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わらべうた



540


総司と斉藤が都へ戻り、数日が経った慶応二年七月下旬…将軍徳川家茂の薨去の報が屯所に届いた。
「何と御労しい…!」
近藤は若干二十歳にしてこの世を去った将軍に大粒の涙を零して悲しんだ。同じ部屋にいた土方と総司も悲痛な気持ちは同じだ。
「松本先生は必死に手を尽くされましたが…残念なことです」
「ああ、朝廷や和宮様から名のある医師が派遣されたということだが…それでもご快癒されることなかった…。まだ御若いのになぁ…」
「若いからこそ病状が悪化しやすいということもある」
薬売りとして各地を回っていた土方の冷静な意見に、近藤は「そうだな」と言いながら鼻をかんだ。
「…公式発表は八月ということらしい。大樹公にはお世継ぎがおらず、再び世間は混乱するだろう。…ひとまず、隊士には伝えず歳も総司も胸に留めておいてくれ」
「わかりました」
「歳、伊東参謀には俺から伝える」
「ああ」
将軍の死は副長助勤以上のみに伏せられ、平隊士への伝達は公式発表を待つこととした。
近藤は早速伊東の元へ向かったが、土方は厳しい表情のままだった。総司はその理由を察していた。
「…近藤先生には上様が薨去されたばかりなのに不謹慎だと言われてしまいそうですが……長州との戦はどうなるんでしょうか?」
「ああ。幕府は苦戦を強いられている。西の城は次々に降伏し敗戦が濃厚だ。だから将軍の薨去は休戦の格好の理由になるだろうが…その後、戦を継続させるかどうかは次の将軍によるだろう」
「次の将軍って…一橋慶喜公ですか?」
将軍職を争って一橋派と南紀派が争ったのはわずか数年前のこと。あの混乱が再び訪れるのだろうかと総司は危惧したが、土方はあっさりと「そうなるだろうな」と肯定した。
「今の情勢で将軍職に就きたいと考える物好きなんてほかにいないだろう。いずれ敗軍の将になる…むしろ頭の良い一橋公が貧乏籤の将軍職に付くかどうかわからねぇな」
「…そうですか…」
漠然とした不安が胸に過ぎる。ほんの少し前までは二百年以上続いてきた幕府が『敗戦』することなど夢にも思わなかったのだ。だがその不安の原因はそれだけではない。
「…斉藤の様子はどうだ?」
土方に尋ねられ、総司は首を傾げた。
大坂から戻って数日、斉藤はいつもと何変わらない様子だった。大樹公に近しい立場であった斉藤はおそらく新撰組に知らせが届くよりも先にその死を耳にしていたはずだが、悲嘆にくれる様子も落胆することもなく、いつも通りに淡々と仕事をしている。
土方には大樹公と斉藤の関わりを簡単に説明した。誰もが最初は信じられないと驚愕するような過去だったが、土方としてはこれまでの彼の行動の辻褄があったと言ってすぐに納得し理解を示してくれた。
「いつも通りすぎて…逆に何だか不安になってきます」
大坂城から戻った明け方…斉藤は自暴自棄になりながら
『苦しい』
と漏らした。その言葉が胸が潰れそうなほど悲しく響いて総司は手を差し伸べ、共に体温を感じながらどうにか朝を迎えた。総司は少しだけ意識を手放して眠ってしまったのだが、起きた頃には斉藤はいつもの淡々とした様子に戻っていた。それは彼が悲しみから立ち上がったというわけではなく、硬い甲羅のなかに自分の感情を閉じ込めてしまっただけのように見えた。
総司は心配が尽きなかったが、土方は案外あっさりと
「あいつのことはお前に任せる」
と言った。
「…いいんですか?」
「俺はあいつに言うべきことは言った。それに大坂に出立する前に言っただろう、任せると」
「…わかりました」
土方からの信頼をひしひしと感じ、総司は頷いた。


