戦う支えになる」
「…ああ」
伊庭は言葉に閊えた。
意地や誇りなど、今の自分にあるのだろうか…思わず疑ってしまうほど、自分は弱くなってしまったというのに。
伊庭は頭を掻く。
幕臣としての誇りなど、あの時、左手をなくしてから消えてしまったように思う。
あの日から自分は弱くなった。
どれだけ人に支えられたか、助けられたか、わからない。
誇りなどきっともう、消えてしまった。
残るのは意地だけだ。
「八郎」
「あ…なに」
本山が突然、頭を掻いていた伊庭の右手を取った。
伊庭は「口付けでもするのか」と思わず身構えてしまったのだが、どうも違うらしい。
本山は神妙な面持ちで指を見入っていた。
「指輪。どこいったんだよ」
「あ……」
そう、その指には指輪がはめられていなかった。
榎本の元へ向かう際、土方に忠告されて外したまま戻すのを忘れてしまった。
「……」
「ご、ごめん。その、榎本さんに会うから外したほうがいいって…。ほら、あの人異国帰りだから
 お前と同じの指輪をつけてたら気づくかもしれねぇだろ?」
本山が無言になったので慌てて弁解する。だが本山は何も答えてくれない。
怒らせたか、と伊庭が冷や汗を流す。
本山が怒ることなどほとんどない。だがだいたい、大声で怒鳴るか、なにかアクションを起こすはずなのに
今回はちがった。
「…約束、したよな。俺のためにつけてくれって…」
聞いたこともないような低い声だった。
「だから、ごめんって…」
「……」
まるで言葉の通じない異国人のように、本山が伊庭の右手を握り締めたまま押し黙る。
いつもは伊庭が逆切れして怒っているのだろうが、なぜかそうできないでいた。
「誰が外した?」
「え?」
沈黙を破り、本山は言う。
「誰が指輪外したんだ。お前一人じゃできないだろ」
「あ…それは、歳…じゃなかった、土方さんだよ」
「……」
また本山が押し黙った。
嫌な沈黙だな、と思う。
雪が強くなり、寒くなってきたというのに本山の表情は変わらない。
「前々から思ってたんだけど…」
「な、なに?」
伊庭の声が裏返った。
「土方さんと、どういう関係なんだよ」
「……は?」
予想外の本山の質問に、伊庭は息が詰まりそうになった。
「な、なにいってんだよ。と…、土方さんは別に飲み仲間だって…お前だって知ってるだろ?」
「俺は土方さんほど一緒に吉原に通ったりしなかったから、わかんねぇんだよ!」
本山が声を荒げた。
「二人きりなんて…よくあったんじゃないのかよ」
「小太」
「それにお前、歳さん歳さんって…」
「小太ッ!」
伊庭は本山が握り締めていた右手を取り、本山の頬を目掛けて殴った。
見事にヒットした彼の頬はその寒さもあって、じわじわと赤くなる。
だが何も言わない。
「何でもないって言ってるだろ!なにイラついてんだよ!
 指輪のことは悪かったと思うけど、たった半時くらいだし…お前が思ってるようなことはないって!」
思わずベラベラと弁解してしまったのは、伊庭自身もあせっていたからだ。
こんな風に感情をむき出しにする本山など見たことがない。
どんなことでも伊庭の意思を尊重して、耳を傾けている、そんな奴だったから。
慣れない本山の様子に、伊庭自身が動揺していた。
「…なんだよ…お前らしくねぇよ……」
か細く呟く伊庭に、なんのプライドもない。ただ信じてほしかった。それだけの思いだった。
「俺らしいって…なんだよ」
だがその願いは通じない。
「…小太?」
「俺はお前が思ってるほど、お人よしでも、大人でもねぇよ!」
途端、本山は伊庭の両肩をつかみ、壁に押し付けた。その痛みは雪の冷たさとともに全身に伝わったが
そんなことにかまっていられなかった。
荒々しい口付けに翻弄される。噛み付くように痛みばかりを感じた。温もりなどない。ただ、雪のような冷たさだけが、痺れた。
「…馬鹿野郎っ!」
伊庭は食いつくように、本山の唇を噛んだ。
本山は「うっ」と小さく呻き、伊庭から離れた。彼の唇には少し血がにじんでいた。
「…頭、冷やせよ!」
伊庭はそう叫び、雪景色に駆け出した。
「八郎!まて……」
本山は伊庭の背中を追い、同じように駆け出そうとしたが、雪に足をとられうまく動くことができなかった。
だんだん消えていく伊庭の背中を、悔しそうに、見つめた。







いつからこんなに弱くなってしまったのだろう。
喧嘩や言い争いなんて数えられないほどしていたのに、今は途轍もなく不安になる。
雪の中を駆けながら、追ってくれると思っていたあいつを探していた。



キミガリ −君許− 13



真っ白な銀世界に終着点はない。いくつもの民家が雪に埋もれ、そこからこぼれている柔らかな火の光が、
伊庭の視界を通り過ぎていく。
しんしん、と降り注ぐ雪はまるで氷の破片ように伊庭の頬を流れていた。
走り続けながら、追いかけてくれているだろう、本山の声を待っていたのに。
優しく「待てよ」と言ってくれる彼を待っていたのに。
その声は聞こえない。
「…馬鹿野郎」
追いかけろよ。
自分は理不尽だと思いながらも、彼を恨めしく思った。
一方で本山にあきれられたのだろうか、と不安になった。
そして疑う。
俺たちの間にある信頼は、こんなに薄いものだったのか、と。
伊庭は走り続けていた足を止めた。辺りはもちろん見覚えのない場所で、自分がどこから来たのかもわからない。
真っ黒な闇と、冷たい氷だけが降り注ぐ。
そこは孤独だった。
急に押し寄せる寒さに身体が震えた。
「……畜生!」
伊庭は渾身の力で雪の降り積もった山に殴りかかった。
怒りと、悔しさと、絶望と……そして己の弱さへの苛立ち。そのすべてをこめて何度も何度も、
その右手を打ちつけた。
本山が追いかけてくれない、その事実に絶望した自分。
きっと追いかけてくれるだろうと、甘い期待をしていた自分。
そんな自分に嫌悪する。大嫌いだと叫ぶ。
どうしてこんなに弱くなってしまったのだろう。
しかし、その行為は雪に埋もれながら、押し寄せるこの孤独感を紛らわそうとしただけなのかもしれない。
…もうなにもわからない。

雪はやわらかいと思っていたのに、伊庭が思っていた以上にそれは硬かった。
触れれば消えてしまう儚いものだと思っていたのに。


「…なにやってんだ」
伊庭が座り込んでいると、あきれた声が聞こえた。
だがそれは本山のものではない、と直感する。
「…歳さん」
「そんな薄着で、風邪引くぞ。だいたい、なんでこんなところに…」
土方は今日会ったときのままの服装で、分厚いコートと傘を持っていた。
それにどこからか帰ってきたのか、馬まで連れている。
「…それはこっちの台詞ですよ。歳さんこそ、どうしてこんなところに?」
てっきり町外れに来てしまったのだと思っていたのだが。
「馬鹿か。すぐそこに新撰組に宿舎があるんだ。…なんだ、俺に会いに来たんじゃないのか」
土方が不思議そうな顔をした。
「あ、…そうなんですか」
「そうなんですか、って…。仕方ねぇな、座り込んでないでついてこいよ」
土方が座り込む伊庭の腕を取る。伊庭はそれに支えられるようにして立ち上がった。
「真っ赤だな、手」
「あ…ホントだ」
伊庭は言われるまで気がつかなかったのだが、何度も雪に殴りつけた右腕は赤く腫れていた。
「仕方ねぇなぁ。手当てしてやるから、こいよ」
土方が伊庭の腕を強く引く。その力強さに、涙が出そうになった。
どうして土方なんだろう。
これが本山なら、この不安定な自分を救ってくれるのに。

土方は馬を引き、新撰組の宿舎に向かった。



名はよく聞こえた新撰組だが、今所属している隊士たちはほとんど箱館の途中で
入隊した者たちばかりだ。若い世代が多く、幼い顔立ちのものも多い。
そして伊庭が知っている試衛館の人間は誰もいなかった。

しかし宿舎に戻ると、彼らは土方を満面の笑顔で出迎え、
「おかえりなさい」
という声が飛び交った。
「鬼の副長」と呼ばれていたあの頃の姿はもうなく、伊庭は返って不思議に思った。
そういえば再会したあの時、土方の顔がずいぶん穏やかに見えたのは、気のせいではなかったのかもしれない。
江戸にいたときはチャキチャキの江戸っ子で、そして京都で会ったときは鬼の面構えだった。
そして今は
「ああ、お前らも早く休めよ」
微笑を浮かべた土方は、軽く手を振った。

「失礼します」
囲炉裏で手を温めていた伊庭に、高い声が響いた。
宿舎の一室に通され、土方を待つ伊庭だったが、その部屋は人気がなく寒々しい。
急いで囲炉裏を焚いたのだが、まだまだ部屋は温まりそうもなかった。
「あ、ああ」
女かと思った声の主は、少年だった。背丈は低く、元服もしていない総髪。
ただ揃いの西洋式の黒い制服を身に纏っている様子からして、隊士らしいと察した。
彼は温かい茶を差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう…ところで君は?」
何の気もなく尋ねると、彼は急に驚いた様子で畏まった。
「は、はい!新撰組隊士、田村銀之助といいます!」
彼はずいぶん元気な声で答え、伊庭は思わず苦笑してしまった。
「はは…。私は伊庭八郎といいます」
「い、伊庭…!」
彼のような少年でも伊庭のことは知っていたのか、さらに畏まって頭を下げた。
「お、お、お会いできて光栄です!」
「あ、いいから、そういうのは…」
すると、元来素直な性格なのか、彼はおずおずと頭を上げ、興味深く伊庭を見た。
興味を引くと目を離せない性格なのだろう、その様子は観察するようだった。
伊庭は苦笑しながら尋ねた。
「若いようだけど、いくつ?」
「あ、はい。今度14になります」
「14か…若いね」
彼が笑って答えるのを聞いて、少し驚いた。自分が14の頃は本に噛り付いて、刀さえ抜いたことがなかったのに。
「13のときに兄とともに新撰組に入隊しました。でも隊士と言っても小姓のような感じで…。
 鳥羽伏見にも、会津の戦にも私は参加していないんです」
「小姓かー…」
その古典的な役職に、伊庭は微笑んだ。書物でしか聞いたことがなかったが
確かに彼のように若い少年を戦に出すのは忍びない。土方の配慮だろう。
「だけどきっと土方先生のお役に立てるように立派になるんです」
彼の目はキラキラと輝いていた。そんな輝きを見るのはずいぶん久しぶりに感じた。
そして懐かしくも思う。
自分たちにもこうした目をしていた時期があったのだろう。
…その輝きを失ったのは、いつのことだろうか。


「田村、もう下がれ」
「あ、はい!」
突然聞きなれた声が響くと、田村はお盆を持ち、あたふたと部屋を出て行く。
丁寧に頭を下げて去っていく辺り、小姓らしい仕草が身にしみているらしい。
「彼、小姓だそうですね」
襖が閉まり、それを追うように見ていた伊庭が尋ねた。
「ああ。まだ若いからな。剣もまだまだだし…。京にいた頃だったらあんな奴は入隊させなかったんだが
 人数が必要だったし…。今は俺の監督下においてる」
「へぇ…」
伊庭は彼が持ってきた茶に手を伸ばした。まだまだ温かくならない囲炉裏よりもよほど温かく、
少し心が静まった気がした。
「皸にはなってないみたいだな」
「ええ。たいしたことはないです」
田村と遭遇したことですっかり忘れてしまっていたが、熱い湯のみを持てる辺り、たいした怪我ではない。
よくよく考えれば右手に怪我を負えば、何もできなくなっていたというのに…。
ずいぶん無神経なことをしてしまった。
「……で、どういうことなんだ?」
「どういうって…」
土方がにやにやと笑った。
「察するに痴話喧嘩だろ」
「…ご名答、です」
傍から見ればそう見えただろう。伊庭は客観的には同意した。
「お前たちが喧嘩したところなんかみたことねぇけどなぁ…」
「……まあ、そうかもしれません」
伊庭と本山が知り合ったのは、伊庭が剣の道に進みだしたころだ。
伊庭が養父とともに何度か講武所に出入りするうちに顔見知りになった。
荒廃する旗本連中の中で、真面目に剣に取り組んでいたのが本山で、伊庭の興味を引いた。
その後意気投合したのだが、伊庭も相当の遊び人で、本山ほど真面目ではない。
しかし、どういうわけかその仲は変わらなかった。
今から思えば不思議なものだ。
大人になってから知り合った二人なので、公衆の面前で大喧嘩や殴り合いなどしなかった。
たびたび口争いになったことはあるが、いつも本山が観念して負けを認めていた。
「で、なんでそんなに落ち込んでんだ?俺は主導権握ってんのはお前だと思ってた」
「はは…そんなわけ、ない…ですよ」
土方のからかいにも、まともに返答できない。伊庭は言葉に詰まった。
いつもなら冗談に冗談で返し、おちゃらけたりできただろうに。
そんな伊庭を察したのか、土方も急に真面目な顔になった。
「…何だよ、お前らしくないな」
「……歳さん。俺、もう、だめかもしれない…」
伊庭はうつむいた。
慌てたのは土方のほうだ。
「だ、だめって…なんだよ、いきなり」
「俺は…自分がこんなに弱かったなんて知らなかったんだ」
溢れてくる不安が、止め処なく流れる。
「こんなにも…あいつがいなければ生きていけないと感じたことはない…」
ただの些細な言い争いだった。
いつもと変わらない、ただ、本山が反論しただけの、喧嘩に過ぎなかったのに。
急に今までに感じたことのない、不安に襲われた。
もしも、本山が伊庭に見切りをつけ、見捨て、いなくなってしまったら。
自分はその先に生きる希望を見出せるのだろうか。戦い続けることができるのだろうか。
そんな疑問が心をよぎったとき、深い谷に落とされたような衝撃があった。
答えがでない。
そんな未来を創造したことがない。
そして不安が襲った。
本山との絆を失ったとき、もう自分は歩き出すことができない。
それほど本山との信頼、絆、すべてが大切なものだったのに。

俺たちは、指輪という飾りでしか結ばれていられないのか。

指輪のことで激怒した本山を見たとき、この絆の希薄さを思い知った。
本山に不審を感じたわけではない。
彼の思いは信じているし、絶大なる信頼を寄せている。
ただ、彼に支えられることが多すぎて。
自分がすっかり弱くなってしまった、支えがなければ歩けなくなってしまった。
そんなくだらない人間に落ちぶれてしまった。


冷たい氷雪が流れていた頬に、今度は熱い涙がこぼれた。
悲しいのか、悔しいのか、それはわからない。
ただ、苦しかった。







まもなく鎌吉が新撰組の宿舎にやってきた。
どうやって嗅ぎつけたのだろう、と土方が聞くと鎌吉は安堵した顔を前面に浮かべて
「そこらじゅうの宿舎を回りました」
と言い、本当に伊庭を心配していたのだろう、鎌吉の忠誠心を伺えた。
伊庭は何事もなかったかのように鎌吉に礼を言った。
「ちょっと散歩をしているうちに迷ったんだ」
気丈に振舞う姿を、土方は何も言わず見ていた。
「じゃあ、歳さん。また」
「…ああ」
伊庭は先ほどの涙など涸れてしまったかのように明るく手を振った。
土方とともに見送った田村は
「良かったです」
と、安易に微笑んだが、土方はそうもいかない。無言で伊庭の、急に小さくなった背中を見送った。



キミガリ −君許− 14



「先生」
帰りの雪道、伊庭を支えるようにして歩いていた鎌吉が口を開いた。
しばしの沈黙が続いていた。
「…なに」
「あっしは先生の家来ですから、先生が一番幸せになってもらわんといけませんからな」
鎌吉は一息置いて、続けた。
「本山先生のことが枷になるんでしたらな…」
「鎌吉」
鎌吉は伊庭の声の低さに少し驚き、とっさに口をつぐんだ。
「大丈夫だから。心配することはないよ、それに小太のせいじゃない」
伊庭には鎌吉の言い分がわかった。本山の存在が伊庭を苦しめるようなら、傍にいないほうが良い。
きっと彼はそう続けるつもりだったのだろう。
でもそうじゃない。
本山を信じきれないでいるのは、自分のほうなのだから。本山に当たるのは見当違い、というところなのだ。
だが鎌吉のまっすぐで、無骨な気遣いを感じ、少し温かくなった気がした。
「宿舎に帰ったら…何もなかったように、するから…」
鎌吉を安心させようと思ったのに、なぜか声がうまく発せられない。
足取りが重かった。


「八郎!」
もうすぐ宿舎に着こうか、という時。聞きなれた本山の声が耳に入った。
伊庭は一瞬強張ったが、ためらいの後、手を振った。
駆け寄った本山が、厚手の羽織を伊庭に被せる。
「どこ、行ってたんだよ…」
本山の表情はあのときの激昂を忘れたかのように、穏やかなものだった。
いつもの、彼と変わらない。それに少し安心した。
「ごめん、道に迷ったのを…鎌吉に見つけてもらったんだ」
とても新撰組の宿舎にいたとはいえない。先ほどの言い争いをぶり返す様な真似はしたくなかった。
それは、これ以上自分を苦しめないためについた嘘だった。
「さっきは…悪かった」
しかし、本山はそんな嘘にも気がつきもしないで、落ち込んだ様子で呟いた。
「いや、俺が悪いから…いいんだ」
本山の素直で、純粋なところが…今は痛い。
信じきれていないのは自分のほうなのに。
ただ今は、この指輪で繋がれているだけなのに。
虚しい罪悪感が押し寄せた。



それから数日たった。
本山は喧嘩のことを一言も口にしなかった。きっと彼のなかでは解決したのだろう、と伊庭は思う。
傍から見たら痴話喧嘩にすぎない。指輪が嵌められていなかったということ。
それだけのくだらない喧嘩なのだから。
それに本山が土方との仲を疑い、声を荒げたのは嫉妬をむき出しにしてくれたのだ。
素直に喜ぶべきことだとも思う。
ただ思うのは。
本山が自分を思ってくれているほど、自分が彼を強く信じられない、という事実だけだ。
「先生、先生」
雪景色を眺めながらぼんやりしていると、鎌吉が駆け寄った。
「ん?」
「西洋の軍服が届きやした。大きさを見てくれと」
「へぇ」
鎌吉が抱えていたのは、遊撃隊隊士たちが揃いで着ている西洋の軍服だ。
真っ黒で渋好みのデザイン。見た目は窮屈そうに見えるのだが、実際はそうではないらしい。
伊庭は早速袖を通した。サイズは事前に知らせていたのでぴったりのつくりだ。
通気性が良くない分、寒さを防ぎ、温かい。
「よかった、これで悪目立ちしなくてすむ」
「…でもあっしはこの着物のままがええがな…」
伊庭の満足そうな顔とは対照的に、鎌吉の表情は冴えなかった。江戸弁丸出しの彼には
新しい文化がなじめないでいるらしい。
伊庭は苦笑した。
「鎌吉はそのままのほうがいいよ。俺はほら、遊撃隊だからさ」
そういうと彼は安堵したように笑った。が、
「あ、先生」
次に鎌吉は思い出したように声を上げた。
「ここ数日思っておりましたが…その、火種になっちゃあ困ると思って言わなかったことなんですがね」
「ん?」
鎌吉の前置きを聞きながら、伊庭は首をかしげた。
「指輪のほうは…どうされたんで?」
「ゆび…わ?」
鎌吉の口から意外な単語が飛び出して、伊庭はまずそのことに驚いた。
彼には本山と同じ指輪をつけている、ということは言わなかったのだが、目敏い彼は気がついていたらしい。
まずその事実に声を上げたのだが、ハッと思い出すようにして自分の右手を見る。
そこに指輪の姿はなかった。
「あ…!」
あの喧嘩以来、自分ではつけられず本山にも鎌吉にも申し出ることができず。
自分の着物の袖にいれたままにしていた。
伊庭は身の毛がよだつ思いをしながらも「大丈夫だ」と自分に言い聞かし、先ほどまで着ていた
着物を見返す。しかし、あると思っていた袖のなかに、銀の指輪は見つからない。
「な…んで…」
どうしてないのだ。伊庭は思わず頭を抱えた。喧嘩をした数日前まではあったはずだ。
着物を抱えて座り込んだ。
そんな伊庭を見て、鎌吉は慌てる。
「す、すんません!てっきり喧嘩をなさっておったからつけていらっしゃらないのかと…!」
鎌吉のせいじゃないよ。
喉元まで出掛かっている言葉を口にすることができなかった。
指輪があったと確認できるのは榎本に会う直前。
土方の助言で指輪を外す、あの瞬間までだ。
考えてみれば本山と喧嘩して、走り出して、土方のもとへ向かうまで、指輪の姿は一度も見ていない。
てっきり袖に入ったままなのだと思い込んでいた。
「せ、先生…?」
箱館の寒さにはもう慣れたというのに、手足が急に音を立てて震え始める。
ガタガタと。それは何かが崩れていくような音にも似ていた。
たった一つの、細い、今にも千切れそうなその糸が、切れてしまうかのように。
指輪がなくなってしまった。
その事実はあまりにも大きかった。

