身を知る雨






文久二年、江戸試衛館。連日秋の薄暗い空が覆う。
「お願いします!!」
両手をぱちんと合わせて頭を下げ、土下座せんばかりに仰々しく頼み込む藤堂の姿に総司は唖然とするしかなかった。
「そ、そう言われても…こういうのは藤堂くん自身の方が良いんじゃないんですか?あとでバレたらややこしいことになったり…」
「もし何かあったら俺が責任を取ります!頼れる人がいないんですよ!」
「でも私よりも達筆な人…例えば山南さんとかにお願いした方がいいんじゃないですか?」
「こんな頼みごと、山南さんにできませんよ!どうか!お願いします!」
まるで拝むように何度も頭を下げられてしまい、藤堂に根負けした総司は
「仕方ないなあ…」
と了承することにした。藤堂の顔がぱっと綻び
「ありがとうございます!」
と喜んだ。試衛館食客の中で一番年下の彼は甘え上手の年下の弟として総司とは違う意味でみんなに可愛がられている。そのため総司もついつい気の乗らない頼みごとを引き受けてしまった。
「じゃあ気の変わらないうちに!」
藤堂はそそくさと用意してあった筆や紙が用意してある文机ごと総司の前に置いた。最初から断られるということすら想像していない用意周到さは彼らしい。
「…なんですか、この匂い…」
総司は置いてあった上等な紙の匂いを嗅いだ。
「お香ですよ。最近、吉原で流行っているんです!」
「ふうん…」
「良い匂いでしょう?」
藤堂はなぜか胸を張ってそう言ったけれど、疎い総司にはそれが良いのか悪いのかはよくわからない。それに吉原と言われてもほとんど足を踏み入れたことすらない総司はぼんやりとしたイメージしか湧かないのだ。そんなことを口にすると土方や伊庭辺りにからかわれるのだろうけれど。
「それで、何を書けばいいんですか?」
「はい!見本はこちらです!」
藤堂は下書きを広げた。
彼の頼みごと。
それは自分の代わりに文を書いて欲しいということだった。しかも宛先は藤堂が一目惚れをしたという女性宛…つまりは内容は恋文だ。
もちろん、藤堂が文字を書けないというわけではない。彼は嘘か本当か自分が藤堂家のご落胤だと口にしていたし、北辰一刀流を収め、礼儀正しさや教養もある。総司からすれば藤堂自身の気持ちであるし流れるように美しい文字を書く彼のままで良いのではないかと思うのだが、
「男らしい字がいいんです!」
と力説されてしまった。確かに総司の手跡は姉に鍛えられたおかげか力強く角ばっていて、よく『顔と合っていない』と揶揄されてしまう。
他にも頼れる人がいるのではないかと思うが、近藤や土方には相談することはできず、原田は乱筆であるし、永倉には頑なに断られてしまったらしい。総司も最初は断ったのだが、彼が必死に頼むものだから折れてしまった。
「えぇ…と『一筆啓上仕り候、誠に誠にあなた様』…」
「恥ずかしいから、音読しないでください!」
頼みごとを聞いたのだからこれくらいの意地悪は許されるかと思いきや、藤堂の顔は真っ赤になりつつも真剣なそれに変わっていた。よほどその女性のことを思っているのだろう。
『一筆啓上』…藤堂の見本を見ながら書き始めると、傍でじっと見つめる藤堂の視線が手先に緊張を与えた。自分の恋文なのだから真剣になるのは当然だが、書いている側は落ち着かない。総司は「ふう」と一息ついて筆を置いた。
「…書き終わったら声をかけますから、別の部屋で待っていてください」
「わかりました!」
藤堂は軽い足取りで部屋を去っていく。総司は気を取り直して筆を手にした。
内容は実直な藤堂らしいものだった。相手の女性とはまだ一言も会話をしたことがなく、遠くから眺めているだけだということ。けれど庭先で三味線を弾く姿に一目惚れをして、もっと近くでその音を聞きたいと思い始めたということ…。