部屋を出ると陽が西へと落ち、じわじわと夜が訪れようとしている。
総司はその空を見上げてぼんやりと立ち止まった。
このところ、陽が暮れるとあの夜のことを思い出していた。斉藤が噛み付いた傷跡は未だに肩口に残っている。
(醜悪な怪物…か…)
あのとき、斉藤は総司を組み伏せながら自分を痛めつけていたように思った。苦しみを紛らわせるために乱暴にすることで、自分を貶めてほしい。仕えるべき主君を失った斉藤にとって誰に好かれようと嫌われようとどうでもよくなったのかもしれない。
(でも…僕にとって斉藤さんは必要な人だ)
この関係にどんな名前を付けたら良いのかわからない。でも互いに必要としていることはわかっているはずだ。
「沖田先生」
「え?」
聞きなれない声に呼ばれ、総司はふと我に返った。目の前にいたのは癖っ毛が目を惹く、目鼻立ちのスッキリとした若い隊士だった。
「えっと…」
「梅戸勝之進と言います!」
「ああ、すみません。えっと三番隊…でしたっけ?」
「はい!」
元気で人懐っこい笑顔で頷いた梅戸だったが、すぐに「あのぅ」と声を落とした。
「うちの隊長…斉藤組長なんですが、大坂から戻ってから様子が…」
「おかしいですか?」
「いえ、そうでもないんですけど」
「えぇ?」
てっきり『おかしい』のだと報告にきたのかと思ったが、斉藤が部下に悟られる失態を犯すわけがない。だが梅度は「でも」と腕を組んだ。
「このところ、夜になるとふらりと出かけられるんです」
「夜に?」
「ここ数日…朝になると戻って来て、特に変わった様子はないのですがどうも気になっちまって…今夜も先ほど出て行って…」
梅戸の言葉を最後まで聴き終えることなく、総司は「ありがとう」と話し切り上げて歩き出した。梅度が何か声をかけたが構わずに早足から、駆け足に変わっていく。
外出を島田に告げて提灯を手に屯所を出た。梅戸は『先ほど』と行ったのでまだ遠くへは行っていないはずだ。そのうちに夕暮れが夜に覆われてあたりは暗くなっていく。
総司は東へ向かった。確信や理由があったわけではなく何となくそちらへ向かうべきなのではないかと思ったのだ。
七条の大通りを歩き続ける。人はまばらだが確実に減っていくなか、次第に水の音が聞こえてきた。その音は重なって、大きな蜿となって夜の都にただただ響いていく。
その川に架かった七条大橋ーーーその欄干に身体を預けるように斉藤が立っていた。
「斉藤さん…」
「……いつか、あんたがここに来る気がした」
総司の姿を見ると斉藤は特に驚く様子もなくそう言った。
「何しているんですか?こんなところで…」
「別に。ただ…水の流れる音を聞いている」
「…ご一緒しても良いですか?」
「勝手にしろ」
総司は斉藤と並ぶように隣に立った。
普段、人の行き来の激しい大橋では水音は人々の喧騒に掻き消されて耳に入ることはない。だが、夜の静かな橋の上では激しく鼓膜を揺らしまるで別の場所にいるかのような心地だった。
「梅戸…さん、でしたっけ。心配していましたよ」
「梅戸か。…普段は飄々としているくせに妙に勘が良い」
「…大樹公の薨去の知らせは…」
「ああ。数日前に篠原から聞いた」
斉藤は表情を変えることはなかったが、くるりと身体を翻し、暗くて何も見えない鴨川を見下ろした。
「…鴨川は、次第に桂川に合流し、最終的には淀川として大坂へ至る。この水の流れが若様に繋がっているような気がした。…だが…もう、お会いできることはない。お優しい若様は天へと召されただろうが…俺はきっと地獄へ落ちる」
「…そんなことを言わないでください」
『苦しい』
そう漏らした時とおなじ表情をしていた。何かを諦めて手放して…己の感情さえ蓋をして、それでも溢れ出る何かが息苦しくて。
「俺は…ずっと自分は一人きりで生きてきたのだと思っていた。小さい頃から誰にも理解されず、それが楽だとさえ思った。若様と出会い離別してからもそうだ…俺は寄る辺なき者としてずっと生きていくのだと、ずっと思っていた」
「…」
「だが、違った。どんなに遠くとも若様の存在が俺の身体の大半を占めていた。若様のために生きていた。…だから若様がお亡くなりになったのなら…何の意味もない」
「そんなことはありません」
総司は斉藤の腕を掴んだ。そのまま真っ黒な川に落ちてしまいそうな身体を繋ぎ止めるように強く握った。
「…なにが…」
「斉藤さんは自分が主君を失った無意味で無価値な存在だって…そう言いたいんですよね。でも…私にとっては斉藤さんは意味のある人です。私には…大切です」
「大切…?」
「もちろん…近藤先生や土方さんとは違います。近藤先生は私にとって主君に等しく、そして土方さんと同じことが斉藤さんとできるわけじゃありません。でも…大切なものって、優劣をつけるものじゃないでしょう。近藤先生と土方さんは私にとって同じくらい大きな存在です。だから、わがままだって言われたって、私にとって全部大切なんです。…斉藤さんは、大切な友人です」
雲に隠れていた月が顔を出す。それが水面に反射して、揺れて、少しだけ光が射した。
「ずっと斉藤さんのことを『強い人』だと思っていました。年下なのに、どうしてこんなにも強いんだろうって…。でもその理由は守るべき主君がいたからだってわかりました。守るべきものがあれば強くなる…それは私にもわかります」
「…ああ…」
「でも主君を失ってなにもかも自分に無くなったって斉藤さんが思っても…私や皆がいます。斉藤さんの存在に意味や価値を持っている人が必ず…。だから、ここにいてください」
総司は持っていた提灯を落とし、両手でその腕を掴んだ。
「苦しいなら受け止めます。悲しいなら一緒に悲しみます。それが…友人として私ができることです」
言葉は紡げば紡ぐほど虚しく足元に落ちていく。だからこそこんな風に指先から伝わることの方が多いような気がした。
人はどうして、理由なしにいきることができないのだろう。ありのままに、本能のままに生きればいいだけなのに、どうしてそれが無価値だと思うのだろう。
薄暗い月明かりのなか、斉藤の頬に一つ筋の涙が流れていた。多くを語らない彼が見せた初めての涙は、なんだか現実味がなかったけれどそれでも彼の心の片鱗であることに間違いはなかった。
「少しだけこのままでいてくれ…」
「…はい」
この夜が明ければ、彼はきっともうなにも言わないだろう。明日からはきっと元どおりの『いつもの』彼に戻っている。そうやって今を過去にしていくことで悲しみを癒すしかない。
(あ…)
欄干から大橋の下を覗いた。
水面に映る月の光が揺れた時、丸い光がふわりと飛んでいくように見えた。
(蛍…)
蛍の季節は過ぎ去っている。だからそれはまるで幻のような一瞬だった。









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解説
なし
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