「先生、先生!」
鎌吉の大きな声が耳元で響いた。彼は調理人をしていた頃から声が大きかった。
おかげで何かに囚われそうになっていた自分を引き戻すことができた。
「あ…」
「何か間違いってこともあるかもしれません、そのへん、探してみましょうや」
彼の声は先ほどの大音声から変わり、温かい、慰めるようなものへと変わっていた。
伊庭は小さく頷き、彼の手に引かれ立ち上がった。
それでも胸騒ぎだけは収まらない。
ここにはもうない、そんな予感がしていた。



一方。
すでに西洋の軍服に身を包んだ本山は雪の中を歩いていた。向かう先はもう決まっている。
この箱館でもっとも活気と士気がある、特別な場所だ。
本山は歩み寄ると、その宿舎の前で洗物をしていた青年に声をかけた。
「すみません、土方さん…いますか」
青年は洗濯物を持った手を休め、こちらを振り向いた。
青年、というよりは少年に近く、彼の背丈は本山の半分もないような雰囲気だった。
本山の顔をまじまじと見ると愛らしい笑顔を浮かべる。
「申し訳ありませんが、お名前は」
彼は意外にもしっかりした口調で答えた。
「本山といいます」
「少しお待ちください」
少年はぺこり、と頭を下げ宿舎の中に入っていった。

それから然程待つことなく、本山は土方のもとへ訪れることができた。
先ほどの少年が温かい茶を出す。名前を聞いたところ、田村銀之助、という14歳の若者らしい。
本山は彼が一礼して去っていくのを、微笑んで見送った。
「本山さんがくるなんて珍しいな」
対面した土方は、田村が持ってきた茶を取り早速口に運んだ。
見かけは優男の美丈夫なのだが、彼の京での活躍を耳にしている本山には、腰をすえて動かない、強大な壁に見えた。
「すみません、突然お邪魔して」
「いや、春まで戦はないし、暇をしていたんだ」
土方は軽く笑った。
「今度入れ札があると聞きましたが」
「ああ、まあな」
入れ札、というこれからの役割を決める選挙が行われる、というのはすでに誰もが知っていた。
榎本が提案した西洋風の頭の決め方だ。だが実際、総裁は榎本で決まりだろう、というのがもっぱらの噂で
その下の人事のほうがこれからの命運を分けるだろう、と隊士の中で話題になっている。
遊撃隊のなかでさえ、伊庭についで土方を支持するものが多い。
伊庭たちが箱館にやってくる前、新政府軍の統治下にあった松前を制圧する際、
連勝を重ね、無敗を誇ったのが土方が率いた隊だった。
軍神とまで呼ばれた彼が、軍を率いてくれるのなら勝利は見えるだろう。
本山もそう思っていた。だからこそ、余計に畏まってしまう。
江戸にいたころのようにはとても振舞えない。
「で、用件は?」
土方は茶を飲み干し、本山に問うた。
本山と土方がこうして伊庭を介さず話をするのは珍しかった。
「この間…八郎がここに来たと思うんですけど」
「……ああ」
土方は隠さず答えた。本山はそれに安堵した。
「あいつはなにも言わなかったけど、来るならここだろうと思ってました」
「別にここにくるのが目的じゃなかったみたいだがな。俺がここに帰ろうと思ったらおかしな奴がいたから
 拾ったんだ」
拾った、というずいぶんな土方の言い方に本山は笑った。
だが、土方にはその笑い声が空っぽに聞こえた。
「ただの喧嘩だったんです。…俺があいつを信じきれていなかった、それだけの」
本山は苦笑をまじえて呟いた。
「俺はあいつからなにも聞いてねぇよ」
「そうなんですか」
伊庭が土方のもとに来たあの日。
伊庭は泣き言ばかり言うだけで、その理由を聞かせてはくれなかった。
土方も無理に聞き出すようなことはせず、伊庭が泣き終わるのを待ち続けたのだ。
「…指輪が、なかったんですよ」
「指輪…」
「指輪をあいつが嵌めていなかったから…俺が怒っちゃって」
「…ふーん」
本当にただの痴話げんかじゃねぇかよ、と土方は内心苦笑したのだが、彼らには深刻な問題だったのだろう。
余計な突っ込みは抑えておく。
「だけど俺たちは指輪でしかお互いを信じられないのか、って…あとでそっちのほうが情けなくなっちまって…」
本山は節目がちに重く呟いた。
肩をがっくり落とし、傷心している彼の姿は土方にも小さく見えた。
あのとき、伊庭を見送ったときのように。
そしてすべての状況を把握した土方はふう、と小さくため息をついた。
「お前ら…馬鹿だなぁ」
「え?」
土方の言葉に本山がハッと顔を上げた。土方の顔が微笑んでいた。
「美加保丸が沈んで、こっちにくるまで約半年。ずっと一緒に生き抜いてきたんだろ?
 そんなちっぽけな指輪よりも、見えない絆ってのがあるんだよ」
土方はふと、眼下に見える雪庭を眺めた。
「…俺は京で鬼と呼ばれるほど、恐ろしいことをしたさ。暗殺をしたり策謀をめぐらしたり…
 今から思えば俺はいつ殺されてもおかしくないほど、人間として最低のことをしていた。
 ……だが、あのときを駆け抜けることができた」
土方の顔に曇りはなかった。
「それはきっと、…あいつらがいたからだ」
本山には「あいつら」を指す人物はわからない。
だが土方にとって「あいつら」と結ばれた絆がどれだけ深かったのか、感じ取ることができた。
その顔がとても綻んでいたから。
雪にその姿が見えるかのように、強いまなざしで。
「お前たちはそれ以上の絆で結ばれてんだろ?身体をつなげた以上、もうお互いなしでは生きられないさ」
茶化していう土方の言葉には強さがあった。
それでいて優しさとぬくもりがあった。
伊庭がどうして土方を頼り、信頼を寄せているのか朧げに本山に感じ取れた。
土方には特別な力がある。
誰かを魅了してやまない、強さという名の優しさが。
「しゃきっとしろよ。伊庭は特上の強がりなんだから、お前が支えにならねぇとだめなんだよ。
 指輪くらいでめそめそするな。物はいつかなくなったり壊れたりするんだ。
 大切なのは指輪じゃねぇ。お互いの信頼だろ。指輪はその証にすぎないんだからな」
「…はい」
本山が笑って答えると、土方も満足そうに頷いた。







ずっと奥の、谷底に落とされたかのような恐怖。
もがいても、もがいても、その暗闇の中から抜け出すことができない。
光をこの目に焼き付けることができない。
その瞳に。
銀色の指輪を見つけない限り。



キミガリ −君許− 15



「…ない」
伊庭は散らかった宿舎を眺めながら、失望と焦りで真っ青になっていた。
隊士たちの荷物も転がし、部屋の隅から隅まで探した。
また宿舎を出て、雪の中を真っ赤になる手にかまわず、掻きまわした。
雪が溶けてどろどろになっていて、とても探しづらいが隊士たちの協力は仰がず一人で探し続けた。
鎌吉が何度も「お手伝いしましょ」と袖を手繰るのだが、「いいから」と何度も説得した。
絶対になくしてはならないものをなくしてしまった。
だから、あの銀の指輪は自分が一人で見つけなくてはいけない。
そんな妙な使命感を感じていた。
だからこそ、二刻ほど探し続けた結果、見つからないことがとても苦しかった。
本山に何と言えばいいんだろう。
「俺のためにつけてほしい」
箱館に向かう船で恥じらいを含んだ顔で告白した本山の顔が頭を離れない。
あの約束を裏切ってしまった。
そして二人を繋いでいた指輪という脆い糸が、消えてしまった。
「……っ!」
どうすればいいのだろう。謝ればいいのか、泣きつけばいいのか…そして結局怒られ呆れられ、
離れていくのだろうか…。
不安に駆られ、気落ちする自分を誤魔化すことができなかった。
伊庭はぴたん、とその床に座り込み、地面を見つめていた。
その先は何も見えない。
立ち上がることさえできない。



キィ…と宿舎の古い扉が開く音がした。
伊庭はそれを動作として認識したものの、とても振り返る気にはなれずそのままうつむいていた。
鎌吉か、隊士の誰かだろうか…。
慰めに来てくれたのだろうか。諦めろと諭しに来たのだろうか。
「八郎」
「…!」
その呼び方はあいつ以外誰も言わない。
伊庭は体中が硬直した。とても振り返れるような顔ではない。
「なにしてんだ?隊士たちが寒がってたぞ。お前に締め出されて」
寄宿舎は伊庭は探し物をするから、という理由で隊士たちを外に出していた。
彼らを気遣う余裕なんてなかった。
「…ごめん」
「俺じゃなくてだな。隊士たちに言えよ、今日は特別寒くてだな…」
「ごめん」
普段どおりの本山の口調が余計苦しかった。
彼の指に光る指輪のもう一対がなくなってしまったといえば、彼はどう思うのだろうか。
「…どうしたんだ、おかしいぞ」
「…ごめん、ごめん……」
ごめん。
その言葉以外に何が言えるだろうか。
何もいえなかった。何かを言えばそれは言い訳になるような気がして…。
「…ふぅ」
すると背後で本山が小さくため息をついた。伊庭と本山しかいないこの場所ではそれがとても
大きく聞こえて…伊庭は振り向くことが怖くなった。
もしかしたら本山はとっくに見抜いていて、呆れているのかも知れない。
でも優しいから。それを何も言わず見守っていたのではないだろうか。
そんな錯覚までした。
「八郎」
振り向かないままの伊庭を背後から抱きしめるように、本山が腕を絡ませた。
大きなたくましい腕に包まれて、伊庭は少し落ち着く。
「これ…土方さんが」
本山は伊庭の右手をこじ開けて、何かを握らせた。
「……あ…っ!」
それは先ほどまで探し続けていた銀の指輪。デザインもそっくりそのままで本物だ、と直感した。
「なんで…」
「この間喧嘩したとき、土方さんの所にいったんだろ?
 たぶんそのときに落としたんだよ。新撰組の隊士が見つけて土方さんが預かってくれてた」
良い人だよな、と本山が耳もとで呟いて、そっとその指輪を伊庭の指に嵌めた。
久々のその感触に涙が出そうになる。
こんな小さな指輪に。
「探してたんだろ?こんな散々な姿にするくらいに」
本山は苦笑した。
伊庭がよほど慌てたので、行李や荷物がごった返し、家財道具の引き出しはあきっぱなし。
まるで盗人が入ったような部屋になっていた。
「…この間はごめん」
本山の腕がいっそう強くなった。
「小太…?」
「指輪のことくらいで、あんなに怒って…ひどいことした。お前が怒るのも当然だ」
「…」
怒ったのではない。何か不安に駆られて、気がついたときには殴って、走り出していたのだ。
本山一人のせいではない。
「土方さんに言われた。指輪よりも大切なものがあるだろって…。
 俺は指輪がなくなったら、八郎と一緒にいられないとか…そういう錯覚ばっかりしてたから。
 たぶん、指輪に盲目的になりすぎていたんだと思う」
本山は自嘲気味に笑った。
だが伊庭にはそれが答えだとわかった。
指輪がなくなったことですべてが壊れてしまう、そんな錯覚を自分もしていたのだ。
「もともと指輪は、もし何かあったときに俺のことを思い出してほしくて…そんな独りよがりの
 証でしかない。だからもし、この指輪がなくなったとしても、俺を思い出してくれるなら
 ほかの指輪でもかまわない」
彼の口調は驚くほど自信に満ち溢れ、強さがある。
「…だから、指輪よりも俺を信じて。指輪がなくなったとしても、俺はお前の傍にいるから」
その言葉が聞こえた耳が熱くなって、それに従うように体中が熱い。
感じていた孤独も、背徳も、すべてが霧が晴れるように消えていくのがわかった。
たったこれだけの言葉で。
「…お前、天才…」
「え?」
伊庭が呟くと、意味がわからなかったのか、それとも聞こえなかったのか、本山は首を傾げていた。
「なんか、…馬鹿なこと、考えてた」
「馬鹿なこと?」
「うん…お前と同じこと」
「ははっ…失礼だな」
「うん…俺は馬鹿だから」
抱きしめられた腕を握り返し、伊庭はそのぬくもりを直に感じた。
そしてそこから伝わる熱で、どんどん溶けていくのがわかる。
「だから…俺は昔より弱くなった。お前がいないと…生きていけれない。今日それがわかった」
「はは…それはどうかな」
「え?」
伊庭は思わず振り返る。そして本山が思っていたよりも至近距離にいたことに
少し驚いた。そして彼の顔はこれ以上なく穏やかなものだった。
「俺はお前が強いと思うよ。ただ…この半年くらいお前は強くなりすぎていたから。
 昔みたいに感情を露にして泣くこともなかったし、責任をおうことも多くなったし…早足で歩いてたみたいに
 お前は生き急いでいたように見えた。今、弱くなったっていうけど、そうじゃない。もとに戻ったと思う」
「そうか?」
「うん…俺が誰よりも知ってる。だからお前はそのままでいいよ。そのほうが…いい」
卑怯なくらい、その言葉は甘美なものだった。
魔法のように檻が外れていく。


「お前はただ前を向いて、胸張って、自分の生きたい様に生きれば良いよ。
 俺はそんなお前に憧れるし、ずっと追ってみたいと思うから。
 倒れ掛かったとしても俺は後ろにいるからお前は転けないし、道を間違えたりもしない。
 何の迷いもなく進めば良い。ただ、苦しくなったら振り向いて俺に頼ればいいんだ」






真冬の箱館は雪が降り続き、周りは雪かきをしたにもかかわらず、すぐに真っ白な世界へと変わっていく。
隊長の命令によって外に放り出された隊士たちは、皆身を寄せ合って寒さをしのぐ。
「鎌吉さん」
その中の一人が唇を紫にさせて、鎌吉に声をかけた。
「ん?」
「その、…先生はまだでしょうか。何かお探しならお手伝いするのに…」
隊士たちは純粋に隊長の命令に従うのだが、彼らにも限界がある。
何でも良いから風の当たらない場所に移動したい、というのが彼の本音だ。
それがわかっている鎌吉だが、こればっかりはどうしようもない。
「うーん、まだあと四半時くらいかかるわな」
「…はぁ」
「……いろいろと」
主様たちは仲直りをしているだろうか。
鎌吉は微笑ましい、二人の仲に思わず口元が綻ぶのを必死にこらえた。









お前と一緒にいられるこの冬が、あと一度しか来ないのだと俺は知らなかった。



キミガリ −君許− 16



雪が降り止まぬ12月22日。
この「箱館政権」の総裁を決める入れ札(選挙)が士官以上の投票によって行われた。
実際のところ、総裁は榎本以外に考えられない状況だったのだが
「米国に習って民主的にやろう」
という榎本の強い意志で、入れ札が行われることになった。
「お前に入れてやろうか?」
こそこそと耳打ちした本山に、伊庭は苦い顔をした。
結果はもちろん榎本が156票という圧倒的多数の支持を得て総裁に就任した。
だがそのことよりも土方に、73票が投じられたことのほうが大きく目立った。
連戦連勝を重ねた土方がどれだけ尊敬され、人望を集めていたのか伺える結果だった。

この入れ札によって箱館政府の組織が固まった。
総裁榎本武揚を中心に、海軍奉行荒井郁之助、陸軍奉行大鳥圭介などが名を連ね
土方は結局、陸軍奉行の補佐役に当たる陸軍奉行並というポストが与えられた。
そして伊庭は歩兵頭並に任命される。
片腕を失ったにも関わらず重要な役目を与えられたのは彼の人望だろう。
本山はそう思った。


その後は榎本の計らいで祝賀会が盛大に行われた。西洋の料理や菓子が並び
グラスにワインを注ぐ。そんな榎本らしい西洋風のパーティーだった。
ドレスに身を包んだ女性も現れ、場はいっそう華やかになる。
だが、その中に混じって酔いふけようとは思えず、伊庭は部屋の端でワインに舌鼓をうっていた。
紫に近い赤い色をしたワインは、日本酒ほど酔える味ではない。
その物足りなさに首をかしげていると、皿に食べ物を載せた本山が傍に寄った。
「食うか?」
「なにそれ」
「サンドイッチにケーキだって。よくわかんねぇけど」
彩が華やかだったからつい、と本山が頭を掻く。伊庭は苦笑しながらその中のサンドイッチを手に取った。
口に放り込むとそれはさまざまな感触が入り組む、不思議な感じがした。
「ワイン…だっけ。味が薄くていけねぇ」
本山が不満そうにワインを飲み干す。
一口で日本酒を一升ほど飲む彼には、何杯飲んでも物足りないらしい。

そんな風に騒々しさから離れ、二人で飲み交わしていると
「これを」
と、真っ赤なドレス姿の女性が近寄った。
彼女は目が落ちるほど大きく、真っ赤な紅と白魚のような肌が、ドレスの赤さで引き立ち
思わず見とれてしまうほどには美しかった。
「これは?」
伊庭が問うと女は微笑んだ。
「ビスケットですわ。小麦粉でできたお菓子ですの。召し上がって」
彼女は皿を伊庭たちに押し付けるように差し出した。
断るわけにもいかず、二人はそれを口に運んだ。
パキっと脆く折れたそれは、すぐ口の中で粉々になる。だがほんのり甘くておいしい。
「良い殿方がお二人そろってこんな隅にいたので気になってしまいました。
 こういうものはお好きではない?踊るのはどうかしら」
彼女は気を使っていろいろと声をかけてくれるのだが、どうも二人はあの騒がしい間に入っていく
余力がなく、彼女にこたえる気にはなれなかった。
だが彼女はそれが仕事なのだろうか、
「皆様、初めての方でも気軽に踊れますのよ。簡単ですし…」
と、彼女は食い下がる。その日焼けを知らない真っ白な手がだんだんと伊庭の手を引くようになる。
嫌ではないのだが、どうもこういう場ではしゃぐ気になれない。
そう告げるわけにもいかず、仕方ない、と思い伊庭は
「大丈夫ですありがとう」
と彼女に満面の笑顔で返した。すると彼女は少し見とれた風にして、だが恥じらいを含み、
「すみません、…では」
と長いドレスを引きずりながらあっさり踵を返していった。
それを笑顔で、手を振りながら伊庭が見送ると、隣から不審な声が聞こえた。
「色仕掛けか?」
少し本山が不機嫌な声を出した。
「違うよ。どっちかといえば牽制かな。安売りで笑顔を振りまくよりも気迫をこめて
 満面の笑顔を送る。そうすると近寄りがたい雰囲気を作れる」
「はー…」
「ま、土方さんの受け売りだけど」
伊庭は苦笑した。
この教えは土方が新撰組になる前、江戸にいたころに教わったことだ。
あの頃の悪知恵はほとんど土方に植え付けられているようなものだ。
「…お前、「土方さん」にしたんだ?」
だがそんなことよりも本山には違う部分が気になったらしい。
「え?」
「前は「歳さん」って言ってただろ?」
「それはもう「陸軍奉行並」のあの人に「歳さん」なんていえないからだよ」
「ふーん」
本音はこれ以上土方との仲を本山に疑われたくなかったからなのだが、これを言うとまた波乱を生みそうなので
心の中にとどめておく。


