迷子の足音



  1

 御徒町の道場『練武館』を後にした本山小太郎は、深いため息をついた。それは通り過ぎた若い娘にも聞こえるくらい大きく響いたようで、物珍しいものを見るような目でジロジロと見られてしまったので
(おっと…)
 と、足早に門前を去ることにした。
 文久三年。年が明けたばかりの睦月は凍えるように寒い。手先を温めるために息を吐くが、すぐに真っ白になって消えてしまう。それを何度も繰り返しながら、本山は歩いた。
 今日は幼馴染であり親友の伊庭八郎に呼び出されて道場に向かったのだが何故か不在、その代わりに彼の父である秀俊の長話に付き合う羽目になってしまった。父の積もり積もった愚痴をかわすため、伊庭は父と本山の鉢合わせを狙ったのではないかと穿った見方をしてしまうほどだ。
(八郎のやつ…)
 しかしそれはさほど問題ではない。幼馴染の困った性格には散々付き合ってきたのだから慣れてしまった。
 それよりも問題なのは。
(また剣を置いたってことだ…!)
 八代目伊庭秀業の長男として生まれたが、十四歳の時に実父が亡くなったため養子として秀俊が相続した。つまり伊庭にとっては義理の父ということになる。穏やかで人当たりの良い秀俊は長男である伊庭に遠慮があったのか強く物事を口にすることができず、そのため伊庭が剣術に関わらず本ばかり読んでいたことを責めなかった。
 そんな伊庭が剣を持ったのは思春期の頃。周囲がいつまで経っても稽古をしようとしないとヤキモキしていた時に、突然剣道を歩むことを決めた。
 本人は茶化して
 『宮本武蔵の書いた絵を見て良いなって思ったんだ』
 と言っていたが、本当のことは定かではない。
 それからは『伊庭の小天狗』と渾名されるほど評判の使い手になった。卒がなく眉目秀麗に佇む姿などは同性でも目を奪われるものがあり、若い女子にもキャアキャアと騒がれている。そんな毎日に彼は不満を持っている様子ではなかった。
 だからこのまま父上の跡を継いで行くのだろう…幼馴染として安堵していたと言うのに。
 『ある日、もうやめるとか何とか言って稽古に来なくなってしまった。何がきっかけか知らないか?』
 秀俊の話には正直驚いてしまった。何度か伊庭に会っていたが、そんな素振りを見せずいつも通りに女遊びやら美味い料理やら饒舌に語り忙しそうにしていたからだ。
「あいつ…!」
 なんだか騙されていたような、嘘をつかれていたような気分になり、本山はだんだんと苛立ってきた。
 一先ず、伊庭行きつけの料亭に向かうことにした。料理人と親しくしていて昼間から入り浸っていることが多いからだ。