代筆をしているだけなのに、藤堂の気持ちが流れ込んでくるようで書いてるこちらも恥ずかしくなる。
(恋…かぁ…)
藤堂がこの恋文に認めた湧き上がるような熱情的な想い。それは理解できないわけではなかったが、総司には全く心当たりのないものだった。幼い頃に試衛館にやってきてからは剣ばかりに熱中する日々であったし、女性と話をするという機会もほとんどない。言葉を交わすのは大先生である周斎の妻であるふでと近藤の妻でであるつねくらいだ。
(歳三さんはそれをつまらないというのかなあ…)
兄弟子である土方は稽古の合間はほとんど吉原に行っているんじゃないかと思うくらいの遊び人だ。幼馴染の近藤に言わせればそれは昔からだそうで奉公先でも散々問題を起こしていたらしい。関係を持った女性は指の数では足りないだろう。試衛館に出入りしている伊庭と合わせて二人は吉原では有名な美男として名を馳せている。
「…うーん…」
総司の心は剣術を鍛えることで満たされている。藤堂のように恋い焦がれることもなく、土方のように恋に耽ることもない。かといって近藤のように嫁を迎えようという気持ちもない。
「冷めてるのかな…」
そう呟いた言葉が誰もいない部屋に寂しく響いた。
総司は「ふう」と一息ついて墨をすり筆を持ち直した。
代筆とはいえ藤堂の恋文だ。彼の真剣な気持ちを蔑ろにしないように取り組まなければならない。
総司は筆先に集中した。


一方。
土方は実家である多摩・石田村を訪れていた。実家は近所では『お大尽』と呼ばれるほどの豪農だが、幼い頃に両親を亡くした土方は自分たちが楽に暮らしているという実感はなく兄弟たちが忙しなく働いている印象しかない。しかもろくに家を手伝うこともなく剣術や女遊びなど好きなことばかりを選んでいる末っ子としては、敷居の高い場所だった。その為、普段は姉の嫁ぎ先である佐藤家に出入りすることの多い土方だが、今日は長兄である為次郎に呼ばれていたのだ。
家督を継いだ次男の喜六に挨拶をして離れに向かう。小雨が降っていたが、為次郎は離れの縁側に腰掛けていた。
「歳三か」
為次郎はゆっくりと土方を見た。見た、と言っても見えているわけではない。長兄は失明しているのだ。足音を聞いて末の弟がやってきたとわかったのだろう。
「ああ、そうだよ」
「よく来たな。座れ」
「雨が降っている。中に入ろう」
「いや、ここでいい。この雨は長くは続かないよ」
雨の音か、匂いか…目の見えない為次郎が感じ取っているものは土方にはわからないが、よく当たるのだ。
土方は為次郎の隣に腰掛けた。
「元気にやっているのか?」
長兄と末弟。年の差はふた回り以上あるため、土方にとって為次郎は兄というよりも父のような存在だ。実際の父は土方が生まれる前に亡くなったためその感覚が強いのだろう。
家に寄り付かない土方だが、為次郎のことは好きだった。盲目だという理由で閉鎖的な目で見られがちだが、本人はそれを個性と割り切っているようで趣味である三味線や句作はとても秀でていた。
「ああ…ぼちぼちだな」
「勝太は?」
「いまは勇だよ。あいつは道場を継いで嫁をもらって…意気揚々としている」
「そうか、意気揚々か。それはいいことだな!」
為次郎は豪快に笑った。
「多摩では名の知られたバラガキが、今は江戸の道場主。この分じゃあ、あっという間に武士になっちまうかもなぁ」
「…そう簡単にはいかねえよ」
数ヶ月前、内定済みだった講武所勤めが取り消しになるという騒ぎがあった。一時は近藤の剣の腕を認められたが、もともとは農民の出であるということが知られお流れになったのだ。近藤の寂しそうな顔は土方の脳裏に焼き付いている。