「よぉ、飲んでるか?」
噂をすれば影、とは言うが、その後すぐに土方が声をかけてきた。
だがその相手はどちらかといえば本山のほうだったようで。
「ええ。でもこの酒では酔えません」
と彼も間髪いれずに土方へ返答した。
土方は軽く笑うと「仕方ない」と本山を宥めた。
「そうだ、「陸軍奉行並」ご就任、おめでとうございます」
伊庭は軽く頭を下げた。だが土方は不機嫌な顔をして
「歩兵頭並が簡単に頭を下げんなよ」
と邪険に扱った。
「でも本当のことですし」
「「陸軍奉行並」なんで舌を噛みそうで困る。俺は「副長」のほうがよかったな」
それは本音だったようで、土方は刹那、穏やかな顔をした。
確かにいまや「新撰組の鬼副長」という肩書きのほうが通っている。
「でも…「箱館市中取締裁判局頭取」ってのもついでにもらった」
「なんです?」
「まあこの辺の見回りだ。そっちのほうが性に合う」
京の市中見回りが主な業務だった新撰組と同じような職務だ。それで、土方が機嫌が良いのかと納得する。
ただ彼の「ついでに」という言い草に、伊庭は内心苦笑した。
「土方先生!あ、違った。土方陸軍奉行並〜!」
三人で歓談を交わしていると、甲高い声が駆け寄った。一瞬女か、と思ったが
「田村君」
その声の持ち主は田村銀之助だった。新撰組の隊士で、土方の小姓のような存在の彼には
伊庭、本山とも面識があった。
「土方陸軍奉行並、探しました!」
少し息を切らした彼はその瞳をキラキラとしていたのだが、
「その呼び方、やめろよ」
という土方の言葉にそれを曇らせた。
「でも…この度の就任は、皆喜んでいるんです!」
「俺は副長のほうがいい」
「そんな…」
しゅん、と肩を落とした彼に、伊庭は慌てて声をかける。
「土方さんは捻くれているんですよ。君が気にしなくてもいいよ」
「いえ!伊庭歩兵頭並!僕の気遣いが足りなかっただけです!」
尊敬すべき彼の純粋さに、伊庭は苦笑した。
しかし、土方の言うとおり「伊庭歩兵頭並」は少し照れくさいような、痒いような心地がする。
「とにかく。皆に伝えておけ。役職が変わろうと俺の呼び方は変えるな。変えたらそれなりに罰するぞ」
「ははは」
笑う本山の隣で、田村がピィンと背筋を伸ばして
「はい!」
と一礼した。その姿に、三人とも声を合わせて笑った。
何に笑っているのか、さっぱりわからない田村は首をかしげながら「あ」と声を漏らした。
「伊庭先生。お顔色のほうが良くなったみたいですね。この間お会いしたときは、どうなさったのかと…」
「え?あ、ああ。大丈夫大丈夫」
彼が言うこの間、というのはあの喧嘩のときのことで、それ以来彼に会っていなかった。
こんな若い少年にも心配をかけたのだろうか、と思うと少し気の毒になった。
「すまないね、余計な気を使わせて…」
「い、いえ!!そんな…」
「この間は俺と喧嘩して、激昂してたんだよ」
本山が軽く笑いながらあっさり言う。
「そうなんですか?」
「あ、ああ」
確かに簡単に言えばそうなるのかな、と伊庭は首をかしげながらも頷いた。
その隣で土方が含み笑いを浮かべながらちらり、と伊庭を見た。口ごもった伊庭が面白かったのだろう。
「ではお二人は仲良しなのですね!」
「あ、ああ…そ、そうかな」
「そうです!だってお二人が一緒におられると、すごく楽しそうです」
「へ?」
田村のさらなる追打ちに、伊庭は唖然となり、本山も苦笑し、土方は腹を抱えながら笑いをこらえていた。
事情を知らない田村でさえもそう見えるのだろうか…と思わず考え込んでしまう。
別に何か特別に意識をしたわけではないのに、と伊庭と本山は顔を見合わせて首をかしげた。
「はは…それで?お前の用は何なんだよ」
助け舟を出すように土方が田村に振り向き、話題を変えた。
「あ、そうでした。先生、新撰組の皆さんが酒を用意して待っているので来てくださいと」
「あ?」
「この度の就任の祝い酒ですよ!」
両手の拳を握り締めて、田村は言う。
「皆待っているんです!先生、できるだけはやく帰ってきてくださいね!」
「祝い酒なんでどこで手に入れたんだよ…」
伊庭には呆れながらも土方の顔は嬉しそうに映った。
田村と土方の会話はどこか微笑ましい。兄を慕う弟のように見えるのは自分だけではないだろう。
渋々了承した土方は、その田村に手を引かれるようにして去っていった。



華やかなパーティーは夜通し続くらしく、明るい光が窓から漏れていた。
その光は外まで照らすほどで、活気のある声も静かなこの土地には良く響く。
そんな中から逃れるようにして、伊庭と本山はテラスへと出ていた。
外へ出るとこの騒がしさが嘘のように、静かな夜空が広がっていた。
そして冬の寒さが、木枯らしとともに押し寄せた。
「寒いだろ」
本山が伊庭の肩を抱くようにして羽織を被せた。その仕草に伊庭はくすぐったさを覚えた。
一枚の羽織を共有する。昔はなんでもないことだったのに。今は照れくさい。
「…寒いけど、こんなことしたらまた疑われる」
田村のように、と付け足すと
「いいよ。別に隠すことじゃないし」
とあっさり本山が言うので、伊庭も反論できない。それに顔が赤くなる。
「やっぱりこんな寒い日は着物を何枚も着たほうが暖かいな…」
「ああ…」
本山が遠くを見ながら言う。
お互い西洋の軍服に身を包んでからは、和服に袖を通していなかった。
綿入りのこの羽織は、なんだか久々のぬくもりを感じた。そして、彼の温かさも。
「春になったら、着物を着ようか。花見にこんな軍服なんて似合わない」
本山の提案に伊庭が頷く。
「春になったら…か」
春になったら、きっと戦が始まる。
そんなことはわかっていたが、伊庭は口にすることができなかった。だが本山は続ける。
「蝦夷には桜が咲くのかな」
「寒いから咲かないのかもな…そういえば西国は江戸よりも早く咲くそうだから、
 こっちはもっと遅く咲くのかもしれない」
「夏に桜か?いいかもな」
「でも俺は…もっと早く咲いてほしい」
この冬がいつまで続くかわからない。そしてきっと春が来れば戦が始まる。
真っ赤な血で汚れる前に、その咲き誇る姿を見たい。
本山のぬくもりに包まれながら、そんなことを思った。
「…八郎」
「ん?」
「この戦が終わったら…この蝦夷に住んで、何をしようか」
「え?」
「俺はあの辺に住みたいな。あそこにおいしい酒屋があるんだ。味も濃くてこんなワインよりもいい」
本山が指差す方向には、小さな村がある。一度二人で行ったのだが、唯一、というほど
店が立ち並んでいた。
「ああ、でも温かいところがいいかもな。もっと違うところにいってみようか?」
「小太…」
「温かいところなら…桜が見られるかもしれない」
だろ?と同意を求めるように本山が伊庭の顔を見る。
本山の表情は決して悲嘆してはいなかった。
戦が終わった後の、明るい未来を想像している。そして彼の隣には自分の姿がある。
それはとても嬉しい。
伊庭は笑った。
「桜の下で花見をするか」
「ああ、酒を買い込んでいく。二人でいこう」
「…ああ」
星がきらめく夜空に、なぜかその桜がぼんやりと見えた。
幻影に違いないそれは、とてもリアルで…その木の下には酒を飲む二人がいた。
「早く春になればいいのにな」
本山の言葉に、うん、と頷いた伊庭はいっそう深く、彼のぬくもりを求めた。






通り過ぎていく季節を取り戻すことはできないから。
せめて、この瞬間を共に生きたい。



キミガリ −君許− 17



明治も二年目となり、1月となっていた。
伊庭たちが蝦夷へやってきてから二ヶ月ほどになるが、この北の大地の雪はなかなか溶けそうにない。
おかげで新政府軍がむやみに戦を仕掛けてくることもなく、戦地とは思えない穏やかな日々が続いていた。
新政府軍からは再三降伏するようにと達しがあったが、こちらが首をたてに振ることはなく、
春の決戦はだんだんと迫ってきていた。
この雪が消えれば。


「…遊撃隊頭取?!」
正月明けの夕方。祝い酒に酔った遊撃隊が陣を構える松前にやってきたのは本山だった。
久々に顔を見た途端「遊撃隊に異動になった」と笑う本山を見て、伊庭は喜ぶ以前に腰を抜かした。

実は数十日前、本山は箱館奉行所へ配属された。
遊撃隊と行動を共にしたとはいえ、正式な遊撃隊隊士ではない彼は別の役職へと異動となったのだ。
歩兵頭並となっていた伊庭はいくつかの隊を引き連れ松前にいたため、本山と少し別れることになった。
それを聞いたときは二人とも寂しく思ったのだが、一ヶ月も経たないうちに帰ってこられては
それはそれで心配する。
「お前…なにか、やらかしたのか?」
「なんだよ、その疑いのまなざしは」
本山が不満そうに呻いた。
本山が箱館奉行所へと配属されたのは、以前幕府の評定所で書物方をしていたことが買われたのだ。
一応引き抜きのような形になっていたのに、すぐに帰ってくるのは何か大きな失敗をやらかしたに違いない。
「笑ったりしねぇから話せよ。何したんだ?書類の不備か?」
「だから、違うって」
本気で心配している伊庭に苦笑して、本山はぽんぽん、と伊庭の肩を叩く。
「榎本先生から直々に、そういう命令をもらったんだよ」
「榎本さんから?」
「ああ。上官命令じゃ逆らえないだろ?」
伊庭の顔を伺うように尋ね、伊庭は反論する理由もないので頷く。
確かに遊撃隊の頭取に就任するには、彼らとも交流がある本山が一番適任だろうが
別に必要に迫られた役職でもない。
「……また、土方さんに借りができた…」
伊庭は思わず頭を抱えた。にやにやとしたあの土方の含み笑いが、安易に想像できた。
「……なんだよ、もっと喜べよ」
伊庭が頭を抱えていると、今度は本山が不機嫌そうに言った。
きっと彼はこの命令が出たときに、飛び跳ねるように喜んだのだろう。それも安易に想像できた。
だが、嬉しい。
「…嬉しいよ。でもせっかく送別会、やったのに」
「何だよ、不満たらたらだな」
「お前、しばらくの別れになるから、とか何とか言って、人を散々弄んで好き勝手にしたのは
 覚えているんだろうな?次の日、だるくて俺は布団から起き上がれなかったんだからな」
伊庭はふん、と腕を組んでそっぽを向いた。もちろん照れ隠しなのだが
「悪かったって。あの時も散々謝っただろ?」
本山が「このとーり!」と真剣に頭を下げるものだから、許してやるしかない。
伊庭は彼に気づかれないように微笑して、「仕方ないな」と憮然と言い張った。

「あ!本山せんせ!どーしたんでっか!?」
今も伊庭と行動を共にしている鎌吉が、驚いた顔のまま駆け寄った。
彼は今もまだ古びた着物を着続けている。
「久しぶり。俺、またこっちに配属になったから」
「へぇー!そりゃあ良かった。先生も心強いでしょう」
鎌吉が意味ありげな顔でこちらを見たのは、もちろん二人の関係のことを言ったからなのだろう。
だが伊庭はそれに気がつかないふりをして
「そんなことないよ」
と言い張った。だが鎌吉はよく心得たもので
「本山先生。今夜は正月祝いの締めの宴会がありますからな、この宿舎はからでっせ」
「へえ。いいこと聞いたな」
「鎌吉!」
彼の気遣いのような悪戯のような一言に、伊庭は慌てて鎌吉を叱りつけることでしか、
恥ずかしさを隠すことはできなかった。
もっとも。鎌吉は主の真っ赤になった首筋を見抜いてはいたのだが。




遠くで男たちが騒ぐ声が聞こえる。
ドンチャン騒ぎをいつまで続けるつもりなのだろうか、もう年が明けて日が経つというのに。
伊庭は半ば呆れてその声に耳を傾けていた。
だが、ぎゅうっと痛いほどの口付けでその声はぷつんっと消えていく。
「なに、ほかの事考えてんだよ」
「ごめん…わかった?」
「わかる。お前のことはなんでも…」
その甘美な響きに頭の中が真っ白になる。
二人だけの時間はいつも止め処なく早く流れていくというのに、今日はなぜか時がとまったかのように感じた。
それはきっと目の前にいる男のせいだろう。
久々の行為に気を使い、何度も何度も繰り返し愛撫をするせいで、くすぐったい心地がずっと続いている。
でもそれは嫌ではなくて。
幼子が母に慰められるように、温かく包まれていくのがわかるから。
きっとどんなに心地よい快楽があったとしても、この優しい時間には敵わない。
その温かさに溺れながら、伊庭は目を閉じた。


正月の宵山は終わりを告げたのだろうか。騒がしい男たちの声は聞こえなくなった。
二人して狭い布団に挟まれて、お互いの体温だけで寒さをやりすごしながら、
ふと、彼が口にした「遊撃隊頭取」という言葉を思い出す。
「遊撃隊…頭取、かぁ…」
「ん?…なに?」
伊庭の呟きを聞き取った本山が額を合わせるほど近い伊庭に尋ねた。
「いや、なんか…変な感じ。お前が遊撃隊を率いることになるなんて…」
「俺もそうだよ。いわばお前の後釜が俺なんだろ?なんか信じらんねぇよ」
苦笑した本山の表情には困惑も伺えた。伊庭は微笑む。
「…小太なら大丈夫だよ。それにあいつらも…皆、気のいい奴ばっかりだから…」
「ああ、その点は安心してる。ただ…俺は率いるような人間じゃないからさ」
「ん?」
本山が頭を掻いた。
「お前みたいに勇敢に戦えないだろうから、遊撃隊の奴ら失望するんじゃねぇかな」
「勇敢に?」
「死んでもいい、なんて覚悟、俺にはないから」
あっさりと言い切った彼の表情を図り知ることはできなかった。
伊庭は何かに駆られ、本山の輪郭を確かめるように右手を這わせた。
「…ん?なに」
「どこに…いるのかとおもって。暗くて、よく見えないから」
右手で彼の輪郭を確かめる。ゴツゴツして男らしい顔立ちは感触だけでも良くわかる。
流れるように彼の背中に手を這わせると、そこはいつも腫れている。
いつも伊庭が、思わず彼の背中につめを立ててしまうのだ。
「ここに、いるよ」
「うん…わかる」
わかるよ。
繰り返した言葉に惹かれるように、いっそうその肌を近くに感じる。
強く抱きしめられるとひどく安心した。ここにいるんだ、と安堵を覚えた。
「…八郎」
「ん…?」
「戦が始まらないうちに、桜を探しに行かないか?」
「桜…?」
「前に、見たいって言ってただろ…?」
ああ…と頷きながら、昨年の入れ札が行われたときのパーティーを思い出した。
二人でテラスに出て、桜の話をした。
「でもまだ一月だぞ?それにこんなに寒いし…」
「今のうちに見つけておいて、春になったら見に行くんだ。春は忙しくて探している暇もないから」
普段は計画性もなく行動する本山なのに、と、らしくない彼の様子に伊庭は苦笑した。
しかし、その瞳は子供の探検のときのようにキラキラと輝いていて
伊庭は頷くしかなかった。
「…でも、桜なんてあるのか?」
「さあ…ここらにそれらしい樹はないけど」
「なかったらどうするんだよ」
「きっとあるような気がする」
「どういう自信だ」
「なんか夢に出てくるんだ。雪に吹かれながら咲く、桜が」
「桜は春に咲くんだぞ?」
「不思議だろ?だから、あるような気がする」
くすくすと狭い距離で笑いあい、そのぬくもりに抱かれながら、伊庭はゆっくりを目を閉じる。
夢に落ちてしまうのは、いつもあっという間だ。


満開の桜が目の前に広がっていた。
肌はまだ寒さを感じていたから、これは夢だと、自分の中でわかっていた。






足元にある雪はまだ溶けそうにない。



キミガリ −君許− 18



パカッパカッパカ……
かつて江戸で聞いた懐かしい音が耳元を掠めた。馬の蹄の音は高らかで心地よい。
伊庭はそれにそそられる様にそちらに顔を向けた。
「と…土方さん」
「やっぱり伊庭か」
慣れた手つきで馬の歩を緩め、はるか頭上から笑ったのは土方だ。
先日、陸軍奉行並という役職とともに箱館市中取締裁判局頭取という役割を与えられた彼は
後ろに数名の男たちを引き連れて見回りをしている。おそらくは新撰組の者だろう。
土方は漆黒の馬から慣れたように飛び降り、馬を落ち着かせるようにポンポンと腹を叩く。
どこからしくなくて、伊庭は苦笑した。
「一人か?」
土方は伊庭を凝視した。何か含みのある目だった。
「……あいにく、一人ですよ。あいつも、それから鎌吉も来るって言ったんですけど断りました」
「へぇ?なんで」
「今日は腕のことをみてもらいにきたんでね」
「そうかい」
面白くない、という風に土方が手を振る。どんな展開を待っていたというのだろう。
伊庭は訝しげに土方を見たが彼が答える様子はなかった。
「見回りはどうなんですか」
「どうもこうも、なにもないさ」
「そりゃいい」
「良くない。あの頃のように忙しすぎるのは困るが、何も無いのは面白くない」
憮然と言い張った彼の表情は本気だった。今まで戦の連続だったため、こんな休日のような毎日に
嫌気が差しているのだろう。言葉にとげがある。
伊庭は内心苦笑した。

「腕の診療になんであいつも来ないんだ?」
話を蒸し返した土方は不思議そうに首をかしげた。
確かに大概のことはいつも一緒、お神酒徳利の二人が一緒にいないのは不自然なのだろう。
「…腕のことを言うと、何故かあいつらが痛そうな顔をするんですよねぇ…」
伊庭は躊躇いながら、目をそらした。
鎌吉は伊庭が腕を斬られるのをみている。あの箱根の三枚橋のことだ。
あのときのことを思い返すのが悔しいのか、嫌なのか、普段は明るい彼だが腕のことになると表情が暗くなる。
それは本山も同じだった。
見てもいないのに、まるで自分が斬られたような顔をする。
「…見ているだけのほうがつらいこともあるさ」
「え?」
突然彼の声色が変わり、伊庭は驚いて俯いていた顔を土方に向ける。
その顔はどこか慈愛が籠もっているかのように優しく映る。
「苦しみや痛みは…本人しかわからないから、妙な慰めや気遣いもできないでいるんだろ。昔の俺と同じさ」
「昔?」
「ああ。血を吐く総司に、どんな言葉をかけて良いか、わからなかった」
彼の表情が一瞬澱んだ。伊庭はそれにすばやく気がついた。
「もう気づいたときには遅すぎた。血を吐くたびに命が短くなるのはわかっていたから、頑張れと慰めることもできない」
「それで…?どうしたんですか」
何かに掻き立てられるかのように、伊庭は尋ねていた。
「…できるだけ早く、死んでほしいと思った。あいつが本懐を遂げる形で」
土方は激痛に苛まれたような顔をした。目を閉じて、何を思い出しているのだろうか。
そしてそれをみた瞬間、伊庭は迂闊にたずねた自分を恥じた。
こんなことを言わせてしまった。
「…すみません、変なことを聞いて」
「いや、昔の話だ」
目を開けた土方は、いつもの土方に戻っていた。
ただ、いつもの、というのはこの箱館に来た土方だ。
ここにたどり着くまでに、彼にどんな苦しみがあっただろう。想像することもできなかった。
「とにかく、お前は無茶してあの色ボケに心配かけんなよ」
「色ボケ?」
「お前の男は、お前を見る視線がいっつも艶っぽい。あんなんじゃあ、お前たちの関係なんてバレバレだ」
土方は忠告を交えた苦笑を浮かべながら慣れた馬に乗り、呆ける伊庭を見下ろした。
「じゃあな」
土方はヒラヒラと手を振り、数名の部下と共に去っていった。
伊庭はその背中を見送りながら、言葉の意味を理解し、思わず赤面する。
そして寄宿舎に戻ったら、一喝しなければならない、と帰りを待つ恥ずかしい男の顔を思い浮かべた。


雪道を歩き、たどり着いたのは箱館病院。
病院といってもたいした設備が整っているわけではない、雪に埋もれた少し大きな民家だ。
だがそこには堂々と「箱館病院」という看板が掲げられている。
伊庭が足を運ぶのは久々だった。
箱館病院は榎本とともに箱館へ来ていた医官高松凌雲が開いた。
戦が始まらない今は、先の松前城攻略の戦での怪我人を収容しているが、ゆくゆくは新政府軍との戦での負傷者を収容
することになるのだろう。
伊庭が足を踏み入れると、そこは病院らしい陰気くさいものが漂っており、伊庭は思わず眉を寄せた。
その場所にいるだけで気分が落ち込むような気がする。
重傷者や病人が横になっている一室からは呻き声も聞こえた。
「…あー、伊庭さん」
突っ立っていた伊庭に、声が掛かった。
「ああ、先生。お久しぶりです」
もちろんその人は高松凌雲。
「久しぶりすぎる。一ヶ月に一度は来いと言っておろうに」
高松は伊庭を見てまず渋い顔をした。
高松は伊庭よりも少し10ほど年上で、かつて将軍の侍医を務めていた優秀な医者だ。
しばらくパリへと留学して、外科を実習し、帰国した後はこうして榎本と共に箱館で病院を開いている。
彼曰く、これを赤十字活動だ、とか。
「すみません。こう、寒いと動く気になれないんで」
笑ってごまかすと
「若いのに何を言う」
と、逆に怒られてしまった。
「何度も言うが、お前さんの傷口は荒療治で縫合されたもんだ。それは戦の最中だから仕方ないにしても
 ちゃんと清潔にしておかなければ、そこから毒が入ってだな…」
「全身に回って病になる、ですよね。もう覚えちゃいましたよ」
伊庭が笑って答えると、高松は苦虫を噛み潰したような顔で
「…わかっているならいい」
と言った。