 その店『鳥八十』に辿り着いた時、暖簾を潜る前から伊庭の声が聞こえた。楽しそうに談笑している相手は料理人の鎌吉だけではないようだ。
(…あの人か…)
 本山は戦意が削がれたような気持ちになった。幼馴染と一対一なら言えることも、第三者を挟むと言葉を選ばざるを得ない。だがここで引き返すわけにもいかず、仕方なく中に入った。
「らっしゃい。本山の旦那!」
 鎌吉が威勢良く声をかけてきた。ねじり鉢巻きをして包丁を手にした小柄な体格のどこにそんな大音声を出せるのかといつも驚いてしまう。
「ああ、小太。来たな」
 座敷で伊庭はまるで待ち構えていたような言い草で笑っていた。そしてその向かいに座っていたのは
「なんだ、約束でもあったのか?」
 試衛館食客の土方歳三。役者のように整った顔立ちが印象的な年上の兄貴分のような存在だ。
 幕臣の伊庭と無名道場の土方とでは縁がなさそうに見えるが、吉原で知り合いあっという間に意気投合してしまったらしい。
 本山はこの土方という男が少し苦手だった。
「まあ、座れよ」
 伊庭が手招きしたので、本山は言われるがままに彼の隣に座った。
 そしてニヤニヤと笑って本山の顔を覗き込む。
「で、父上はなんて言ってた?」
「お前…やっぱり謀ったな!そもそも待ち合わせの約束はお前の所の道場だっただろう!」
「そうだったかなあ」
「…ッ」
 トボける伊庭に本山の怒りは募る。けれど土方の前だということでどうにか堪えて飲み込んだところちょうど鎌吉が酒を持って来たので一気に煽る。「ハーッ」と飲み干すと少しだけ気が晴れた。
「それで、父上はなんて?」
「…気になるなら自分で聞いてこい。なんで俺が親子の仲介をしなきゃならないんだ」
「父上は小太のことを気に入っているから仕方ないな」
「仕方なくない」
「それで?」
「…」
 伊庭は肩肘をついたまま本山をまじまじと見ていたが、答えを濁らせた。
(くそ…わざとだな)
 家内の事情を他人である土方の前でベラベラと話すほど、本山はお喋りではない。その真面目な気性を知っているからこそ、こうしてけしかけてからかっているのだろう。
 すると見兼ねた土方が
「あんまり虐めてやるなよ」
 と間に入った。そして席を立つと「厠に行ってくる」と背中を向けた。すると入れ替わるように鎌吉がつまみを持って来てくれた。
「…父上は心配されていたぞ」
 そのつまみに手を伸ばしながら、本山は話し始めた。
「やっと稽古に取り組み始めて、跡継ぎとしての自覚が芽生えて来たのかと思って安堵したところだったのに、急に『辞める』だなんて…」
「んー…吃驚するよなあ」
「他人事のように言うなよ」
 本山はため息をついたが、伊庭は未だに真剣に捉えていない様子だった。
「うちは幸いにも実力主義だ。父上だってそもそも血の繋がっていないのだから、どうしても俺が継ながなきゃならないってわけじゃない。それに幼い頃は俺なんか眼中にもなかったのだから、別にいいだろう」
「しかし…父上はお前の実父の気持ちを汲んで、お前を跡継ぎにしたいと思っているんじゃないのか?」
 実父である秀業は伊庭が十四歳の時にコレラで亡くなっている。伊庭にとっては記憶にない存在であっても、その長男ということで義父である秀俊は気を使っているはずだ。
 もちろん、そんなことは伊庭もわかっている。
「…別に、それは俺じゃなくちゃダメだという理由じゃないだろう」
 伊庭は本山の話をつまらなそうに聞いていた。手持ち無沙汰なのか焼き鳥の串をクルクルと回し、子供のように遊び出す。
 これ以上聞くな…そういう雰囲気を本山は感じた。土方ならここで引くだろう。けれど本山はそういうわけにはいかなかった。
「何かあったのか?」
「…」
 指でしならせた竹串がポキっと折れた。そしてそれをきっかけにするように伊庭の表情が変わり、
「お前には関係ない」
 と言い捨てた。
 こうなると何も話してくれないということを本山はよく知っていた。一見饒舌な優男に見えるが、こうと決めたことには猪突猛進で譲らないところがあるのだ。
(ああ、もう…)
 再び彼のわがままに振り回されることになるのだろうと内心思いながら、二杯目の酒に口をつける。不思議と味がしない。
 そうしていると厠へ行くと言っていた土方が戻ってきた。すると今度は伊庭が「じゃあ俺も」と言って席を立つ。
 必然的に本山と土方が向かい合って座ることになってしまった。
「…」
 たどたどしい沈黙が二人の間に流れた。本山は伊庭の友人としての土方しか関わりがなく、サシで向かい合ったことなど一度もない。いつも二人の間を取り持つように伊庭の存在があった。
(また仕組まれた…)
「あいつ…なにかしでかしました?」
「え…っ?」
 まさか土方の方から口を開くとは思わず本山は素直に驚いた。
「あぁ…いや、そういうわけでは…。あと、敬語はいいですから…」
 伊庭と同じ幕臣ということで気を使っているのだろう。けれど伊庭には対等に会話して、自分には敬語を使われるのは何だか変な気分だった。
 土方は薄く笑って「わかった」と頷いた。整った顔立ちに微笑まれると同性であるのに目を離せなくなる。二人は吉原では有名な色男として名を馳せているらしいが、それも理解できる気がした。
 伊庭は試衛館に出入りし、そこの食客とも親しくしている。本山の知らない交友関係があるのは、幼馴染として少し寂しい気もするが、幕臣という肩書きがない場所で羽を伸ばしているのは、悪くないことだと思っていた。
「あの…八郎に変わった様子はありませんか?」
「変わった様子?」
「…稽古に身が入っていない…とか」
 具体的に話すのが憚られて、本山は曖昧に濁す。すると土方は腕を組んで少し考え込むようにした。
「試衛館では稽古という稽古はしない。ただうちの食客とベラベラと話をしているくらいで…」
「そ、そうですか。すみません、忘れてください、いま聞いたことは…」
 本山は軽く頭を下げた。
 心形刀流の後継が、今更剣を投げ出したなんて噂が広まれば騒ぎになるに違いない。伊庭もそれがわかっているからこそ、距離の近い土方にさえ公言していないのだろう。
 すると土方は察してくれたのか、考えるのをやめて串焼きに手を伸ばした。
「大変だな。あんな面倒な奴の幼馴染をやるのは…」
「はあ…まあ…」
 たしかに大変だと思う。約束をすっぽかされるのはしょっちゅうだし、いまだってこうして手のひらで転がされるように遊ばれている。いつも指をさして笑われているような心地だ。
 けれど、いまだに幼馴染を続けている。
「…大変ですけど、嫌ではありませんから…」
 長年共に過ごし、つうと言えばかあのような仲だ。だからこの関係を続けていきたいという気持ちがある限り、どんなことがあっても、この縁は切れないのだろう。願わくば、伊庭も同じように思ってくれていれば有難いのだが、その心中を図るのは難しい。
 土方は頷いた。
「そうだな…それは分かる気がする」
 その表情を見て彼にもきっと同じような存在がいるのだろうと、本山はそう思った。



 





 
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