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わらべうた



542


あれからどれほどの月日が流れたのか…さほど経っていないのかもしれないし、まるで一瞬のことのように過ぎていったのかもしれない。
周囲の環境は間違いなく変わり、移ろい、新撰組という大きな組織は駆け足でこの時代を駆けていくのに、その場で立ち竦み取り残されたように重たい身体が呆然としている。
少なくとも、時が止まっていた。
紐解ようのない主従関係はあの雨の日に打ち砕かれ、雨粒と一緒にどこかへ消えてしまった。
だが、皮肉なことにーーー今はただ彼に『嫌われている』という事実だけが、それだけが己を生かしている。


「つまみがたりねぇ」
「おい、酒を持ってこい!」
居酒屋の外まで聞こえる騒がしい声。
昼間から酒を飲む…非番の隊士には許されているもののそれが毎回ともなればよく思わない者は多くいるだろう。それは町人だけではなく、新撰組の内部の人間もそうだ。だが、彼には『勝海舟』と『会津』という後ろ盾があり、簡単に文句を言えない立場だ。もちろん土方などは当然その存在を疎ましく思っているが、不思議と手を出さないでいる。
浅野はボロボロの着物に、褌、顔の大部分を覆い隠す頭巾という出で立ちで、その居酒屋の前で眉をひそめていた。傍目に見れば新撰組の横暴な様子を疎ましく思う平凡な何処にでもいる物乞いに見えるだろうーーー『金山福次郎』という放蕩息子はそこにはいない。居るのは、ただの『三郎』だ。
そしてその居酒屋の傍、誰もが目を向けない細い路地に男がいた。
「おい」
浅野は声を掛けた。同じ監察でありながら彼が何と名乗っているはか知らないが、彼が芦屋昇という名前の隊士なのはよく知っている。
芦屋はその大きな体を曲げ膝を抱えたまま虚ろな眼差しで浅野を見上げた。焦点の定まらない目線や目元の真っ黒なクマ、窶れた口元は同じ物乞いとして迫真の演技…とも言えなくないが、それが仮の姿なのかどうかはわからない。
「…」
「中にいるのは『お坊っちゃま』か」
「…」
芦屋は何も答えない。
見かねた浅野は大きなため息をつきながら芦屋の側に腰を下ろした。
「帰藩の話は知っているだろう」
浅野は短く尋ねた。平隊士には知りようもない内部事情も監察には伝えられるため、彼の主人である三浦に『帰藩』の命令が出ていることは耳に入っていた。
それは芦屋も同じはずだ。
「悪い話じゃねぇはずだろう。一度は御家断絶になった…それなのにお偉いさん方の威光でここまで生き延びてきたんだ。この時代じゃなきゃとっくにのたれ死んでる」
「…」
「このどんちゃん騒ぎでわかるだろう?このままここにいても、いつか法度に背いて切腹になる…まあ、簡単にはならねぇだろうが、それでも結末は目に見えてる。…命令に従ったほうが、坊ちゃんのためだ」
親切心からの忠告のつもりだったが、芦屋は何の反応も見せない。
まるで死んでいるように。
何の反応も見せないと、流石の浅野も苛立つ。
「…まあ、いい。お前もあの坊ちゃんを付け回すことが仕事じゃねぇんだ。何のつもりかしらねぇが無意味なことはやめろ」
そう吐き捨てて「やれやれ」と立ち上がった時、
「無意味などではない」
低い呻き声のような重たい声が聞こえた。それは芦屋のものとは思えないほど、獣の唸り声のように暗い。
「…じゃあ、意味があるってのか?」
「…」
「少なくとも、坊ちゃんの方は迷惑しているだろうな」
「…」
芦屋の返答はない。もう何も言わないだろうと浅野は悟りそのままその場を離れた。
入隊以前からの歪な主従関係。なぜそれが壊れたのかは監察でも知られていない。三浦の方は芦屋の存在を徹底的に無視し視界に入れることはないが、芦屋の視界には三浦しかないように見える。一方通行の忠誠ーーー狂気を孕んだ愛情。
(…俺には理解できねぇが…)
薄暗闇の路地から抜け出すと、夏のまっすぐな日差しが浅野を照らした。それが眩しくて仕方なかった。