高松の丁寧な腕の処置は、すでに痛みは無いはずの腕にあの日の記憶を思い出させる。
普段からこの腕のことは考えまいとしているのだが、まじまじと見せ付けられるこの時間が嫌いだった。
この病院に寄り付かないのもそれが理由だ。
だが、高松は違うことのほうが気になるらしい。
「その指輪。誰とお揃いなんだ?」
「え?」
彼が指摘したのはもちろん右手に光る銀の指輪だ。指輪というものを知っている者は少ないが
外国で医学を学んだ高松には目に留まったようだ。
「誰とって…」
伊庭は口ごもった。
「どこでその知識を学んだのかは知らんけどな、女と二世を交わすような約束はするなよ。
 戦が始まるんだ、可愛そうなことをしてはいかん」
「はあ…そうですね」
安易に女とお揃いだ、と思ったらしい高松は説教じみた言い方で伊庭を諭した。
伊庭は曖昧な相槌を打つ。
「……相手が女なら、だが」
「!」
高松がにやり、と笑う。
白衣を着て、無精ひげを生やした高松がそうすると、いっそう不気味だ。
「…噂くらい、聞いておるわ」
「…はあ、そうですか…」
どういう噂かは知らないが、きっと本山のことだろう。
こんな医者のところにまで耳に入っているとは、と伊庭は少し落胆する。


「ありがとうございました」
診療はすぐに終わったが、高松の長い説教を聞かされたせいでずいぶん日も落ちてしまった。
伊庭は赤い空を見上げながら、慣れない靴をはいた。
「伊庭さん」
高松は急に押し迫ったような顔をした。
「また、一ヶ月以内に来い、ですか?」
伊庭は言われる前に、と思ったのだが彼は首を横に振った。
「一ヶ月以内に来ないように」
「…え?」
聞き間違えたのか、と高松を見直すとそうではない。彼の硬い表情がいつもと違っていた。
「…もう、一ヶ月もすれば戦が始まる。この病院も血まみれで運ばれてくる者が増えるだろう。
 お前さんまでその中にいられたんじゃあ、迷惑だ」
「先生…」
「医者は患者を生かすことが仕事だ。安易に生きることを諦めてもらっちゃあ困る」
「……わかりました」
伊庭が頷くと「よし」といって彼は満足げに頷いた。
彼に言われるまでもない。
もう死ぬことだけを考えていたあの頃とは違う。
「俺はここであいつと暮らすんです」
約束がある。




「八郎ー!」
箱館病院からの帰り道は、予想以上に暗い道となった。提灯を持ってでなかったため
足元がよく見えない。それに雪も降り始めていた。
手探り状態で帰り道を模索していた伊庭には、その声が余計に大きく聞こえた。
「…小太?」
この箱館でその呼び方をするものは一人しかいない。
伊庭は目を凝らすと、火の光が見えた。
駆け寄ってくるその光は激しく揺れているが、確実にこちらに近づいてくる。
「小太!」
その光を逃さないように、伊庭は夢中で手を振っていた。

「遅いから心配したんだぞ」
本山は少し怒った風に言った。
「…子供じゃないから大丈夫だよ」
ムッとした伊庭が無愛想に返事した。思った以上に不機嫌な声が出てしまい、自分で少し慌てる。
すると本山は少し間を置いて言う。
「なんだよ、せっかく迎えに来てやったのに」
「た、頼んでない」
「提灯持ってなかっただろ?どうやって帰るつもりだったんだよ」
「別に!適当に帰れる!!」
「道に迷ってたくせに」
「迷ってない!!」
引き返すこともできず、伊庭はタイミングを失った。
礼を述べたいのに、思ったことと逆のことが口を付いて出てしまう。
「…迎えに来たのに、お前は嬉しくないのかよ」
「嬉しいに決まってるだろ!………あ」
売り言葉に買い言葉、大声で叫んでしまった。
思わず口を手で塞ぐがいまさら遅いのは言うまでもない。だんだん赤面していく自分を抑えきれない。
本山はその様子を見て、莞爾として微笑んだ。
「まったく、素直じゃない」
「す、素直じゃないんだよ。呆れるなら呆れればいいだろ…!」
恥ずかしくて、恥ずかしくて、顔をそらす。だがそれを本山は両手で捕まえてまじまじとその顔を眺めた。
赤くほてった頬に、彼の冷たい手が触れる。
「な、なんだよ…」
暗闇の中で、明かりは提灯の小さなものだけ。
それでも彼の顔をしっかり見ることができるこの距離に、伊庭はますます顔を赤らめた。
彼がじっと、顔を見ていた。
「素直じゃないし、口は悪いし、世話が焼けるし」
「なんだよ」
「でも可愛い」
「…はぁ?!」
渾身の力で伊庭は本山を突き飛ばした。
「お前…!何を言ってるんだ!この色ボケがぁ!!」
「見たままの感想だろ」
赤裸々な本山の言い分に伊庭は固まった。


「…なぁ、お前、いつもそんなこと考えてんの?」
「ん?ああ。いつも抱きたいと思ってるし、できれば外に出したくないと思ってるな」
「…変態かよ」
「変態でもいいよ、俺はお前が好きだから」
「……バーカ」
あっさり語ってしまうこいつにはいつも適わない。
ただ、
短絡的なこの言葉に、いちいち体が熱くなっている自分を知られたくなくて。
ぶっきらぼうに答える自分が、少し恥ずかしかった。






戦の足音が迫っていた。



キミガリ −君許− 19



「アボルダージュ?」
いささか発音しにくい言葉を口にした伊庭は、首をかしげた。
三月中旬。ようやく足元の雪が溶け始め、春と戦が迫ってきた頃。
土方がふいに現れた。小姓といっていた田村も一緒にだ。
五稜郭帰りだ、という彼の表情は久しぶりに曇っていた。
「日本語で言うなら接舷攻撃といったところだそうだ」
「…日本語で言われてもいまいちわかんないんですけど」
本山が頭を掻いた。


土方はその話を黙って聞いていた。
意見や反論をすることももちろんできたのだが、何故かそんな気になれなかった。
五稜郭のこの一室はテーブルと腰掛が並べられた会議室。
真ん中に置かれたこの沿岸と敵味方に扮した駒を並べ、幹部たちは熱い議論を交わしていた。
「もう新政府軍の動きは始まっている。先手を打とうではないか!」
「いや、待ちたまえ。雪が溶けきらない今、動くことはできない」
「しかし遅すぎてからでは困るのですぞ!」
怒号のように交わされる会話からは、まるで蚊帳の外。土方は目をつぶり、腕を組んだままだった。
先日、新政府軍がついに動き始めた、という情報が入った。
新政府軍は数隻の軍艦と共に宮古湾(岩手県東部)へと入港し、春の蝦夷に備えていた。
幸いにもまだ戦へと動く気はないらしい、と察知した幹部たちは今のうちに何かを仕掛けよう、と議論しているのだ。
特に熱くなっているのは海軍頭ならびに軍艦回天の艦長、甲賀源吾。
「開陽を失った今!この作戦しかありません!」
開陽はかつて幕府軍の主力戦艦だったが、松前攻略中に荒波に塗れ、海へと沈んだ。
その沈む姿を見送りながら、皆は涙を流し、この戦の切り札を失ったのだ。
そして現在、戦力として「回天」「高雄」「蟠龍」の三隻が残っているのみとなっている。戦力として心もとない。
「…作戦とは、どのような」
榎本が興味深そうに甲賀に尋ねた。
「敵軍の「甲鉄」の奪取です」
ザワッとどよめきが起こった。
「何を言っているんだ」
「そんなことは…!」
批判めいた言葉が甲賀に飛ぶ。
だがそのなかで、榎本だけが「うむ」となにやら考え込み、頷いた。
「甲賀君。まず君の考えを聞かせてくれ」
「はい、総裁」
甲賀は立ち上がった。
「敵軍の「甲鉄」…ストーン・ウオール号は船体が鉄板で覆われた装甲艦です。
 これは敵軍にとっても要の船。逆に言えばこれを奪えば逆転の希望も見えてくる」
「逆転?」
「我々は昨年開陽を失った。正直、開陽を失った傷はあまりにも深い。それを補う意味でも
 敵軍の「甲鉄」を奪取し、我々の勝利への第一歩とするのです!」
バンッと机を叩く音が響いた。
「しかし、どうやって?作戦はあるのかい」
「ええ。アボルダージュ・ボールディングというフランスの戦術です。こちらの言葉では接舷攻撃という」
「アボルダージュ…?」
甲賀は隣に座るフランス海軍士官ブリュネと頷きあう。
「今、宮古湾に入港している敵軍を「高雄」「蟠竜」で接舷し…斬りこみ、奪取する」
「不意打ちか…」
榎本がやや不本意そうな顔をした。
だが大概の幹部たちは
「た、確かに…。もしそれが成功すれば、」
「ああ…明らかに我々の戦力は倍増するだろう!」
「総裁の作戦通り、戦を長引かせ敵軍の持久力を損なわせることも…」
「これは可能性がある!」
口々に一転した意見が出た。みな、表情に輝きを持ち始める。
しかし、土方は既視感を持った。いつか榎本から聞いた夢物語をもう一度聞いているように思った。
実現することの無い幻想。
希望通りの未来。
だが、活気づいたこの場でそれを表に出すことはできなかった。
「…大博打だが…榎本総裁、賭けてみる価値はあると思う」
海軍奉行、荒井郁之介が深く頷いた。隣で考え込んでいた榎本がしばらく間をおいて、深く深呼吸する。
「私の一存で決められない。皆で多数決をとろうではないか」
すぐの決議によって、アボルダージュ・ボールディングは採択された。



「つまり不意打ちに船を接舷させ、斬り込んだ上で甲鉄を奪取…ですか」
一通りの説明を聞いた伊庭は、気が進まない顔で土方を見た。
いくら作戦とはいえ不意打ちとは武士のすることではない。伊庭はそう思ったのだが
「そんな顔をするな。勝つためだから仕方ない」
と土方に諭された。
勝利のために、栄光のために彼は暗殺や不意打ちを繰り返したきたのだ。
土方の否定できない微妙な思いが窺えた。
「でも斬りこみ隊の指揮を任されたとは…。重役ですね」
「ああ、新撰組でのことを買われたんだろ」
「松前城攻略での連勝と指揮能力も、です!」
土方のやや後ろで、高らかに怒鳴ったのは田村だった。
「ったく…こまけぇ男は大きくなれねぇぞ」
「でも本当のことです!!」
両手を握って力説する田村を眺めて伊庭と本山は苦笑する。
土方を心底尊敬して止まないらしい彼は、自分のことのように必死な顔をしていた。
「我々一隊士のなかでは、土方先生は軍神として崇められているんです!先生指揮の戦には負ける気がしないって!」
「わかった、わかった。そんなに俺のことばっかり言うな。義父の春日くんをヨイショしてやれよ」
「ヨイショじゃありませんッ!!」
田村は子供のように叫んだ。
田村は先日、陸軍隊長春日左衛門の養子となっている。
土方の前ではこんな「土方崇拝」の彼だが、まだ若いのにキリキリ仕事をこなし評判になっているらしい。
また利発さを買われて通詞の田島応親にフランス語を学んでいるとか。
「ま、まあまあ、田村君。落ち着いて」
宥めようとした本山に、土方はふん、と鼻で笑う。
「拗ねてんだよ。こいつ、アボルダージュ作戦に連れて行ってくれないってな」
「そうです!どうして僕を連れて行ってくださらないのですか!」
田村は不満を爆発させたように言った。
「僕は土方先生の小姓です!いつでも離れないのが仕事じゃないんですか!」
まだ若年のため非戦闘要員として扱われている彼は、激情的になった。
今まで一人前扱いをしてくれていないのが、積もり積もっていたのだろう。
そんな田村を土方は苦笑気味に眺めながら。
「お前もわかってんだろ、この作戦は失敗するぜ」
と気楽に言い放った。
「土方さん…?どういう」
「……ただの予感だ。気にするな」
含みのある顔で、伊庭を見た。



「明日、深夜の出発だ。新撰組の精鋭ばかりを連れて行く」
見送る伊庭と本山に、土方は傘をさしながら呟いた。雨に変るような雪が降り続けていた。
「……伊庭」
「…はい」
「もう、戦が始まるな」
じゃあな、という風に土方は手を振った。振り向きもせず、まっすぐと歩いていく。
「待ってください!」
少年の面影を残した田村が、背中を追いかける。
いつもの見慣れた光景。
だがその背中だけは違っていた。
「…戦、か」
「ああ…」
降ってくるのが当たり前だった雪が、冷たい雨に変る。何故か寂しくて、伊庭は手をかざし、雪を探した。
まだ戦が始まらないでくれ。
願った。



土方の言うとおり、船は翌日20日の深夜に出航した。
アボルダージュ作戦を実行する「高雄」「蟠竜」とともに補助的な役割で「回天」が同行する。
戦闘力の大きい「回天」は援護役に回ったほうが得策だという意見が取り入れられた。
艦長は甲賀源吾、海軍奉行荒井郁之介。土方も斬りこみ隊の指揮官として同乗した。
接舷したあとの白兵戦は海兵には不得手だったため、新撰組の精鋭たち、相馬主計、野村利三郎
彰義隊の笹間金八郎、加藤作太郎なども同乗した。
深夜の出発となった決死隊は、静寂と沈黙の見送りの中、箱館を出発した。
伊庭はだんだん遠くなっていく戦艦たちを、目だけで見送った。


「行っちまったか…」
夜の海辺に立ちつくしていた伊庭に後ろから羽織をかけながら、本山が声をかけた。
海に三隻の戦艦はもう見えない。だが、伊庭はそこから目が離せなくなっていた。
「…なんだか、信じられないな」
「ん?」
「この二、三ヶ月…ずいぶん平穏な暮らしをしたんだと思い知らされる」
「……ああ」
羽織を握り締めた。目をそらせば急に寒さが身にしみてくる。
「なんだか…寂しいな」
ポツリと呟いた。
「なんで…土方さんがいないから?」
「違うよ。まだ根に持ってんのかよ」
ムッとした本山を苦笑気味に見て、また黒海に視線を戻した。そこに船は無い。ただ不気味に押し寄せる波の音だけがある。
「…アボルダージュ作戦、か。不意打ちなんて俺たちの性に合わないな…」
「こだわってるな」
「いい気はしないだろ?不意打ちで相手の船を奪うなんて…突拍子も無い考え」
「でもお前も考えてただろ?箱館に来るとき」
「あれは冗談だ」
そんなことまで覚えているのか、と伊庭は本山を横目で見た。
箱館に来る前。横浜に潜伏していたときに伊庭が横浜港に入港していたアメリカのストーンウォール号を
奪って箱館に渡ろうと提案したことがあった。
本山が「やめておけ」と何度も忠告したため伊庭は止むなくあきらめたのだ。
「…何でもいいさ、この戦に勝てば。俺はお前とここで桜が咲くのを見たいだけだ」
「ああ…そうだな」
伊庭は本山にもたれ掛かった。
潮風の匂いがした。
「…そういえば、田村君はやっぱり連れて行ってくれなかったようだなぁ」
本山が苦笑気味に伊庭を背中から抱きしめながら、言う。
「そうだろうなぁと思った」
「まだ若いからな」
「それだけじゃないさ」
「え?」
伊庭が無骨な本山の手を引き寄せて、自分のそれと重ね合わせた。
指輪のキンッと重なる小さな音がする。
「田村君のように若くて、利発で、何よりも土方さんを尊敬しているからこそ…ああいう作戦を見せたくなかったのかな。
 素直で純粋な子に、不意打ちなんて卑怯な真似を教えたくなかったのかも」
「…へぇ、優しいな」
「もともとああいう人だよ」
そうだ。
江戸にいた頃は、人を惹きつけて止まない魅力的な男だったのだ。
少々女遊びが過ぎたところもあったが、何故か彼を嫌いだと罵る人間はそういない。
彼は思いやりのある、心根の優しいひと。

「だから今は、この作戦が成功してくれることだけを祈るよ」







三隻の戦艦が箱館を去ってから5日が過ぎていた。



キミガリ −君許− 20



目の前に広がる海は、空の青さを映すように清清しい。それは広大な絶景だ。
冷たい潮風は特有のにおいを持ち、波が打ち寄せる音が耳に心地よい。
この江戸では見られない景色にも大分慣れた。江戸での騒がしさや賑やかさなど忘れてしまいそうなほどに。
伊庭は両手を上げた。背伸びをして冷たく新鮮な空気を体内に取り込む。
すっかり習慣になっていた。
「八郎ー」
遠くから己を呼ぶ声がする。
「そろそろメシー!」
「ん、いくよ」
愛しき彼の姿を目で見つけ、大きく頷いた。そして海に背を向ける。

春が訪れようとしていた。


「結局、なんだかんだいって桜を探しにいけなかったな」
「あー。そうだな」
かき込む様に流し込んだ朝飯を平らげて、不満そうに言ったのは本山だ。
伊庭は箸先を銜えて落ち込む彼に「やめろよ」と注意した。
ここは松前の本営だ。組長も平隊士も関係なく皆いっせいに食事を取る。
飯は美味いとはお世辞にもいえない粗食だが、文句は言えない。
「だいたいお前が「今日は寒い」とか「忙しい」とか散々言い訳ばっかりするのが悪い」
「仕方ないだろ」
「仕方なくないですぅー」
諦めの悪い本山に、伊庭は苦笑する。
桜を探しに行こう、と約束したのは二ヶ月前の正月だった。あの頃は吹雪で前も見えないような季節で
とても桜を探すような気分にはなれなかった。何度かあった本山の誘いも軽く断った。
そして雪が溶け、温かくなってきた、と思うと急に隊の訓練だ、銃の修練だと賑わい始め
伊庭自身も銃の扱い方を学んでいた。左手を失った今、銃の扱いは学んでおく価値はある。
そのため桜探しは延び延びになり、結局春が訪れていた。
「今日は暇だろ?久々の休暇日だし…。付き合えよ」
「せっかくの休みなのに…」
伊庭はワザとらしいため息をついた。
「なんだよ。行こうぜ、なんなら担いで行ってやるからさぁ…」
すると本山が予想通り駄々っ子のように伊庭に縋る。
そのうち「お願い!この通り!」と頭の上で手を合わし、頭を下げた。
伊庭はこうやって本山をからかうのが好きだった。この男は自分だけを見ていればいい。
「……仕方ないな」
「やった!」
両手を挙げて、無邪気に喜ぶ彼が好きだから。


雪はすっかり溶けた。足元からは茶色の湿っぽい土が顔を出し、小さな草花が芽を出している。
冷たい北風はだんだんと温かくなり、春はもうすぐそこ、というところだ。
それが爽やかにも感じられるが、頭に浮かぶのは戦のことばかりだ。
春になれば戦になる。
纏わり付いて離れないこの事実が、頭を掠めることが多くなったのはいつからだろう。
そしてそれが現実だと、思い知らされるようになったのはいつからだろう。

「ちょ、ちょっと待てって…」
先を行く本山に置いて行かれそうになり、伊庭は慌てて呼び止めた。
朝餉が終わるとすぐに本山は伊庭を連れ出した。取るものも取り合えず出かけたのだが
本山の張り切り様は予想以上だった。
ぐんぐん前を行っていた本山は、驚いたように振り返った。
「なんだよ、八郎。遅いぞ」
「遅いって…お前が早すぎるんだよ!第一、そんなに早く歩いてたら見逃すぞ、桜を」
「ああそうか」と本山は納得したように伊庭を待つ。伊庭は早足で近寄った。
「ごめん。なんか、気が早って」
「そうだよ。桜の木は逃げねぇから」
「そうだよな…」
確認するように呟いた本山が、微笑を浮かべる。
すると彼はその大きな手を、伊庭の右手にかぶせた。
「な、なに…?」
生暖かい彼の体温に触れ、伊庭は急に自分の顔が火照るのを感じた。手をつなぐなんて、何年ぶりだろう。
思い出すこともできない。
「お前に合わせて歩くから、その代わり手をつないでもいいだろ?」
「その代わりって…」
なんの代わりだよ、と言葉をつむぐことはできなかった。
お互いの指輪の重なった金属音が鳴る。
同じものをつけていて、同じ体温を共有している。
そんなことが頭に浮かび、すべての思考能力が停止する。
恥ずかしさと愛しさで沸騰しそうだ。
「いこう」
余裕の態度で笑って、伊庭の手を引く本山を少し恨めしく思う。
こんな恥ずかしいことよくできる。
だが引かれる手の力強さに、そのぬくもりに、涙が出そうになった。
戦なんて来なければいい。
ずっとこうしていられればいいのに。
伊庭はそんな願いをこめて、その手を握り返した。


