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わらべうた



535


七月上旬。
依然として幕府軍の不利な状況は続いていた。
近藤は江戸の実家から送られてきた手紙に目を通しながら眉間にしわを寄せていた。
「江戸では米の価格が暴騰しているようだ」
幕府軍の勝利に終わると思われた戦は、一ヶ月がたっても勝敗がつかずに長期化していた。その為各藩が兵糧米を備蓄し、庶民に出回る米価が高騰したのだ。
近藤は続けた。
「打ちこわしや一揆があちこちで起こっている。天領だった石見銀山が長州に制圧されたことで、同じ天領の日野の人々も動揺しているようだ」
「流石に日野に何かあるってわけじゃねえだろうが…」
「油断はできぬ」
近藤の言葉に土方も頷いた。
(このまま幕府が負ける…なんてことがあったらどうなる…)
幕府がたった一藩に敗北を喫したということになれば当然求心力を失ってしまう。薩摩や土佐だけではなく各地の有力な藩がこぞって長州につくかもしれない。
「…もどかしいな」
想像を巡らせ、土方は思わず吐露した。
小倉口での戦いは激化し、有力な海軍力を持ちながらも九州の大里(だいり)への上陸を許してしまった。鍋島藩(佐賀藩)は援軍を拒み、幕府軍は窮地に追い込まれている。
そんな不利な状況がわかっていながら、ここにいて何もすることができない。自分が指揮官だったら…と戦術を巡らせても、それはただの絵空事でしかなく虚しい思いが募るだけだ。
「…なんだ、歳もそう思ってたのか」
「当たり前だろう。俺が兵を率いることができるならこんなヘマはしねぇ」
「お前は相変わらずだな。昔から鬼ごっこでは子供を集めて指揮を振るっていたし、将棋は強かった」
「遊びと一緒にするなよ」
子供の遊びとはレベルが違う。しかし近藤の表情は冗談を言っている風ではないのだが、その物言いに少し気が抜けた。
「…そういえば、お孝のことはどうなったんだ」
「むぅ…それがなぁ」
近藤はますます難しい顔をした。
深雪の妹の孝の今後について、近藤は縁談や養子縁組先を見つけて孝に提案した。もちろん近藤なりに『良かれと思って』の行動なのだがそれが孝の機嫌を損ねてしまったのだ。土方は落ち込む近藤の背中を押し、「話を聞いてこい」と嗾けたのだが、表情を見る限り良い結果とはならなかったようだ。
「今後のことについてはお孝の良いようにすれば良い、俺は助力を惜しまない…と言ったのだが、やはり不貞腐れてしまった。歳、俺にはお孝が何を考えているのかわからないよ」
「…かっちゃんがどう思っているかっていう話はしたのか?」
「どうって…。だからお孝の良いようにだな…」
「本当にそう思ってるのか?」
その問いかけに近藤はサッと目をそらし、泳がせた。
「本当に…思っているさ。深雪の妹は俺の妹のようなものだ」
「俺にはそれが本心には聞こえねぇな」
「…」
幼馴染の直感は違うことはない。近藤もそれを知っているからこそ、やがてため息をついて頷いた。
「…お前には何も隠し事ができない」
「ああ、そうだな。局長の隠し事を見抜けねぇと副長なんてやってられるか」
「たしかにその通りだ」
近藤は冷めた湯飲みに手を伸ばし、一気に煽った。「はぁー」と堰き止めていた何かを吐き出すように声を上げる。
そして土方を見据えた。
「…不思議なことだ。外見はそっくりでも中身が違う。深雪とは何もかも正反対のお孝のことを、最初は『深雪の妹』としか思えなかったのにな」
「…惚れたのか?」
「惚れた…とは少し違う。お孝のことを考えて遠ざけようとすればするほど…お孝といる時間が惜しくなったんだ。最初は嫁にやる娘への複雑な父親の心境なのかと思っていたが、どうやら違うようだ。…だがこんな虫の良い話、お孝に言えるわけがない」
「何故だ?」
「何故って…わかるだろう?」
近藤は苦笑まじりに続けた。
「深雪が亡くなって半年も経たないというのにこんなことになって…俺は惚れたとかそういう喜びの感情よりも深雪への申し訳ない気持ちの方が上回った。自分がこんな軽い男なのかと…心底、ガッカリしているところだ」
いつも前向きな近藤が己を蔑む姿に、土方は何を言えばいいのかと迷った。
もしかしたら、近藤が深雪が亡くなった後、すぐに孝に縁談の話を持ち出したのは無意識に彼女を遠ざけようと思ったのかもしれない。ずっと深雪を想っていたかった、妹へ邪な感情を持ちたくなかった…そんな清廉な自分でいたかったのだろう。
近藤の深雪への想いはたしかにあった。かつてないほどの愛情と優しさを注ぎ、彼女を失った時は慟哭して悲しんだ。深雪への愛情は決して嘘ではない…幼馴染としてそれをよく知っている。