「井上のおじさん」
総司はそう口にして「あ、間違えた」と笑った。すると呼ばれた井上の方は
「なんだよ、沖田『先生』」
と茶化した。
総司からすれば三十歳以上年の離れた六番隊組長の井上源三郎は、西本願寺の境内を眺める場所でスイカにかぶり付いていた。誰の目も気にすることのない飾らない姿は試衛館にいた時と変わらなかったため、思わず『井上のおじさん』と呼んでしまったのだ。
「ほら、お前も食うか」
「いただきます」
総司は井上の隣に座り、スイカを受け取った。
井上は近藤の兄弟子という立場だがその剣の道は地道で、近藤とつねの婚礼の頃にようやく免許皆伝となったいわゆる努力家タイプだ。剣の腕では組長として劣る部分もあるがその分、総司のような天才肌とは違い、平隊士たちの立場を慮ることができ、信頼も厚い。一方で無口で頑固な側面もある。
総司はスイカを口にした。程よい甘さと水分が身体に染み渡る。
「今日は暑いですね」
「ああ。江戸と違ってこっちは、まるで同じぬるい風がぐるぐる同じところを回ってやがるようだ。鬱陶しくてかなわねぇな。…お前はしっかり水を飲め、池田屋のこともあるんだからな」
「わかってますよ」
池田屋の時、熱中症で倒れたことを井上は昨日のことのように言い聞かせる。だいたい夏になったら同じことを言うので総司はすっかり聴き慣れてしまった。
井上は種を「ぶっ」と吐き出して食べ終えた。
「三浦のことか?」
「何も言ってませんけど」
「お前の言いたいことは大抵顔に書いてある。昔からそうだろう」
「…そうですかね。最近は大人になったと思うんですけど」
「どうだか」
井上は少し笑ったが、すぐに表情を落とした。そして言葉を絞り出すように続けた。
「…まあ…あんまりいい噂はねぇけど、悪いやつじゃねぇと俺は思う。例の一件から隊務にもそれなりに向き合ってるし、無茶苦茶はしない。酒癖が悪くて偉ぶっちまうのはあいつの境遇なら仕方ねぇところもあるだろう」
井上は同情めいた言い方をした。
彼の包容力や懐の大きさゆえに、六番隊にはさまざまな問題児が集う。傍目には「押し付けられている」ように見えるかもしれないが、井上の場合は試衛館にいた頃から稽古に身の入らない門下生の世話を焼いていたのだ。
「だから、帰藩って言われても素直に受けとらねぇのは当然だろうな。あいつからすれば厄介者扱いみたいに新撰組に入れられちまって、抜け出すこともできねぇんだから、可哀想なところもある」
「…そんな風にいうのは井上のおじさんくらいでしょうね」
「お前はどう思ってるんだ?」
「私は…」
総司はスイカを頬張った。このあっさりとした味わいのように、簡単に返答はできない。
「…私がどう思うとしても、三浦くんはきっと誰の言うことも耳を貸さないでしょう。一番信じていた人に裏切られて…ああ見えて、きっと孤独なはずです」
あの雨の日。
悲しい真実を知った三浦は絶望に突き落とされ、芦屋もまた何もかもを失った。その現場に立ち会った総司は三浦の下した決断に驚いたが、それが憎しみの形となった。
「…あながち、間違いじゃねぇようだな」
「何がです?」
「大人になった、っていうのは」
「…そうでしょ?」
総司は笑って、スイカにかぶりつく。その様子を温かき眼差しで眺めながら、しかし井上はため息をついた。
「帰藩するにしてもしないにしても…あいつらはここにいるべきじゃない。ここは、そんなに生ぬるい場所じゃねぇんだよな…」





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解説
なし
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