「なあ、知ってるか。桜の木の下には死体があるんだってさ」
まだ雪の溶けない山の中を彷徨いながら、本山は騙り始めた。桜はまだ見つからない。
「父上から聞いたんだけど、桜があんなに鮮やかに咲き、潔く散るのはその根元に武士の死体が埋められたから
 なんだそうだ。だから『花は桜木、人は武士』なんていうんだってさ」
知っているか?と問いかける本山に、伊庭はふん、と鼻を鳴らした。
「それは理想論だろ。第一『花は桜木、人は武士』なんていうのは身分制度の骨頂だ」
伊庭の毒舌に「それはそうだけど」と本山は苦笑した。
身分制度で上にいる立場である伊庭なのだが、身分というものがどれだけくだらないのか、
江戸にいた青年時代、よく実感させられた。だからこそ、権力を振りかざす周りが嫌いだった。
伊庭が幕臣だということを知り、媚を売る人間は軽蔑した。
「でも…俺は死んで、墓に入ることになるよりは、桜の木の下に埋められたいな」
「なんだよ、それ…」
不吉なことをいう本山をちらり、と見て、伊庭は不快な顔をした。
そんなことを考えているのか、と少しショックを受けてるのもあった。
「冷たい石の中よりも、あんなに見事に咲き誇るなら桜の木の下にいたいな。そこで酒を飲むんだ」
その気楽な言葉に、胸が詰まる。
「死んでも春が待ち遠しくなる」
嫌だ、そんなことを考えたくない。
「まあ、酒が飲みたいだけだけど」
嫌だ。

つながることに慣れた手を、強引に、投げやるように離し、伊庭はその手を本山の胸倉に突きつけていた。
ぐいっと渾身の力で握り締める。
「馬鹿野郎! なんだよ、それ…俺はお前が死ぬことなんて考えたくない!!」
「八郎…?」
「約束しただろ…!この蝦夷に二人で暮らして、毎年桜を見に行くんだって!
 お前が言ったんだぞ!お前が……言ったんじゃないかよ…!」
本山の胸倉をつかんだ手の力が、だんだんと抜けていく。
うそだ。
自分が死ぬことを考えたことは、何度だってある。そして本山が死ぬことも…。
夢の中で真っ赤な血が世界を染め、飛び起きて生きていることを確認する夜もあった。
あまりに幸せな時間が続くから。
それでも余りすぎる時間があったから。
何度震えるような恐怖を味わっただろう。死ぬことがこんなに恐ろしいことだなんて思いもしなかった。
海を渡る前までは、そんなことを考えたことも無かったのに。
冬なんてこなければよかったのに。
「……言ったな、そんなこと…」
本山は抱き寄せるようにして伊庭の肩を抱き、ポンポン、と震える伊庭を慰めた。
「ごめん。でもそういう意味じゃないんだよ」
「え…?」
「…もっと、俺たちがじーさんになったときの話だよ」
苦笑を交えた本山の言葉に、伊庭は顔も上げられずやり場の無い恥ずかしさと苛立ちを感じた。
完全に独り相撲だ。
「…馬鹿」
「うん、俺馬鹿だから」
「ほんとだよ…」
そして自分も、相当のばか者だ。口元に笑みがこぼれた。

「…あ」
「え?」
「これ、桜じゃないか」
抱きしめた手をあっさり離し、本山は目の前にある一本の木を見上げた。
急に抱きしめていた体温が無くなる。それをあっさり手放した本山を恨めしく思いながらも、伊庭は顔を見上げた。
目前のその木は痩せ細り、あまり枝が覆い茂っているとはいえない状況だが
2,3輪の蕾が、風に吹かれながら静かに春を待っていた。
「……桜だ。でもこんなところに…」
桜の木は伊庭の実家でも植えられているため、すぐに判別はできたのだが
ここは栄養があるとはいえない土の上だ。そして幹もそんなに太くはない。
「でも…今にも咲きそうだ」
「ああ…」
数少ない蕾たちはほんのり桃色に染まり、春のぬくもりを待っている。
この寒さを耐え忍び、じっと。ただすぐ散ってしまうことを知りながら。
『桜の木の下には死体がある』
伊庭は本山の言葉を思い出し、思わずハッと下に目をやる。だがそこに墓のような石標はない。
だが不思議なことにそれをみても安心などできなかった。
「……この木は、俺たちの血によって咲くのかもしれない…」
「え?」
不気味な予感と不安に苛まれ、伊庭は無意識に呟いていた。
この桜は戦の行方を知っている。
そしてこの桜の根元に埋められるだろう死体のことも知っている。
この不自然な感情を止めることができなかった。



二人が寄宿舎に戻ったのは夕方だった。久々の休暇日でのんびり過ごしているのかと思いきや
みな浮き足立っていて、ざわついていた。伊庭と本山が帰ってきたことにも気がつかない様子だ。
おかしいな、と思った伊庭に、鎌吉が気がついて駆け寄る。
「先生!伊庭先生、本山先生!!」
「あ、どうしたんだ。鎌吉。騒がしいな」
彼の顔が険しかった。
「み、宮古湾での奇襲作戦……失敗です!」


のちに宮古湾海戦として語り継がれる戦での敗北が、すべての始まりだった。








1869年3月26日。宮古湾海戦での敗北の知らせが五稜郭に届いた。



キミガリ −君許− 21



「…不運だった…!」
誰もが頭を抱え、嘆き、肩を落とした。
緊急で召集された会議。伊庭もそのなかにいたが、何故か落胆はしなかった。
代わりに思い浮かぶのは、血で染まる桜の姿だけだった。

3月20日に出航した三隻の戦艦は順調に宮古湾へ向かっていた。
己の勝利と形勢逆転を信じ、誰もが希望に溢れていた。
しかし22日、突然天候が崩れて暴風雨が吹き荒れ始めた。そのなかで、まず「蟠竜」が荒波に巻き込まれ
行方不明となった。
そのためほか二隻は宮古湾近くの山田湾に立ち寄り善後策を講じた。結果、2隻だけで宮古湾へ向かうことになる。
だがそのうちの「回天」は戦闘力が大きく、突入口が狭くなるため援護役に回った。
そして相手方「甲鉄」に接舷する役目は「高雄」が担うことになった。
しかし不運は続く。
25日に山田湾を出航した二隻だが、主力となる「高雄」が機関を損傷し動けなくなった。
宮古湾は目の前で作戦を打ち切ることはできない。
そう判断した幹部たちは「回天」のみで接舷を行いアボルダージュ作戦を決行することを決めた。
午前4時過ぎ。
宮古湾に到着した「回天」は新政府軍戦艦八隻のなかから「甲鉄」を見つけ出し、音も無く近寄った。
しかし「回天」は船体の両側に水車をつけた外輸船であったため、うまく平行接舷できない。
そのため突入口は案の定狭くなり、白兵隊が「甲鉄」に飛び移ることも困難になった。
一方、不意をつかれた「甲鉄」だったが、やがて反撃の態勢を備えてくる。
そんな最悪の状況のなかで、「甲鉄」に飛び移り刀を振るったのは、新撰組隊士をはじめとする
勇猛果敢な若者たちだ。
剣の扱いに慣れない新政府軍たちはたちまち彼らの刃に崩れた。
しかし、優勢はあっという間に覆された。
敵方が小銃を持ち出し容赦なく撃ちはじめた。刀では到底銃の威力に勝ることはできない。
さらに新政府軍はガトリング砲で一斉攻撃を始めた。
ガトリング砲は日本に三台しか輸入されていない最新兵器で、ハンドルを回すだけで
一分間に200発の弾丸が発射された。
その弾丸に、土方率いる白兵たちは次々と倒れていった。
新撰組の野村利三郎、海軍士官の大塚波次郎、彰義隊の笹間金八郎、加藤作太郎らが壮絶な最期を遂げたのだ。
さらには「回天」隊長、海軍頭の甲賀源吾もその銃弾に倒れた。
ガトリング砲の威力に太刀打ちできないことを確信した旧幕府軍はすぐに退却。
20名もの死者を出し、この戦に完敗したのだ。


「先生は!先生はご無事なのでしょうか!!」
会議室から退室した伊庭に、必死の形相で駆け寄ったのは土方の小姓、田村だ。
彼の顔は傍目にも青ざめていて、その大きな瞳には涙をためているようだった。
「伊庭先生、土方先生は、白兵戦の先頭に立たれたのでしょう!?大きな怪我をなさっているのでは…!」
「…怪我のことはわからないけれど、土方さんのことはあまり話題になっていなかったな…
 たぶん無事なのだと思うよ」
彼を慰める言葉など見つからず、伊庭は呆然としていた彼の肩に宥めるように触れた。
伊庭自身もこの結果に唖然としているのだ。
期待はしない、と表向きでは思っていたが、もしこの作戦が成功すれば戦況は一変していただろう。
本山と語らっていたことが、現実になるかもしれないと。
そんな甘い期待を抱いていたのも事実なのだ。
だがその期待は打ち砕れ、さらには20名もの精鋭を失った。
大きすぎる打撃に、これからどうやって勝利への道を作っていくのだろう。
目の前が真っ暗になったような気がした。
「伊庭くん」
会議室のドアの軋みと共に、伊庭に声が掛かった。
「…榎本総裁」
ひげをたくわえた榎本だった。
隣にいた田村は慌てて目を袖でぬぐい、榎本に一礼した。
「…この度のことは残念でした。私もその戦場に立ちたかった…」
「何を言うんだ。命があってこそ、私たちは生きられるのだよ。私たちは実に不運だった…。
 そして死んでいった仲間たちは勇猛果敢な勇者として語り継がれるだろう」
榎本はゆったりと微笑み、落ち着いていた。
「次の戦が近いだろう…。松前は戦の要。君が頼りだ」
「ありがたいお言葉です」
榎本はうん、と深く頷く。
「共に戦おう。誇りと名誉のために」
「…ええ」



「八郎」
田村と別れた伊庭は壁に寄りかかる本山の姿を見つけた。
会議には伊庭だけが呼ばれたのだが、本山も気になってついてきていた。
「どうだった」
「報告のあったままだよ。アボルダージュ作戦は天候不良と不運により失敗。
 海軍頭の甲賀さんをはじめ20名ほどの死者を出した」
「土方さんは?」
「あの人は指揮官だよ、たぶん大丈夫だったんだろう、知らせは無かった」
「そうか」
本山はふぅ、と息を吐いた。やはり彼も土方の安否が一番気になっていたらしい。
「でも皆動揺していた」
「ああ、なんだか騒がしいな」
奇襲作戦は失敗。
ついに戦が始まるらしい。
兵士たちの間に口々と広まっていった。
この戦、本当に勝てるのか?
「ついに戦が…始まるのか」
「そう…だな」
不安がないとはいえない。
戦は賭けだ。
自分の命を賭けて、生きるか死ぬかの結果を得る。
いつだって勝敗が見えない世界で、確証のあるものなんて無い。
「八郎」
「…ん?」
ただ、確かなのは
「今日は抱いてもいい?」
愛しき人への愛情と、
「……ああ」
触れることで確かめられる、ぬくもりという生きている証。

どうかこれが最期だと言わないで、どうか教えて。
生きていることを、生きていくことを。
この二人に終わりがないということを。

どうしようもなく襲ってくる不安に、一人では耐え切れない。




四月。
宮古湾から退却した土方らは箱館に到着していた。
戦艦も傷を負い、兵士たちも多数負傷したこの作戦はもちろん失敗に終わった。
彼らを迎えるものはいない。
ただ戦を前にした不気味な緊張感が箱館にあった。
「お、お帰りなさい!土方先生!!」
ためらい気味に駆け寄った田村の姿に、土方はふっと力が緩んだ。
その顔が余りにも無邪気で、懐かしく映ったから。
「ああ」
「お疲れ様でした」
刀と上着を田村に渡すと、一気に身体の力が抜けていくようにいつもの椅子に座り込んだ。
疲労していた。そして落胆も。
身体が重たくて、目も開けていられない。
土方は両手で顔を覆った。すると蘇る。あの悲惨な戦の光景が。
古株の新撰組隊士たちが自慢の愛刀を持って、正面から銃弾に向かっていったあの勇ましく、虚しい姿。
不条理な弾丸によって次々と失う若い命。
しかし、彼らは逃げようとしなかった。
圧倒的な力の差を見せ付けられても、決して背中を向けようとしなかった。
「退却!」と叫ぶ声を無視して、己の矜持と意地のために弾丸に向かっていった。
あの姿を、俺は誇りに思う。
そして涙が出そうだ。
「ご無事で何よりでした。土方先生」
「…ああ」
田村の言葉に気が付いた。そう、不思議なことに、無事だった。
自分はあの弾丸戦のなかでかすり傷ひとつしなかった。
「…まだ、戦えということかな…近藤さん」
「え?」
「土方先生。榎本総裁からお話があると」
重厚な扉がガチャリと開き、若い隊士である市村が声をかけた。
「ああ、今行く」
少し軽くなった身体を持ち上げるようにして、土方は立ち上がった。
まだ戦えというなら、戦ってやる。
気力だけが支えていた。




熱い吐息を耳で感じる。
力なく倒れこんだ伊庭の身体を抱き寄せて、本山は何が嬉しいのか微笑んだ。
「…なんだよ」
不審に思った伊庭が尋ねるが、口元に微笑みは絶えない。
「だって今日、お前が素直だから」
「…俺はいつも素直だよ」
「いつもより俺に頼ってくれるから嬉しい」
「頼る?」
伊庭は思わず顎に手を当てる。いつ頼るような真似をしただろうか、考えてもわからない。
すると本山は声に出して笑った。
「自分が弱ってると思って、俺に抱かれてるんだろ?」
「どういうことだよ」
「不安に駆られて、何か確かめようとしてる」
「…んっ…」
首筋に唇を這わされて、伊庭は言葉に詰まった。赤い斑点が何個そこにあるだろう。
「…大丈夫だよ、たとえ戦になっても、俺はお前を信じてるから」
「そ…じゃない…」
「ん?」
ままならない声をからかう様に本山が尋ねる。
快楽に酔いながら、伊庭は荒くなる息の中で答えた。
「戦…なんて、こなければいいと……思ってた。ずっと、このままで…いたかった…」
冷たいはずの冬は、余りにも二人の時間を暖めてしまった。
甘い幸福を味わうこのぬくもりから離れたくない。
「…くだらない、意地や誇りなんて……捨ててしまえばよかったのに…」
やり直したい。
江戸にいて馬鹿をやっていたあの頃へ帰りたい。
すべてを捨てて、柵から逃れて、二人でいたい。
「…死にたくない……!」
叶わない望みだということは知っている。
こんな我侭を誰も許してくれないことも知っている。
だけど叫んでしまいたかった。
一緒にいたい。死にたくない。
「……八郎」
背中越しに本山の心配そうな声が聞こえた。
「…ずっと、一緒にいたいんだ……」
泣き声になっていた。涙なんて流すつもりはなかったのに。
それでもぽろぽろと流れる堰を止める術なんてもう覚えていなくて、なんの羞恥も無く泣き続けた。

誰か、救って。
不安と恐怖で溺れそうだ。

背中越しに伊庭を見守っていた本山が、急に力強く抱きしめた。
ああ、いつもの癖だ。
朦朧とする頭の中でそう思った。不安に駆られたり、愛しく思ったりすると彼はきまってそうする。
「…俺も、一緒にいたいと思ってる。だから、この戦には絶対に勝つ」
「……」
「お前と生きるために、俺は戦う」
その力強い声を聞きながら、この男は自分よりよっぽど強いのだと思い知った。
絶望など彼の頭にはないのだろう。
死ぬことなど彼は考えたことが無いのだろう。
ただ、彼が思うのは
二人で桜の木の下で、酒を飲むことなのだろう。
「……はは、」
「ん?」
「…小太は俺よりよっぽど、強いよ…」
「そうか?天下の小天狗さまに言われると調子に乗るぞ?」
伊庭は身体を彼の腕の中で反転させた。得意げに微笑んだ本山の顔を見て「調子に乗るって?」と挑戦的に見てやった。
すると彼はにやりと笑う。
「そりゃもう、満足させてやるよ。俺でいっぱいにしてやる」
彼の大きな手が頬に触れた。突然野生の顔になった彼が唇を貪る。
そしてその包み込む指には、銀色の指輪が光っている。
彼がこの指輪を外したのをみたことがない。
「…満足、させてくれよ…」
そして感じさせて。約束して。
生きていることを。お前と、生きていくことを。


信じてるよ。この先の未来を。



明治2年4月9日。
新政府軍の上陸が始まった。







どれだけの犠牲を払ったとしても、生き抜いてやる。



キミガリ −君許− 22



明治2年4月9日。新政府軍が江差北部、乙部より上陸。
春の訪れと共に戦がやってきた。

「総裁!総裁!報告です! 江差守備隊、退却!現在、松前守備隊と合流すべく向かっています!」
総裁室に走りこむようにやってきた伝令が、悲鳴のように叫んだ。
江差での戦は多勢に無勢、圧倒的な力の差を見せ付けられる結果となった。
あっという間に新政府軍が江差を占領。江差守備隊は息絶え絶えに敗走した。
「死者は?!」
「おそらく、ほど壊滅状態かと…!」
榎本は伝令の言葉に顔色を失った。上陸の知らせが届いたのはつい先ほどだったはずだ。
「なんということだ…!」
戦力の差はもちろん頭で理解していたものの、これほどに絶望的だったとは。
榎本は全身の力が抜けていくのを感じていた。
この戦に未来があるのだろうか。
「総裁」
そこに冷静な呼びかけが聞こえた。
「土方くん…」
「江差を占領されれば、薩長は松前口、木古内口、二股口に分かれて進軍してくる。
 この五稜郭への最短経路は二股口だ。悔やんでいる暇は無い、指示を出されたほうがよい」
土方らしい、きっぱりとした物言いに、榎本はしばしぽかんと呆けていた。
この男に絶望という言葉はないのだろうか。
降伏し、諦めるという選択肢は…?
「…ああ、そうだな」
ないのだ。
そう、知っている。わかっている、君がそういう人間であり、歩き方だということを。
榎本は自分は奮い立たされた気がした。
「総裁。私を二股口に派遣させてください。きっとこの五稜郭を守って見せましょう」
榎本にその言葉はとても真実味を帯びて聞こえた。
そして、この男がいつもと違うのを感じた。
「……君は、嬉しそうだな」
「ええ、待ち望んだ戦ですから」
にやり、と含みのある笑い方をした彼は輝いて見えた。そしてとても強靭にも。
決して彼は負けない。
「…土方君に任せよう」
妙な確信と自信と共に、榎本は土方に指示した。

「気がかりなのは、松前口だ…」
指示を受け、総裁室を後にした土方は、呟いた。



「江差は占領された!我々は奪還のために江差に向かう!そこで江差守備隊と合流し、再起を図るのだ!」
「おおーぉ!」
揃いの戦闘服に身を包んだ若い隊士たちが誓うように右手を上げて、叫んだ。
その先頭にいた伊庭は、彼らに自分の顔がどう映っているのだろうか、と思う。
恐怖に脅えた顔をしていないだろうか?頼りない情けない顔をしていないだろうか?
「皆、銃、弾丸を確認せよ!それから食糧だ!」
「はい!完了しています!」
「よし!」
かつて遊撃隊一番隊長を務めていた人見勝太郎が大きく頷いた。
彼は伊庭が戦線を離れたあと遊撃隊を率い箱館までやってきた信頼の置ける男であり、
現在は松前奉行を務めている。
「我々が向かう先にあるのは勝利だ!臆することなく戦え、我らの誇りを見せ付けてやれ!」
「おおおー!」
士気を高める人見の言葉に同調するように、彼らは叫ぶ。雄たけびを、己への誓いを。
真っ黒の制服に身を包んだ隊士たちは、列を作り愛刀を腰に帯びた。
その顔は晴れ晴れとしていて、誇らしげだ。
良かった、と思う。
彼らがこの戦に絶望していないのが唯一の救いだと思う。
伊庭は自然と、口元に笑みを浮かべた。
生き抜こう。
一人たりとも欠けずにいつか彼らと酒を飲み交わしたい。
叶わない夢ではないはずだ。

「伊庭先生」
整列したまま進軍する松前守備隊に着物に防具をつけた鎌吉がいた。
洋服を嫌がっていた彼は自分の志を貫き、嬉しそうに笑った。
「あっしも立派に戦いますよ。先生のためにね。だから先生も」
「…ありがとう」
それだけの会話を交わし、彼は若い隊士とともに通り過ぎていく。
その姿はもう調理人には見えない。立派な男の姿だった。
「…死ぬなよ」
呟いた言葉は誰にも聞こえない。