「それより、今日は何の用があるんだ?」
勘のいい為次郎にそれ以上詮索されたくなくて土方は話題を変えた。
「ああ、そうだった。…お前さん、許嫁のことを忘れてるんじゃねえかと思ってな」
「…許嫁、ねえ…」
為次郎の問いかけに、土方は深いため息をついた。半ばその話ではないかと勘ぐっていたのだ。
数年前、小野路村の名主であり天然理心流の門人である小島鹿之助から土方に縁談話が持ち上がった。急な話であり土方にその気がなかったため、総司…その頃は宗次郎だったが、彼を連れて言って『こいつと衆道の仲だ』と強引に断ったということがあった。その時はそれで切り抜けられたのだが、その後、滅多に怒らない為次郎にこっ酷く叱られた。縁談相手であったお琴は為三郎の三味線仲間の娘だったのだ。
『いまは自分のやりたいようにすれば良い。だがお前がどこで生まれ、誰に育てられたのか考えろ。自分がこの土方家の人間であるということを忘れてはならん』
土方を叱るのはもっぱら次男での喜六の仕事だったのに、自由に生きればいいと言っていた長兄が初めて土方を叱った…その驚きで、土方は『ひとまずは許嫁にする』という長兄の命令を断れないままだったのだ。
「お琴だったよな。もういい年齢だろう」
「お前がもう三十に近いのだから、お琴さんも歳をとる」
あの時は断ることを念頭にしか彼女の顔を見ていなかったが、土方好みの見目の整った良い女だったように思う。自分にその気がないのに、引く手数多だろう彼女が許嫁という立場のせいで囚われたままなのは不憫な気がした。
「もう許嫁なんてやめちまった方がいいんじゃねえのか」
土方はため息まじりにそう言ったのだが、為次郎は「逆だ」と腕を組み直した。
「いい加減、嫁にもらってやれという話だ。勇が嫁をもらったのだからお前もそういう年だとわかっているだろう?」
「…」
それは兄の喜六や姉ののぶにも散々言われてきたセリフだった。二十五もすぎて遊び呆けている末弟の身を固めさせようと、説法のように何度も言い聞かされてきた。しかし自分は継ぐものなど何もない末弟であるのだから、嫁をもらわなかったところで何の不便もない…土方はいつもそう主張してきた。
何も答えない土方に痺れを切らしたのか、為次郎は「もしかして」と伺うように声を潜めた。
「お前、本当に衆道趣味があるのか?」
「…なんでだよ」
「数年前にそう言って縁談を断ったのはお前じゃないか。えっと…宗次郎君だったか」
「いまは総司だ」
「おのぶから聞いている。若くして塾頭となっているらしいじゃないか。しかも見目麗しい青年だと聞く」
「見目麗しいねえ…」
土方は総司の容姿についてそう言った感想を持ったことはない。整った中性的な雰囲気だとは思うが、幼い頃からそういう顔立ちゆえに見慣れてしまっている。
彼が自分にとってどういう存在なのか…家族でもあり、口煩い弟でもあり…けれどどこか特別なものに感じていた。傍にいるのが当たり前で、ずっとそれが続いていくような。けれど。
「衆道関係じゃねえよ」
それを形容する言葉は『衆道』ではない。土方はそう思っていた。
為次郎は「そうか」と少し安堵したような表情を見せた。
「じゃあ、断る理由はねぇってことだな。義理立てするような女もいないのだろう?」
「…さあな」
「いないな」
為次郎は何も見えていないので、声色だけで判断する。それが案外的を射ていて長兄の前では嘘をつくことはできない。
「ひとまずもう一度会ってみろ。お前の気にいるようないい女になっているかもしれないだろう」
「はあ…」
為次郎の提案を拒む理由が見つからず、土方は雨の降る空を見上げた。薄黒い雲が覆い隠す鬱陶しい空だった。