「…そういうものだろ。周りがなんて言おうと、惚れたもんは惚れたんだ」
「でも俺は深雪を忘れることはできない…」
「それはお孝も同じだ。もしかしたらこれは深雪が繋いだ縁なのかもしれない」
「はは…歳にしては楽観的だな」
いつもと立場が逆だ、と近藤は少し笑った。いつも前向きなのは彼の方なのだ。
「正直に言えば局長って立場がかっちゃんにとってどれだけしんどいのか、わからねえ。だからこそ深雪のような妾が居て良かったと思ったんだ。俺に総司がいるように、かっちゃんにも深雪がいる。俺は深雪をそういう意味で信頼していたんだ。…だが、もういなくなった。間違いなくここにはいない」
「…」
「いなくなった人間は、生きている奴を過去の楽しかった思い出に引きずり込むことしかできない。かっちゃんが深雪を想えばあの時は良かったと後ろ向きになる…日野にいたただの『島崎勝太』ならそれでもいい。だが、ここにいる『新撰組の局長』はダメだ。こういう戦況にあるからこそ、屋台骨が緩んじゃ困る」
土方は近藤の両肩を強く掴んだ。
「酷なことかもしれないが、深雪のことは吹っ切れ。そしてお孝に惚れた自分を認めろ。いい加減本当の意味で前を向け」
無茶を言っている自覚はあった。
人の心は他人が動かせるものではない。土方が深雪のことを忘れて孝へ愛情を注げと言ってそうできるなら、近藤はとっくにそうしていたのだから。
「…歳に言われると、そうしなければならないという気持ちになるなぁ」
「人に言われて自覚するなんてこと、いくらでもあるだろう」
「いや、歳だからだ。お前のことを俺は自分以上に信頼している。そして間違いはない」
近藤は肩を掴んでいた土方の手の甲を、もう大丈夫だと言わんばかりにポンポンと軽く叩いた。
「お孝が俺のことをどう想っているのかわからないが…正直に伝えてみよう。それで嫌われるなら仕方ない。当たって砕けろ、だな」
「ああ…」
近藤はいつも通りの笑みを取り戻し、土方もそれに応えて頷いた。
(まあ…当たって『砕ける』ことはないだろうが…)
土方には確信があったのだがそれを口にするのは止めた。
「しかし、歳はお孝のことをあまり好いていないのだと思っていた。総司に聞いたが、お前はお孝を身請けしたときに『お前は下働きだ』と言い放ったのだろう?」
「それは脚色が過ぎる。お孝が身請けの金は返す、借りは作らないと言ったから言い返しただけだ」
「ははは、新撰組の鬼副長を相手にお孝もよく言ったものだ。もしかしたらお前たちは気が合うのかもしれないな」
「勘弁しろ」
思い詰め翳りがあった表情がすでに晴れている。そのことに土方は安堵していた時、
「近藤先生、よろしいですか?」
障子の向こうから声が聞こえてきた。近藤が答えると総司が顔を出した。
「どうした、総司」
「はい、会津の平沢様がいらっしゃっています」
「そうか、すぐに行くよ」
近藤は立ち上がり、部屋を出て行く。しんと静まり自然に土方と総司が残された。
「…近藤先生、少しお元気になられましたね」
「ああ…そうだな」
「やっぱりこういうことは土方さんに任せるべし、ですね」
「…」
「…」
総司はどこかぎこちない素振りを見せた。先日斉藤の件で揉めてから、二人きりになるということがなかったのだ。
「…土方さん、あの…」
「かっちゃんは恋愛ごとに関して自分のことになると疎い」
「え…?」
総司の言葉を遮って、土方は続けた。
「一番弟子のお前も同じだな。人のことは必要以上に心配するくせに、自分の周りのことはみえていない」
「…それは斉藤さんのことですか?」
「そうかもな」
土方は立ち上がり、去ろうとした。しかし「歳三さん」と引き止める総司の声に立ち止まった。
「…確かに私は鈍感で斉藤さんのことをちゃんと理解できていないのかもしれません。自分のことも…曖昧なところはあります。でも確かなこともあります」
「…」
「私は歳三さんを誰とも天秤にかけたことはありません。ちゃんと気持ちは、固まってます」
総司はその先を明言はしなかった。そうしなくても伝わるだろうと信じていたからだ。
それを土方は受け取った。
「…ああ、知ってる」
怒ってぶつかって、時々確かめたくなるだけだ。
(俺もお前には弱い)
そうやって自分が人であることを思い出すことができる。
土方は総司の頭を軽く撫でた。






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解説
なし
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