「八郎、行こう」
「…ああ」
本山に肩をぽんっと叩かれて、伊庭は足を踏み出した。
これは生きるための戦だ。
本山の顔をもう一度みて、信じた。


松前守備隊(遊撃隊92名、陸軍隊150名。彰義隊数名)は9日のうちに江差守備隊と合流した。
江差から退却した一連隊、砲兵、工兵とともに石崎に宿陣した。
退却した多くの兵士たちはひどい怪我を負っていて、その場で命を引き取るものも多かった。
「これは…ひどい戦になりそうだ」
人見が呟いた。
敗走した江差守備隊の報告によると、江差はあっという間に陥落。
それは兵員の差というよりも兵器の差による。時間のかかる元込め銃ではなく、敵は7発連続で撃てる
銃を携帯しているのだ。
「隊士には伝えないほうが良いでしょう。士気が削がれます」
「ああ…」
平静を装った伊庭だが、内心では張り詰めそうな心臓に気が付かないふりをしていた。
勝てる。
そう思うしかなかった。
歴然とした差が目に見えてわかったとしても。

「頑張れよ、まだ戦は始まったばかりだ!」
「……無理だ、俺は」
「何を言っているんだ!」
「勝てない…」
「…っ畜生…!!馬鹿野郎!」




そのうち夜になり、敵に気がつかれないように、薪を消し皆が寝静まった。
春とはいえ北の大地で外での野宿はつらい。みな身を寄せ合って寒さをしのいでいた。
「八郎」
当然のように伊庭の傍にいた本山が、小さな声でささやいた。
「ちょっと話がしたい」
伊庭は無言で頷いた。

小さな灯りをもって陣から離れた二人は、誰の寝息も聞こえない場所にいた。
それがどこだかはわからない。
ただ潮風のにおいがした。
照らすのは仄かな光だけ。
聞こえるのは波の音と、お互いの鼓動だけ。
「…夢なのかな」
「え?」
「夜になれば、戦の恐怖なんてわからない」
伊庭はか細く呟いた己の声を嘲笑する。恐怖や戦の虚しさなどわかりきっていたはずなのに。
夜になると弱くなる。
暗闇に支配されたような錯覚を覚えるから。
「…八郎…」
「わっ…」
小さなオレンジの灯りがなくなった。本山が持っていた火の燃えた木が地面に投げ捨てられる。
急に襲う暗闇の中で、伝わるのは本山のぬくもり。
抱きしめられていた。強く、痛いほど。
「…んぅ…」
突然の唇の感触。暗闇でまったくわからない本山の行動に、伊庭は流されるままになる。
地面に捨てられた火が消えようとしていた。
「…っ、ん…んぅ…」
それを無視するかのように本山の口付けは激しくなる。口腔に舌を絡まされて息が詰まる。
だが同時に張り詰めていたものが、彼の舌によって解きほぐされているような気がした。
緊張も、畏怖も。
「……落ち着いたか?」
お前の台詞じゃない、と言い返しそうになったが、とても力が入らない。
背後から抱きしめている彼に完全に支えられている状況だ。
「…なに、盛ってんだよ…」
そう毒づくのが精一杯だった。
とても彼のことを批判できない。たったこれだけの口付けで身体に力が入らない。
「不安定に見えたから……という俺の勝手な推測」
苦笑を交えた彼の言葉に一瞬身体が強張った。そのとおりだった。
江差守備隊の有様を見て、そして戦で死んでいく無念の隊士たちを見て、
この戦は本当に勝てる見込みがあるのだろうか。
誰もが抱くだろう疑問を自分も抱かなかったわけが無い。
不安定になっていた。
確かにそうかもしれない。
「…目敏いよ、小太」
「俺はお前のことしか目敏くないけど」
「確かに」
耳元でささやく甘すぎる囁きに酔いそうだ。目を閉じてそう思った。
このまま夢の中に落ちてしまいたいと思った。
「……離して、小太」
でもだめだと念じた。
本山の腕を無理矢理剥がし、首を振った。本山に知らせる意味でも、己に知らしめるためにも。
ここでこの温かさに抱かれれば、もう逃げるしか考えられなくなる。
二人で、指を指されようともここから逃げたくなる。
そんなことはできない。
自分を信頼する仲間のためにも、自分を支える誇りのためにも。
そして二人の未来を信じるこの男のためにも。
「……もう、大丈夫か」
暗闇の中、彼に伝わったのだろうか、労わる声がした。
「うん」
「じゃあこっちむけよ」
「ん?」
暗闇の中、声だけを頼りに伊庭は本山に顔を向けた。
するとひんやりとした彼の手が伊庭の頬に触れ、撫でるような仕草をしたと思ったら
再び温い唇が重なった。
くちゅくちゅと卑猥な音をわざと立てる彼に、伊庭は胸板を叩いた。
「……おい!」
「いいだろ、俺はお前を励ましてやったんだ。今度は俺を慰めろよ」
「何を慰めるんだ!」
「口に出してほしいのか?」
「……んっ…」
「俺の…負けそうな心を、かな」



11日。
松前守備隊は江差の残兵とともに松前に帰還した。
その夜、遊撃隊、陸軍隊、一連隊、彰義隊など500名余りは江差奪還のために松前を出陣。
根武田での新政府軍との衝突が始まった。

「遊撃隊は先陣を切れッ!旗本の誇りを見せ付けろ!」
根武田での戦は伊庭自身が円陣の中央に立ち、檄を飛ばした。
松前奉行の人見と並ぶポジションにつく伊庭自身が先頭を切ったことによって
一気に士気は上がり、怒涛の反撃を見せた旧幕府軍が新政府軍を打ち破った。
とくに活躍したのは遊撃隊で、伊庭に斬りこみを命じられた隊士たちは大きな役割を果たした。

だがこれは勝利ではなく休戦に過ぎない。
戦の勝利に酔う隊士たちを労いながらも伊庭は冷静に判断していた。

「怖がってたぞ、敵が」
負傷者と共に引き上げた先で、本山がからかうように言った。
「ん?」
「お前、嬉しそうに剣を振ってたからな」
「そうだった?」
ああ、と頷いた本山を見て、伊庭は少し考え込む。不謹慎だっただろうか。
「そのせいでお前の近くにはあんまり敵が寄らなかったろ」
「なるほど」
戦が終わりかけた頃になると、伊庭と刀を合わせた敵が逃げるように去っていった。
思い起こせば皆青ざめていたように思う。
「そんなことより怪我はないのか?小太」
「ああ、大丈夫だ。鎌吉も無事だ」
ほっと伊庭は息をついた。隊士たちはそれなりの訓練を受けているとはいえ、鎌吉はまったくの素人だ。
包丁を扱っていたから大丈夫だ。
鎌吉はかつて冗談交じりにそんなことをいっていた。
「死者は…?」
「10名ほどだ。みな、最初に銃撃戦に飛び込んだやつららしい。残念だが死体も回収できない」
「そうだろうな…」
味方の屍を踏みつけてでも、戦わなければならない。
そんなことはわかっていたとはいえ、勇敢な彼らの死に様を野放しにしておくのは気が進まない。
「…残念だ」
できることなら立派に弔ってやりたかった。
「きっとあいつらの志によって、この蝦夷地の桜は咲くよ」
気落ちした伊庭を慰めるかのように、本山が肩を抱いた。
『桜の木の下には死体がある』
かつて本山が教えてくれたそんな戯言が、今や救いの言葉に聞こえた。

誰かが見ていたら困る、といつもなら払い除けるその太い腕に、伊庭は自分の手を重ねた。
「…そうだと、いい」
「ああ」
一瞬の口付けを交わす。きっと誰も見ていないだろう、たった一瞬だ。

戦い続ける支えとなる口づけを、誰が咎めるというのだろう。









乙部から上陸した新政府軍は、圧倒的な戦力を持って進軍をはじめていた。



キミガリ −君許− 23



箱館まで最短経路で到着できる二股口は、一番の要となる。それは新政府軍も旧幕府軍も変わらない。
そのうち旧幕府軍を率いたのは土方だ。
土方は4月11日、衝鋒隊2小隊、伝習歩兵隊2小隊の計130名を率い二股口に到着した。
翌日天狗岳に前進陣地を置き、その後方の台場山に16箇所の胸壁を気づき、そこを本陣地とする。
「前進陣地の兵力が少なすぎではありませんか?」
土方に同行した新撰組隊士中島登は不安げに尋ねた。
本陣営と比べると前進陣地においた兵力は圧倒的な差があり、破られてもおかしくない状況だった。
だが土方はにやりと笑った。
「あれははったりだ。前進陣地を守る兵たちにもすぐに退却するように伝えてある。
 俺たちはこの本陣営で敵を向かい撃ち、持久戦に持ち込む」
自信たっぷりに語った土方に、中島は「はっ」と短い返事をするしかなかった。
面白そうに戦をする人だ。
そんなことを思った。
「それより江差守備隊と松前守備隊のほうはどうなった。あっちも要だ」
「はい。無事に江差守備隊と合流できた模様ですが…。苦戦しているようです」
「そうか…」
土方は唇を噛んだ。

13日午後3時、天狗岳に迫った新政府軍は攻撃を開始。
前進陣営はほどなく破られ、敵は本陣地へ迫った。
だが本陣地は屈強だった。
その日の5時に始まった戦は、土方の言うとおり持久戦となり翌日の朝7時まで16時間続いた。
新政府軍の兵力が600に対し驚異的な粘りを見せ付けられた敵は、攻略が容易でないことを
悟り、後方の稲倉石まで撤退した。
結局両軍は23日に戦が再開されるまでにらみ合いを続けた。



一方、時間は遡り12日。
11日の戦で勢いを増した遊撃隊ら松前守備隊は、臨戦態勢のまま指示を待っていた。
すでに江良の辺りまで進軍を進めていた。
あと少しで江差に到着し、奪還も夢ではない。そういう距離だった。
「なぜ、本部から指示がないのだ!」
五稜郭にいる榎本の指示を待つ人見らは苛立ちを覚え始めていた。
いつ戦の命令が出ても出陣できる準備は整っているのに、待ち遠しい。
焦燥感に焼かれているのだろう。
「木古内や二股のほうで梃子摺っているのでしょう。戦況は厳しいと聞きます」
慰めるように伊庭が言った言葉は人見に届いたのか、彼は少し深呼吸をした。
「木古内は厳しいと聞くが…二股のほうには「軍神」が派遣されたらしい」
「「軍神」…土方さんですか」
伊庭は驚いた。
「二股口は最大の要だ。五稜郭へは最短経路、そこに兵が集中する。連戦連勝の土方先生なら突破は免れるだろう」
その言葉に嫌味は無い。この箱館で誰もが土方を尊敬し慕い、崇めるのだ。
だが伊庭には不思議に映った。
果たして彼は、そんな「神」のような存在だっただろうか。
土方の人間性を良く知っている伊庭には、よく理解できなかった。
「とにかく。我々は江良まで進軍だ。これ以上本部の指示を待てば好機を失う」
「…そうですね」

爆音が辺りでこだまする。
進軍をすればするほどその音は大きく、激しくなっていく。
この距離では戦火は見当たらないが、激しい戦が繰り広げられていることは確かだ。
火薬の匂いと共に殺気がひしひしと伝わっていた。
「八郎、引き上げたほうが良いのではないのか」
「……いや、あのまま待機させられたんじゃあ士気にも関わる。
 それに江差が奪還できれば一気に形勢逆転だ。好機を逃してはならない」
本山の忠告も耳に入れず、伊庭はきっぱりといいきった。
既に江良には到着していた。
みな臨戦態勢で待機している。戦の気配はすぐそこにあった。
いまさら引き返すことなど考えられない。
もともと無茶な戦なのだ。それを超える無茶をしなければこの戦には勝てない。
「先生、先生」
「…鎌吉」
「もうすこし落ち着いてくださいな」
彼は伊庭に茶を差し出した。濃いめの、匂いさえする茶だった。
伊庭はそれを受け取り、首をかしげた。
「俺は落ち着いてるよ、鎌吉」
勘違いをしているような鎌吉に忠告をこめて言ってやったのだが、彼は首を横に振った。
「目が険しくなっておられます。眉間にも皺が」
「……あ、本当だ」
指で確かめると、そこには確かに深い皺が寄っていた。もちろん無意識だった。
「先生。この戦は長引くのでしょう。気を長く考えてください」
「ああ…そうだな」
彼の入れた茶を飲み干した。温いそれは懐かしい味がした。


だが伊庭の思惑通りに本部は指示を出さなかった。
木古内口、二股口の戦況悪化により、五稜郭本営は松前まで退却する命令を下した。
「何故だ!戦は目の前にあるというのに…!」
それを伝えた伝令役に苛立ちをぶつけるように、人見が叫んだ。
「総裁はなにを考えておられるのだ…ッ!」
ヒステリックな彼の悲鳴は兵たちにも伝わり、動揺が広がった。
誰もが戦になると予想し、覚悟を決めていたのだ。
皆、愕然とした。
「…お前の言うことが正しかったみたいだな、小太」
ふん、と鼻で笑い、伊庭が吐き捨てた。
「これでは…逃げるのと同じだッ!」
「……八郎」
伊庭は右手を握り締めた。爪が皮膚に食い込んだ痛みなど、感じなかった。
戦が目の前にあるというのに、何故戦わせてくれないのだ。
江差奪還は目の前なのに。
「…あせるな、八郎。戦場と五稜郭では連携がうまく取れないんだよ。
 それに俺たちが間違っていることもある。本部は全体の状況を判断した上で退却を命じたんだ」
「…わかってるよ…」
悔しくて、悔しくて、悔しくて、涙が溢れそうになる。

遠くで聞こえる爆音。
一人、二人と同志たちが死んでいく。
逃げる己たちを見て、彼らは何を思うだろう。



13日。進軍を進めていた伊庭たちは、松前へと退却した。
勢いよく飛び出した寄宿舎に、みな肩を落として戻った。
この命令に不満を抱くものは多くいたが、今、戦慄を乱すわけにはいかまいと誰も口にしなかった。
松前に戻り、戦の緊張からは開放されたものの、誰もが深いため息をついていた。
敵に臆し、逃げ帰ってきた。その罪の意識から免れない。
そしてそれを一番感じていたのは伊庭だった。
「武士としての本分を果たすために戦っているというのに…!榎本さんは何を考えているんだ…!」
榎本と伊庭は旧知の仲である。互いのことは親友とまではいかないが良く知っていて
榎本の奇天烈な行動には伊庭なりに理解していた。
それでも今回はそういうわけにはいかない。
「…一番大切な士気が、下がっていく…」
松前に戻った彼らの険悪な空気を見逃すことはできなかった。
彼らも同じことを考えているはずなのに、何故。
「落ち着けよ、八郎」
いらだつ伊庭を嗜めたのはもちろん本山だった。
激情的な伊庭とは対照的に、彼は落ち着き払った表情だった。
「命令は絶対だ。それはよくわかっているだろう?
 こういう命令もあるという覚悟をして榎本先生を支持したんだろ。諦めろ」
「…でも」
「生きている限り好機はやってくる。そのときに冷静な判断ができるように、今は休んでおくんだ」
「………」
的確な本山の言葉に伊庭は何もいえなかった。
ただいつもと立場が逆だな、と思う。熱弁をふるうのは自分の役割だと思っていたのに。
伊庭は腰を下ろした。なんだか力が抜けた。
「…そうだよな、俺が冷静にならなくてどうするんだ」
「そうそう」
伊庭は鎌吉が入れた濃いお茶を飲み干した。やっぱり懐かしい味がした。
その味にだんだん心が落ち着いていく。
「そういえば鎌吉は?もう寝たのか?」
その味に引き起こされるように鎌吉のことが頭に浮かんだ。
「ああ。あいつも悔しがってたよ。お前ら、生粋の江戸っ子だなぁ」
からかい混じりの指摘に、伊庭も苦笑する。

戦場の夜は、爆音が響く昼と対称的にいつも静かだった。
皆が寝静まった夜は、まるで昼の出来事がうそだったかのように沈黙していた。
「……なぁ」
本山が切り出した。
「いま、こんなことを言うのは不謹慎かもしれないけど」
「うん?」
「抱いてもいい?」
「……うん」

神聖な戦場でなにを考えているんだ、とか。皆が命を賭けて過ごすこの日々の中で遠慮が無さ過ぎるとか。
言いたい文句はいっぱいあったけれど。
今はそのぬくもりがほしかった。
彼の強さを、与えてほしかった…。


重なるしなやかな肢体のぬくもりには、もう慣れた。
幾度と無く弄りあったお互いの快楽も、もう覚えた。
不安になるお互いを気遣うための赤い印も、癖になっていた。
「…ん…ぅ、あ、あぁ…!」
「八郎。嬉しいけど声を抑えて」
「う、うん…」
すぐ近くで本山に見つめられて、伊庭は真っ赤になって頷いた。
いつのまにかこんな甘い声を平気で漏らすようになった。
全部、この男に変えられていった。
「…聞きたいことがあるんだけど」
「ん?」
伊庭は顔をそらした。
「…俺、男は小太が初めてだけど。お前は違うの?そういえば初めてヤったときもずいぶん手馴れて…」
「はぁ?!」
本山が驚きの余り、指で中を抉った。
「あ…ッ」
電流のような快感が走った。
「なに、言ってんだよ。俺もお前が初めてで…」
「そ、そんな…うそ、つくなよ…。いいよ、別に怒らないから…」
「そう…言われても」
うそじゃないのに、と呟く彼を伊庭はじっと見つめた。
するとその視線の強さに気がついた本山ははぁ、と小さくため息を漏らしながら
「…一度だけ、あるよ」
と告白した。
「……誰と?」
「誰だかわからない。陰間の売子だったから」
「なんで…」
疑問を投げかける自分が、だんだん不安になった。
それまで持っていたはずの彼に対する自信がなくなっていく。
どっちが良かった?
そんなことを聞く勇気を持っていなかった。
「…お前は…覚えていないと思うけど。お前とこういう関係になる前に、二回口付けしただろ?
 一回目は酒によってふざけてたことだけど……。二回目は、なんとなく、だったろ?」
「そ、そんなことも…あった、かな?」
「あったんだよ。
 そのとき、なんかムラムラきてさ。だけどお前に言うわけにもいかないから…
 俺はあの後すぐに、本能のまま陰間に行った」
「…そう、だったんだ…」
ぼんやりと浮かぶそんな出来事は、伊庭の予想の付かないところで発展を遂げていたらしい。
目の前の彼は恥ずかしげに顔を赤らめていた。
「でも…いまはそれが良かったと思う。いろいろ手管を学んだからな」
「……なんでお前は、そんなに恥ずかしいことがいえるんだよ…」
力の入らない腕で顔を覆った。おかしいことに、自分が恥ずかしくなる。
つまり、その手管で満足させられているのが自分なのだ。
「…安心した?」
「なに…?ぅ、ん…」
「俺は心の中だけなら、お前しか抱いてないから」
「…あ、っそう…」
わざとそっけないふりをする。いや、そうするしかなかった。この恥ずかしい男の前では。
「…好きだよ」
「……わかってる」
でもこんな恥ずかしい台詞を平気で吐けるこの男を
自分は愛してしまった。
信じられないほど、彼しか見えない。



『お前はただ前を向いて、胸張って、自分の生きたい様に生きれば良いよ。
 俺はそんなお前に憧れるし、ずっと追ってみたいと思うから。
 倒れ掛かったとしても俺は後ろにいるからお前は転けないし、道を間違えたりもしない。
 何の迷いもなく進めば良い。ただ、苦しくなったら振り向いて俺に頼ればいいんだ』



いつの日かに聞いた、あの言葉が時折頭をよぎることがあるよ。
あの言葉があったから、俺はまだ立ち止まったり振り返ったりしない。
後ろにお前がいてくれることがわかるから。
支えてくれていることがわかるから。
二人で生きていると、わかるから。

でも。

俺はこの夜が最後だと知らなかった。










桜の花を見に行こう。
満開に咲くこの桜を。
お揃いの指輪をもって。
二人分の酒を準備して。

二人で行こう。



キミガリ −君許− 24



「…ちっ!また退却命令か!」
人見が舌を鳴らした。
4月15日。遊撃隊は三度の退却を命令された。

14日、遊撃隊らは江良に再び進軍した。戦況を好機と捉えたからだ。
だが再び五稜郭からの退却命令によって松前に戻った。
しかし、興奮の抑えきれぬ彼らは夜に再び進軍。根武田に宿陣していた。

「…またですか」
伊庭はうんざりした気持ちでそれを受け取った。それとなく予想はできていたが
何度も愕然とさせられると免疫ができるもので、慣れてしまったような気分になる。
だが、実はそれよりも苦労することは激情した人見を宥めることだ。
「松前に帰るように、だ。これでは我々はこの三日間で松前と戦場を往復しているだけというだ…!」
「出陣するたびに退却命令…。これは本部が状況を把握しきれてないのでしょう」
とはいっても伊庭自身も今戦況がどうなっているのか、わからない。
人見が「軍神」が派遣されたと言った土方軍の動向も気になる。
「…仕方ない、退却しよう」
根武田に宿陣していた遊撃隊らは再び松前に戻った。


「先生、気落ちしちゃあいけねぇ。これはあっしらが疲労回復する猶予ですよ」
「ああ、そうだと思ってるよ…」
鎌吉の慰めにも伊庭は曖昧な返事をした。根武田から松前への岐路は寂しさを感じ得ない。
まるで戦に負け、敗走しているさまでないか。肉体的疲労は無くとも、精神的疲労は大きい。
「…先生、あっしはこの退却命令の日々の間にね、剣を習ってるんですよ」
「剣を?」
「この間の戦で痛感しました。小筒(銃)よりも刀のほうが扱いやすい。日本の魂を捨てちゃいけねぇって。
 先生の刀捌きを拝見して決心したんです」
「へぇ…そりゃあ、いい」
彼の目は輝いていた。
「今度戦があるときは遊撃隊の皆さんと一緒に戦います。立派に戦ってみせますよ」

この道を歩くのはもう何度目にもなる。道なき道を歩く山道にも大砲の音は響いていた。
いつになったら出陣できるのだろう。
生き急ぐ隊士たちはみな、訝しげに思っていた。



事態が急変したのは翌日、16日のことだった。
「木古内口、二股口の戦況が好転した!五稜郭から我らに進軍の許可が出たぞ!」
松前に届いた知らせに、皆が一気に活気付いた。
「ついに、ついに我らが!」
「ああ、幕府に報いるときが来たのだ!」
隊士たちは抱きしめあって喜びを分かち合い、なかには涙を流すものもいた。
「我らはすぐに進軍を開始する!感慨深いのは同感だが、用意に取り掛かってくれ!以上だ!」
「おおおおッ!」
彼らはその言葉に浮き足立ったように、用意を始めた。

「二股口の戦況が好転…。土方さんが頑張っているのかな」
喜びを表情に浮かべたままの本山が伊庭に尋ねた。伊庭も身支度を整えていた。
「ああ、そうらしい。最初は官軍の突破を危惧されたそうだが…。さすが土方さんだ」
感嘆のため息を漏らし、伊庭は腰に刀を差した。
土方の素晴らしい陣頭指揮ぶりは聞くまでも無く、伝令が興奮して伝えてくれた。
いまは持久戦を続けているのだが、官軍の二股口突破は難しいだろうと考えられている。
つまり官軍の五稜郭への最短ルートは絶たれたのだ。
「俺たちも…頑張らないとな」
「ああ…!」
久々の身震いがした。

松前口の遊撃隊をはじめ、陸軍隊、彰義隊、一連隊、砲兵隊など500余名は四度目の進軍を開始した。
向かう先はもちろん、江差だった。
みな、奪還にむけその顔は晴れ晴れとしていた。


翌日、17日。
朝から始まった官軍との戦は、圧倒的に不利のまま続いていた。
数台の大砲では相手の小銃を打ち負かすには遅すぎ、味方はたいてい、敵の弾丸で倒れていった。
人数では勝るものの、兵器では劣っていた。
「怯むな!進め! 相手の懐に飛び込み剣を振るうのだッ!」
伊庭が檄を飛ばし覇気を与えるものの、それと裏腹に同志たちは倒れていく。
伊庭はそれを唇を噛み締めて見た。
「どうした!まだ戦えるだろう!」
伊庭の視界の外で本山の声が響いた。
「足を止めるな、剣を振るえ!」
「おおおぉ!」
遊撃隊の面々が本山を慕うかのように、従った。
足を引きずりながら戦う者、血を流しながら走り回る者、顔面に血を浴び、叫びながら剣を振る者。
まだ弱気になるわけにはいかない。
伊庭はその姿に己を叱咤する。
戦って戦って、戦い続けるのだ。勝利の女神が微笑むそのときまで。

青々と茂っていた草が、一瞬して真っ赤に染まる。
清涼な空気が、煙に覆われる。
耳を澄ませば聞こえる海の音が、爆音に変わる。
昨日まで笑っていた若者が、いま屍となり転げ落ちる。
ここは地獄だ。
死んだ者も、生きた者も、地獄にいる。

生きることに執着する者は弱い。
誰かがそんなことを言っていた。
そんなのは嘘だ。もしくは、とても精神力の強い者の言い分だ。
だっていま、自分を突き動かす思いは、彼と共に生きることなのだから。
そのためなら、どんなにも強くなれる。

同志であろうと敵であろうと、その屍を踏んで行ける。


戦は折戸台場へと移った。江差へ向かったはずが、だんだんと松前に押し戻されるかのように
兵は退却していた。
「伊庭、伊庭ぁ!」
二、三人斬り伏せた伊庭のもとに駆けつけたのは人見だった。
真っ赤な陣羽織は、血の赤へと染まっていた。
「どうしたんです?」
「大変だ、我々は…追い詰められた!」
「?!」
悲壮な顔で人見は爆音の中、叫んだ。
「いま、我々は官軍に取り囲まれている」
「何……ッ!」
人見の言葉は衝撃的だった。戦い続け、相手方の兵が減り、やっと勝利への兆しが見えてきた、と思ったら
それは幻想に過ぎなかった。折戸台場へ追い詰められたのは官軍の策略だったのだ。
「…っ残念だが…!逃げよう、伊庭」
「なにを、なにを言うんですか!」
伊庭は思わず人見の肩をつかんだ。
いつも強気な彼の言葉とは思えない、悔恨の表情を浮かべていた。
「既に我らがあとには引けないのでは…?!」
「いまなら間に合う!ここは一旦ひくのだ。挟撃(挟み撃ち)に合えば、隊は崩壊だ!」
「……っ!」
彼の言い分は最もだった。隊長は兵を守るために的確な判断をしなければならない。どんなときも私情を交えることはできない。
だが数日待ち続けた末のこの結末は、あまりにも悔しすぎる。
伊庭は一度ため息をついた。
「…人見さんがいうのなら…仕方ありません」
また次があるだろう。そんな気持ちになった。

「退却ーっ!退却ーっ!!」
独特のラッパの音と共に聞こえた退却命令に、本山は驚いた。
戦況を見る限りまだ戦える範疇にあった。隊士たちも納得しない表情だ。
もちろん、戦う隊士たちに挟撃の情報が伝わるはずが無かった。

「我らはいま官軍によって囲まれている。よって折戸台場から脱出し、松前に戻る!」
人見からの命令にどよめきが起こった。
「松前に…帰るだって?」
「先生!ここまで来たら立派に討ち死にを…!」
「馬鹿野郎!これは死ぬための戦じゃねぇ。勝つための戦だ!」
「では松前に帰るのは得策なのか?」
「この成果じゃあ次の進軍はないかもしれない!」
様々な言葉が行き交う中、本山が立ち上がった。
「人見さん」
「うん」
「…松前までの退却。遊撃隊に殿(しんがり)を務めさせてもらいたい」
「小太…!」
再びどよめきが起こった。そして人見の隣にいた伊庭は、身を乗り出すように本山をみた。
殿は退却する軍の最後尾にいて、敵からの攻撃を受けながら退却するという非常に危険な役目だった。
だが、彼の顔はそんなことを知らないかのように存外落ち着いていて、微笑さえ浮かべていた。
「必ずや立派に務めます」
「……ああ、君に任せよう…!」
人見はしばしの逡巡のあと、深く頷いた。
本山の後ろに控える遊撃隊の面々も、自信に満ち溢れた表情で頷き、伊庭に敬礼した。
かつて伊庭が率いた隊士たちだった。

ドォォン!

退却を始めようとしていた矢先に、近くで爆音が破裂した。
飛ばされるような爆風が覆い、人見の「退却だー!」という号令のもと、
皆はいっせいに走り出した。
殿を務める、遊撃隊を除いて。
「小太…!」
真っ白な霧にも似た煙の中、かろうじて伊庭は本山を見つけ出した。
その太い腕をつかむ。
「…なにやってんだ、早く行け」
彼は笑っていた。
「……ッ!馬鹿!なんで、お前がこんな危険な…!」
「戦地で戦う人間に、安全も危険も無いよ」
「……俺も残る!」
「それこそ馬鹿だ。お前は隊士たちを率いるのが仕事だろ?」
「…ッ」
取り乱す伊庭とは対照的に、本山は落ち着いていた。笑って、そして言う。
「前に、言ったろ?俺はお前の後ろにいるから、お前を守るために後ろにいるから。
 大丈夫だ、振り返ったらちゃんと俺はいる。あとでおいつくよ」
「本当に?」
「本当だ、それに鎌吉も一緒だから」
本山は伊庭に口付けた。ほんの一瞬、霞むように、儚い夢のように。
「安心して先をいけ。かならず、また会える」
「…ああ…!」
本山が伊庭の肩を押した。伊庭はその強さに押されるように煙の中を走りだす。
振り向きはしなかった。
もう一度会えると信じていたから。

右手に光る指輪が、そう信じさせてくれるから。










伊庭は500余名いた隊士のうち200名弱を率いて松前を目指した。
途中敵に出会うこともあったが、隊士たちが死に物狂いに斬り伏せ、先を急いだ。
歩を進めるにつれ、見慣れた景色が視界に入ってくる。松前はすぐそこにあった。

「伊庭先生、もうすぐです!」
「ああ…!」
若い隊士が感激の声を上げたが、伊庭はふいにこの景色に見覚えがあることに気がついた。
青々と茂る草むら。独特の潮の香り。寒々とした山々。
「あ…」
そして気がついた。
ここは半月前、本山と共に桜探しに訪れた場所だった。
『これ、桜じゃないか』
本山が嬉しそうに声を上げたあのときのことをまだ覚えている。
痩せ細った幹は冬の寒さを感じさせるが、すでに蕾をつけていたあの様子はとても勇ましかった。
まだ戦になっていないこの場所はまだ伊庭の記憶に等しく、あの桜がどこにあるのか、
その場所を簡単に思い出させた。

「……え…?」


桜が赤い花弁を身に纏っていた。

蕾に秘めていたときよりも赤く、鮮やかに。天に咲き乱れるその姿は可憐としかいいようがない。
前に訪れたときよりも、数輪多い花々が咲き誇っていた。
「先生、桜ですよ。綺麗ですねー!」
伊庭の視線の先に気がついた隊士が何気なく声を上げた。
そして敗走を続けていた彼らに明るい表情が戻る。
「桜か!こんな寒いのに…!」
「立派なだなぁ…」
「我らのこの先の運命に兆しが見えてきたような気がします!」
そう、そうやって喜べばいい。
だが伊庭はドクドク、と鼓動が早くなるのを感じていた。

『桜の木の下には死体がある』

『……この木は、俺たちの血によって咲くのかもしれない…』


伊庭は振り向いた。
すぐ後ろにいた隊士がその表情に驚いて「ど、どうかしましたか?」と問うたが
伊庭は返事をすることができなかった。
「伊庭、どうした?」
隣にいた人見が尋ねても、伊庭は答えることができないまま目を見張った。
「…小太…?」

どくどくどくどくどくどくどくどく…。

爆音にも脅かされなかった心臓が、叩くように暴れるようにさわぎだす。
胸騒ぎがとまらない。
まるで全速力で走るような、そんな感覚だった。


バタバタバタ…
伊庭が呆然としていると、ある隊士が走ってきた。
彼はその顔を血で染め、はぁ、はぁと息を荒くして駆け込む。
その目的は人見というよりは伊庭だったようで到着するなり、しゃがみこんだ。
「申し上げます!殿を務めていた遊撃隊、ほぼ壊滅状態!敗走を始めています」
「なに…!」
人見は目を見張った。
「……小太は…」
「は…」
「本山頭取はどうしたぁッ!!」
伊庭は彼の胸倉をつかんだ。座り込んでいた彼を立ち上げるほどの勢いだった。
「お、おい、伊庭?」
「もと…やま、頭取は、戦死なさいました!」



桜の色は、お前の血の色だったのか…?
彼の死を見つめるまえに、そんなことを思った。







真っ白な煙の中、敗走を始めた八郎が率いる隊士たちを見送って
絶対に守ってやると俺は誓った。



キミガリ −君許− 25



「…いかれましたな」
鎌吉が逃げ行く彼らを見送って、安堵の声を漏らした。
彼は遊撃隊の一員としてここまで戦い、当然のように殿(しんがり)の務めも果たすべく残った。
俺は彼に退却を薦めたのだが、「伊庭先生をお守りするのに一番良いのがこのお役目だと思いました」という
決意に俺は何も言えなくなった。
もちろん俺もそう思ったからだ。
返り血まみれになった鎌吉は、戦を経て表情を変えたが根本的な部分は変わらない。
彼は八郎に惚れているのだ。もちろん、俺とは違う意味で。
「……鎌吉」
「へぇ」
「お前がいてくれて…八郎を信じられる人間が一人でも多く傍にいてくれて、俺は良かったと思ってるよ」
鎌吉の存在は伊庭にとっても大きいだろう。
それが八郎の自信と支えになっている。俺は感謝しても感謝しきれないのだ。
「なにをおっしゃってるんですか。戦はこれからですぜ」
鎌吉は怒った風に、でも照れ隠しのように言い張った。
「生きるか死ぬかの駆け引きはこの殿に掛かってまっせ」
「…ああ、そうだ」
この男はいつの間に、台所の包丁を武士の魂である刀に持ち替えたのだろう。
俺は不思議に思った。


それからまもなく戦が始まった。
俺たちの人数を確認した官軍らは俺たちが殿だということを理解し、退却を知った。
そして、追いかけようと全軍の一斉攻撃を仕掛けた官軍らに、俺たちは立ちはだかった。
「誰一人ここを通すなッ!死に物狂いで戦え!」
「おおおおぉぉぉ!」
俺の命令に遊撃隊の隊士たちは、血気盛んに飛び掛って行った。
遊撃隊の隊士たちは、斬っても斬れないような刀を持ち、最新鋭の小筒(銃)を持つ官軍に向かっていく。
動物的な声は、その彼ら自身の高い誇りを象徴し、俺にはそれが叫びのように聞こえた。

俺は敵の弾丸を脇腹や腕に受けたがどれも致命傷ではなく、痛みを忘れるように官軍に向かっていった。
愛刀で2,3人の敵を斬れ伏し、休む間もなく敵と向かい続けた。
切っ先が折れて使えなくなれば、敵か味方かわからない死体の剣を抜き、走り続けた。
不思議と自分が疲れた、という感情を抱かなかった。
息があがり、咳き込むことがあっても、身体が自然と動いた。

そして俺は気がついた。

俺はいつも八郎を支えているのだと思っていたのに。
本当は、
俺がいつも八郎の存在に支えられていたのだと。

お前のためならなんだってできる。
この身体、命を捧げても構わないと思うほどに。

そしてその力が、俺の強さとなる。生きがいとなる。

そうだ。
俺たちは支えあって生きてきた。
二人で生きてきた。
そして、これからも。





戦の中、俺たちは敵の攻撃を受けながらもじりじりと松前へと近づいていた。
92名いた遊撃隊は60名ほどに減ってしまっただろう。
同志たちの立派な戦いぶりに、俺は遊撃隊頭取としてとても誇りに感じた。
「退却だ、退却せよーッ」
俺は指示を出しながら敵を切り伏せ、退却を命じていた。
一人でも多くの命を生かしたい。
そんな思いでいっぱいだった。
「本山先生っ!」
「鎌吉!無事だったか…!」
「ええ、先生こそ!」
「俺は…足をやられた」
俺の右足は血まみれだった。どこが傷口なのかわからないほど真っ赤に染まり
もはや痛みなど感じなくなるほどに。
「大怪我ではないですか…!」
鎌吉は悲鳴のような声を上げた。
俺は苦笑する。
「大丈夫だ。松前に帰ったら八郎に見てもらう。ちょっと楽しみにしてるんだ」
殿としての役目を果たし、威風堂々と帰還した俺を、八郎はなんと言ってくれるだろうか。
いつもみたいに恥ずかしげに顔を背けながらも、褒めてくれるだろうか。
「それよりお前のほうはどうなんだ」
「へぇ。不思議なことに怪我もなければ疲れもありません」
「…ははっ… お前はよっぽど武士らしいや」
無傷らしい鎌吉は敵の返り血を浴びただけのようだ。そこらの隊士よりよっぽど強いのだろう。
俺はまた苦笑した。
「それより先生。伊庭先生たちは松前にはもう…?」
「ああ、そろそろ俺たちも役目を終えて、退却しよう」




パァァン…ッ!



まるでそれは木霊のように俺の耳に響いていた。
「先生!本山先生ぇぇッ!!」
一瞬なんの音かわからず、俺は身体の赴くままにその場に蹲った。
ナンダコレハ?
急に襲う痛みに耐えながら、俺はその目で自分の手が真っ赤に染まっていることに気がついた。
その鮮血は自分のものに間違いない。
そして、俺はやっと自分が撃たれたのだとわかった。
「先生、先生!」
鎌吉が耳元で叫んでいる。彼らしくない悲鳴に似た涙声だった。
ソンナカオスルナヨ、タダノカスリキズダヨ
いくら叫んでも、それは言葉にならない。そして俺は己の口からも血を吐き出していることに気がついた。
アア、オレハシヌノカ?
「死んではいけません、先生!先生は遊撃隊頭取です!」
マツマエニ、マツマエニカエラナクテハ。
「伊庭先生が、伊庭先生が待っていらっしゃいますーッ!」
悲痛な叫びだった。彼の目から涙が流れていた。
血と泥に塗れた彼の頬に流れる涙を、俺は重たい瞼を必死に開きながら、見つめていた。
「…かま、きち……」
そして俺は振り絞って手先に力をこめた。
そこには銀色の約束が刻まれている。
「先生、本山、先生…!」
「これを…はち…ろうに。ぴか…ぴかに、磨いて…渡して…くれ」
「何をおっしゃいます!これから、これから松前に帰るのです!
 こんなところで、こんな…こんなところで死なせたりしません…ッ」
俺の身体を抱きしめて、鎌吉が首を横にふった。
それはまるで駄々をこねる子供のようだった。
そして彼は、俺が差し出す指輪を受け取ろうとしなかった。
「鎌吉…、たのむ、よ…。これを、…はちろうに、渡して…」
ゲホォ!と吐き出した俺は真っ赤な血が口元から流れていくのを感じた。
もう時間が無い。
そして敵軍が迫ってくる足音がする。
「先生、立って…立ってください、帰りましょう、松前に。そうしたらきっと高松先生が…」
治してくださいます、と蚊の鳴くような声で鎌吉が言った。
それでも俺は立ち上がろうとしなかった。
すでにそんな力など残っていなかった。
あと、何分、何秒息が続くのか。
「…頼む、これを…この指輪を、磨いて、きれいにして…あいつに、渡してくれ。
 そうすれ…ば、まだ、あいつは……」
口中が血の味がする。
口の端から滴る血に俺が染まっていく。


「……伊庭先生に……言付けは……?」
彼は諦めたのか、それとも俺の気持ちを理解してくれたのか、その指輪を受け取った。
悔しそうに唇を噛み締めていた。
「言付…けか…」
お前になにを残してやれるのだろう。
お揃いの銀の指輪とともに。

途切れ行く意識の中で、俺は呟いた。

「ただ……愛してる、と」

俺は目を閉じた。
そろそろ意識が途切れ、俺は死ぬのだろうと思った。
俺は満足だ。
八郎を守って、死ねる。最高の死に方だ。褒めてやりたい。



「俺は…死ぬよ……ごめん」



ああ、俺は大嘘つきだ。
あの冬の日。
お前とした約束を俺が破ることになるとは思わなかったよ。


桜を見に行こう。

お前と一緒に酒を持って、二人だけで行くんだ。











俺たちの血で、美しく可憐で潔い桜が咲くというのなら。
悪くない。



キミガリ −君許− 26



暗闇の中を走っているような不思議な感覚だった。

小太が死んだと聞いて以来、俺の記憶ははっきりしない。
松前で合流した遊撃隊のなかには彼の姿が見えず、また、鎌吉の姿も無かった。
50名ほどになった遊撃隊が必死に守ろうとした松前を、俺たちは瓦解して放棄した。
これ以上の戦は無理だと人見さんが判断したからだ。
そして俺たちは五稜郭へ向けて退却を始めた。
17日には福島まで退却、18日には木古内を経て札苅に布陣。
19日、五稜郭本営からの命令により再び木古内に移動した。その際一連隊が遅れたため
俺は単独馬を飛ばして迎えに行った。
「伊庭先生、危険です!」
「賊に襲われたら…」
数名の隊士たちが止めようと声をかけたが、俺はその言葉を無視し、馬を飛ばした。
そしてその夜半には一連隊を引き連れ、帰還して見せた。
「さすが伊庭先生だ」
と口々に彼らが言うが、本当はそんな立派な志があったわけじゃない。
本当は、立ち止まっていることに耐えられなくて。
立ち止まったら、息が詰まってしまうような空気に襲われて。
ただ、息苦しさに喘いでいただけ。






そして20日。
早朝に開始された木古内への総攻撃は、不意を撃たれ幕府軍の苦戦となった。
札苅海岸を経て昼ごろにはさらに後方、泉沢へ退いた。
そこへ伝習歩兵隊らが応援に駆けつけ木古内を回復した。しかし、勝利への兆しが見えてきたと思えば
陸軍奉行大鳥圭介の命令により、木古内を捨て矢不来へと向かうこととなる。
遊撃隊は五稜郭へ戻った。

そしてこの激戦で伊庭は胸部に被弾した。
それは再起不能の重症で、泉沢から船で箱館に送られ、箱館病院に収容されることになった。
「戦場へ捨てていってくれ」
箱館につき、たまたま居合わせた土方付きの小姓、田村にそう漏らした。
少年は慌てた。
「伊庭先生!傷は治りますよ!」
「もう駄目だよ…この傷は治らない」
「大丈夫です!高松先生は凄腕の医者です!こんな傷塞いでしまえば…!って、ああ。そうじゃない」
月並みの言葉しかかけられない自分を叱咤しながら、必死に励まそうとする田村の姿に
伊庭は思わず苦笑した。
「…いた」
「笑うと傷が痛みますっ!早く、病院に…!」
田村の顔はゆがんでいた。
応急処置が施されたとはいえ、痛々しい傷を見るのは初めてなのだろう。
死んでしまうのではないか、と泣きそうな顔をしている。

あいつと同じ痛みで死んでいけるのなら、本望だ。

まさかそんなことを彼にいえなかった。




「一ヶ月以内に来ないようにと伝えたはずだ」
病院に運ばれた伊庭に開口一番に、院長、高松凌雲が言ったのはその一言だった。
すでに多くのけが人が運ばれていた。
そして赤十字活動だ、と言わんばかりに院内は敵味方関係なく収容されていた。
「…すみません」
「しゃべるな。傷が悪化するだろう」
慣れた手つきで処置を施そうとする高松に、
「治療の必要はありません」
と伊庭はきっぱり告げた。
「…なぜだ。俺は人の命を救う医者だ。消えそうな命がある以上放っておくことはできん」
「ではこの病院から出して、私を戦地に置いて下さい」
伊庭の言葉に一番驚いたのは、高松の隣にいた手伝いの女と、田村だった。
「な、な、なにをおっしゃるんですか!先生!」
田村は襲いかかるかのように伊庭に詰め寄った。
「本山先生とともに戦うのではないのですか…!」
「小太は…死んだよ」
「え…っ!」
田村は一気に表情を変えた。詰め寄っていた伊庭のベッドからふらり、と後ずさると
「そんな…」と呟いた。
高松は少し顔を引きつらせたが、それでも冷静に続ける。
「安易に生きることを諦めるな、と言ったときあんたはわかりました、と言ったんだぞ。
 あのときの約束を忘れたとは言わせない」
「…すでに俺は高松先生との約束をひとつ破りました。一ヶ月以内にここに運び込まれてしまった」
伊庭は、げほっと咳き込んだ。血の味が口の中で充満する。被弾した胸の痛みが増す。
手伝いの女が慌てて口元の血をふき取った。
「俺はあいつと…同じ痛みで死にたい」
きっと弾丸で倒れたのだろう、本山と一緒に死にたかった。
今でも後悔している。
殿として戦地に残るといった彼を、引き止めなかったことを。
また会えるなんて、そんな陳腐な言葉を安易に信じてしまったことを。

そして知っている。
もう、取り返しの付かないことだということを。


「そういうのなら、あんた自身が這いつくばって戦地に行くがいい」
「高松先生!」
田村が驚いた。
「死にたい患者を手当てするほど暇じゃない。さあ、行け。そして二度と戻ってくるな」
高松の表情は厳しかった。
伊庭はその顔を見ることなく、こくん、と頷き、身体を起こした。
「いけません、伊庭先生!こんな、こんな重傷で…!」
「田村…くん、行かせてくれ。俺の戦はもう終わったんだ」
ひきとめようと肩を持つ田村から逃れるように伊庭はベッドから降りた。
膝がうまく機能せずうまく立ち上がることができなかったが、それでも伊庭は立ち上がった。
脇腹の痛みを隠すように手を添えた。
「高松先生。……ありがとう…ございます」
「………」
伊庭は小さく頭を下げる。高松はなにも言わなかった。ただ、そのこぶしが震えていただけで。
その口を堅く閉ざしていた。
「伊庭先生、無茶です!その傷で…!」
なおも説得する田村だが、伊庭は何も答えなかった。
ただ、彼のように純粋でいたかったとおもう。
この戦にさっさと見切りをつけた自分とは違う。彼のキラキラ光るその瞳が羨ましいと思う。
そしてその輝きは本山を失ったときにすでになくなった。
もう二度と戻っては来ない。


「先生…ッ!」

バァァン
突然病院に響いた激しい音は、一瞬爆音か、と思ったが勢いよく扉が開かれた音だった。
「おい、静かに…」
高松が注意しようと声をかけたが皆が彼を呆然と見た。
ふらついた足元から、表情が見えなくなるほど血に汚れた彼の姿は戦場の悲惨さを視覚から感じた。
その場にいた誰もが言葉を失ったが、伊庭はその男に見覚えがあった。
「……かま、きち?」
そして彼は深く頷いた。
「ああ、先生!どうしたんですかっ!この怪我は…!早く、早く縫合を…」
鎌吉が高松を見た。
どうして手術してくれないのか、と敵意をこめた瞳だった。
「ど…して、ここに…」
鎌吉は戦死したと誰もが認識していた。殿のつとめから帰ってきた数少ない遊撃隊の中に
彼の姿がなかったからだ。
「本隊と離れちまって…。あげく道に迷っておりました」
鎌吉は照れた風に苦笑した。
「そんなことより先生、早く横になって…っ!どこをやられたんです、脇腹ですか、胸ですか…!」
「伊庭さんはこれから戦場にいくんだとよ」
必死になる鎌吉の横で高松が告げた。
「…ええ…」
「なにをいいます!この怪我で戦えましょうか!」
「そうですよ、伊庭先生!こんな怪我では…っ!」
鎌吉に田村も加わって蹲る伊庭を励ます。
傍にいた女もおろおろと落ち着かない様子で見守るが、高松は腕を組んだまま冷静に立っていた。
「先生、少し冷静になって、それから考えましょう」
「考えたって変わるものかッ!」
どちらともなく言った言葉を跳ね除けるように、伊庭は大声を張り上げた。
針で刺されたような痛みが胸に走る。
うっ…と前のめりになった伊庭だが、言葉を紡いだ。
「考えたって…なにも変わらない。事実はなにも、なにも…かわらないんだ……!」
鎌吉が帰ってきてくれたように。
あいつはもう帰ってこない。
それが現実で、事実だから。
「なら、俺は…あいつと同じ痛みのまま死にたい…!」
「いけません、先生。本山先生は…そんなことを…」
望んではいません。
鎌吉の声が掠れていた。
「……先に、あいつが…約束を破ったんだ。俺が破っても…構わないだろう……?」
「先生…」
涙が零れた。あいつが死んでから初めて流れていった。

『桜の花を見に行こう』
お前はあの大切な約束を破ったのだから、俺が死んでも文句は無いだろう…?
なあ、そうだろう?小太。
無意味に生きる孤独に、耐えられそうも無い。


伊庭はその場に蹲ったまま、涙を流し続けた。
今まで堪えていた堰が外れてしまったかのように、止め処なく大粒の涙が零れていく。
この数日、自分は空っぽのまま戦っていた。そんな風に思う。
「…先生。先生がそうおっしゃるのなら、止めはしません。けど、けど…ね」
それを隣で見守っていた鎌吉が、真っ赤に染まった服から何かを取り出した。
「……これを、先生に」
「え…?」
渡されたのは、キラキラと光る銀の指輪だった。
その指輪は間違えようも無く、本山のものだ。自分の右手に光るそれとまったく同じ。
「…本山先生が、これを先生に…綺麗に、綺麗に磨いて渡して、くれと」
「みが…いて」
その指輪は戦を感じさせない、場違いなほど眩い光を放っていた。
冷たいはずの金属の指輪は、不思議なことに体温を感じた。
「そして、言付けを」
「え…?」
伊庭は鎌吉に顔を向けた。
「…『愛してる』と」
「……っ!」
息が止まりそうだ。
全身の力が抜けて、その場に倒れこんでしまいそうだ。
「…ああ、あああああっ!」
本当に失ってしまった。
言葉で表わせない、たった一つの存在を。

こうして手の中で対になった指輪が光っている。
まるで指輪だけはずっと一緒だ、と言わんばかりに。


「…先生。確かに本山先生は約束を破ってしまったかもしれません。
 ですが、諦めたわけではなかった。戦うことを生きることをやめたのではなかったのです。
 ですから、先生も…諦めないでくださいな」




まだ雪が降っていた頃。
戦の足音もしない深い冬の時間、ぬくもりを求めて肌を重ねたあの日々。
何気なく聞いたことがあった。
「…俺のどこが好きなんだ」
ずっと想っていた、という本山の告白に対して質問した。
「意地っ張りだし、ガサツだし、あんまり素直じゃないだろ?いいのは顔だけで」
「ははっ…よくわかってる」
伊庭は本山の腹を蹴り上げた。
「いたた…」
「もういい。聞いた俺が馬鹿だった」
ぷい、と顔をそらして寝返りを打った伊庭に慌てて取り繕うように本山が肩を抱いた。
「あー、冗談だって。好きなところか、そうだなー…意地っ張りでガサツなところかな」
「なんだよ、それ…。庇護欲がそそられるとかか?」
「そうかも。でも一番の理由は…笑う顔が可愛いからかな」
「……わざとらしい」
「本気なのに」
本山は苦笑しながら伊庭を抱きしめた。

「人間が生きる理由って様々あると思うけど、つまるところ俺は笑うために生きてると思うんだ。
 少しでも多く笑って幸せな気持ちでいるために人間って生きるんだと思う。
 だって笑うことなんて人間しかできないだろう?」

なんて気楽な人間だろう、とそのときは少し呆れた。
でも今はわかる。

そして、お前がそういうのなら、もう少しは生きてみようとも思うよ。






「高松先生。伊庭の具合はどうですか」
戦の合間をぬって土方が箱館病院を訪れたのは五月になってのことだった。
土方自身、小姓の田村から怪我の具合を聞いて心配していたのだ。
肉体的にも、精神的にも。
高松に声をかける前に伊庭の病室に寄ったのだが、案外元気そうに見えた。
「忙しくないんですか?」と土方を気遣う程度には余裕が出てきたらしい。土方は少し安堵した。
「怪我なんてしやがって。治ったらさっそく、扱き使うからな」
「えー…勘弁…してくださいよ」
伊庭は微笑んでいた。

「具合…といってもあのとおりだ。精神的には回復しておるようだが…身体のほうはもういかん」
「………」
高松の顔は伊庭の笑顔と反して、渋いものだった。
土方も伊庭の病室に入る際、特徴的な独特の悪臭に一瞬鼻がおかしくなったのかと思った。
それくらい伊庭の怪我の化膿が酷いということだ。胸部に被弾した弾丸は抜き取られたものの
その傷が完全に癒えることはなかった。本人は笑っていたが、痛みはあったはずだ。
傷口は紫色に変色し、ほとんど腐食していた。
「…もってあと一ヶ月か。次第に声も出せなくなるだろう…」
「そうですか…」
「化膿が進むにつれ自分の身体が腐っていくのがわかるだろうに。…もしかしたらつらい選択をさせたのかもしれない」
高松自身、戦場に行く、といった伊庭をあの時止めてよかったのか、今でも疑いの霧が晴れなかった。
こんな敵味方集まる病院で死ぬのは、誇り高い武士にとってどれだけ屈辱か。
高松自身も理解している。だからこそ、強引にひきとめはしなかったのだ。
「いえ。それはないでしょう」
肩を落とす高松に、土方が快濶に言った。
「あいつ、あんな状態で笑ってましたよ。どうして笑うんだ、と尋ねたらそうしなければならないからとか」
「…笑う?」
「…生きることに希望を持っているから、笑えるんでしょう」


なぜか
あの桜が見たい。
数輪咲かせただけのあの桜は今頃きっと満開なのだろう。
この二つの指輪を持っていく。
お前の分の酒も一緒だ。






五月十一日。
土方戦死の知らせが、田村によってもたらされた。
尊敬する主を失った田村は枯れるまで涙を流し続けた。
伊庭は傍らで泣く彼に何も言えなかった。
もう、声が出せなかった。


それから三日後の十四日。
五稜郭内にいた伊庭のもとに榎本が訪れた。
箱館病院は戦に巻き込まれる恐れがあったため湯の川へ移動することになったのだが
「五稜郭へ捨てていってくれ」
と伊庭は激しくそれを拒否した。
そしてやむを得ず高松もそれを了承し、五稜郭の一室に移されていたのだ。
「えの…もと、そう…さい」
伊庭は掠れた声を発し、身体を持ち上げようとしたが、隣にいた田村に止められた。
榎本もそのままで、と優しく微笑んだ。
その顔は戦で少し疲れているように映った。
「…私も、君も…そして皆もよく戦った」
そして穏やかだった。
「この戦は…きっといつか意味のあるものになる。我々の犠牲も…無駄じゃない」
「……え…え…」
伊庭はふと気がついた。
榎本は死を決意しているのだろう。すべての責任を取ってその命を絶つつもりなのだろう。
この穏やかな笑みはそれを指し示しているのだ。
「…よく、ここまで私についてきてくれた。お礼を言う」
「そん…な…」
伊庭は目を眇めた。

「君。少し出て行ってくれないか」
「は、はい…」
榎本の後方に控えていた田村が榎本に従って部屋を出た。不安が表情に滲み出ていた。
榎本はそれを見送ると微笑む。
「…あんな若者を戦に巻き込んでしまったのが私にとって一番残念なことだ。
 若い彼らの命を守るためにも…私は全責任を負わなければならない」
それは呟くようだった。

「…我々も直ぐにいく。だから君は一足先にいってくれないか」

榎本が伊庭に渡したのは毒薬の入った薬椀だった。
伊庭はそれを悟り、莞爾として笑った。
「…俺はこの胸に弾を受けたときに死ぬはずでした。
 でも十分に……生き、笑いました…。あいつも、許して…くれるでしょう…」
不思議なことに、恐怖や恐れはなかった。
ただ思うことは、嬉しさ。
久しぶりにあいつに、恋人に会えると。

俺を抱きしめて。
そのぬくもりでもう一度包んで…。

伊庭はその薬椀を笑って飲み干した。
眠気が襲い、いつの間にか息絶えていた。
その指には、二つの指輪が光っていた。


もう許してくれるだろ?
君のもとにいくことを。

空から見る桜の眺めは、綺麗なのかな。
俺たちで染まったあの桜は、咲き誇っているだろうか。




















NEXT

*あとがき*

【君許】きみがり、がり
    君のもと。万葉集『沫雪にふらえて咲ける梅の花 君許やらば』

昨年11月から連載を始めた「キミガリ」。四ヶ月という長い期間を経て本日完了となりました。
15話完結の予定がいつのまにか26話まで延びてしまい、マユリ自身も少しびっくりです。
でも春までに(ぎりぎり)完結できて少し安心しています。

今回この「キミガリ」で初めて本山×伊庭を書いてみたのですがいかがだったでしょうか。
もともとこのカップリングについては、いろいろな逸話を知り、何の疑問もなく浮かんだ(笑)ものなのですが
やっぱりマイナーなので、好みに合わなかった方にはすみませんです。
でももはや今は、伊庭さんは受けにしか見えないのが本音ですが(笑)

この「キミガリ」を書くきっかけとなったのは、歴史の先生と語り合っていた(受験の面接のために:笑)
ときの先生の一言です。戊辰戦争について語ってたんですが
マユリ「戊辰戦争まで戦ったその理由を知りたい!」
F先生「薩長は幕府を潰したかったんだろうけど、幕府側は戦いたかったのかな」
マユリ「え?」
F先生「仕方なく戦ったとか?」
…という何気ない会話が妙に頭に残ってしまい、この「キミガリ」の話が浮かんだのです。
それまでは戊辰戦争で戦った幕府側の人間が何故、戦い続けたのかという理由について
「意地と誇りのため!」「新政府軍が嫌いだから!」という理由を決め付けてました。
もちろん大部分はそうなのかもしれませんが、明らかに戦力の差があり、負けが見える戦いに
彼らが希望を持てたのだろうか。その部分について書いてみたいと思いました。
走り出しは確かに意地や誇りのためだったのかもしれない彼らだが、次第に自信を失ったのではないか。
そして意地や誇りのためにその足を止めることができなかったのではないか。
そうとも考えられるな、と思いました。

そしてこの話をまず土方さんに合わせてみようと思ったんですが、どうもしっくりこない;
新撰組の副長として生き抜いてきた数年間のことを考えると、ますますしっくりこない;
それで伊庭さんに重ね合わせてみるとなぜか、書ける様な気がする!と思い
想像に耽るのは簡単でした(笑)
そして伊庭さんを主人公にすると本山さんの存在が重要になる。
本山さんについてはほとんど資料もなければ細かいこともわからない。
けど、伊庭さんの本山さんに対する思い(友情)は資料を通しても窺える。
それにそれは「恋だろう」と思うほどに熱い想い(笑)で「これは…恋人にするべきだろう」と決定。
でもいろいろ考え込みました、マイナーすぎてどうなの?と。でも創作意欲が勝りましたが。

キミガリでは、それまでマユリが書いてきた伊庭像をまったく壊しました。
それまでは江戸っ子で口が達者で、でも中身は潔い人というイメージで書いていたんですが
彼の生き様と死を中心に書いていくということで
「果たして、そんな簡単に死のうと思えるものなのか」
と疑問に思いました。小説中にもありますが、箱館で戦を待つ冬は穏やかなものであっただろう。
そのあとやってくる戦を考えると恐ろしくならないだろうか、逃げたくならないだろうか。
きっと自分なら、逃げるだろう。
…最近、誰かが死ぬ小説をよく書くんですが(汗)やっぱり一人ひとりを軽々しく殺したくない。
箇条書きのように人を殺すことは物書きとして許されない。
過剰なくらいの決意を胸に(笑)書き始めました。

少し硬い話になってしまいました…。なんだかレポートのようですが;;
何だかんだ言って、一番大変だったのは資料集めです。
いろいろなサイトさんにお世話になりました。
でもなぜか土方サイドからみた戊辰戦争が多い!(手元の資料が)
「伊庭は何をしていたの!本山は!!」
…何度叫びそうになったことか。。。
資料を見つけても「江差ってどこ!っていうか五稜郭はどこ!」とかなり迷走しておりました;;
第一部はそうでもないんですが、第二部は本当に創作色が濃いです。
というか25話を書いていて初めて
「…鎌吉って…江戸に戻ってたの?!」
と知り、愕然としました。が、頑張って出してたのに…!
…そんなわけで、第二部については史実を交えながら、書いているという感じです:スミマセン;
ついでに宮古湾が北海道にあるのだと思っていたのはマユリだけですか…;

「キミガリ」はマユリの好きなものをドンドン練りこんでいるような小説です(笑)
まず指輪。二人の絆の証として何か無いかな〜と考えているときに思いつきで。
江戸時代とすこしギャップがあるように見えるんですが、それもいいかなと(笑)
それから桜について。これは実は土方さんと沖田さんのエピソードにいつか入れようと思っていた
ものそのままです。本当に;第二部に移って何かないかな、と思って桜を導入。
桜の季節にちょうど公開できてよかったよかった。
あと、妙に二人のラブラブ期間が長いのは、ただマユリが戦を書きたくなかったのと
本山の死がより悲劇的に映るかと。でも主な理由は前者ですね(笑)

えー、長くなりましたが。
「キミガリ」最後までありがとうございました。この小説でまた新たな趣向に挑戦して頂ければ幸いです(笑)
この本山×伊庭の話は、また書く機会があると思いますのでそのときは目を通していただけると嬉しいです。
春になって生活が落ち着いたら、新しい連載とわらべうたの更新などに力を入れたいと思います。
それでは。



06'11'19〜07'3'28 掲載





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