身を知る雨






小雨は夜になっても降り続けていた。
しとしとと屋根から滴る雨とともに生まれたばかりの赤子の泣き喚く声とそれをあやす近藤の声が聞こえてくる。近藤とつねとの間に生まれたたまはよく泣く赤子だった。近藤はたまを溺愛しているものの、顔をあわせるたびに泣くのだと嘆いていた。本人曰く険しい顔立ちのせいらしい。
「あれ?歳三さんはどうしたんですか?」
藤堂からの手紙を書き終えた総司は試衛館の狭い部屋を見渡した。剣の手入れをしている永倉、春画本を読み漁る原田、正反対に難しい本を読み込む山南の姿しかいない。藤堂は早速手紙を渡すために出て行ったので食客でいないのは土方だけだ。
「日野の方へ行ったらしい」
永倉の返答に「彦五郎さんのところですか」と受け取る。土方は義兄の佐藤彦五郎には心を許しているようで出稽古以外にも足を運ぶことがあるのはよく知っていた。
すると原田が春画本から目を逸らさずに
「いんや、実家だってよ」
と否定したので総司は驚いた。
「実家?石田村の方ですか、珍しい」
土方は義兄のもとには気軽に通うものの、実家にはあまり近寄ろうとしない。奉公に出ても大成せずに逃げ出し、田舎道場に身を寄せる末っ子としては居心地が悪いらしい。ただ忌み嫌っているわけではなく、一時は家業を手伝うために戻っていた時期もあったので縁が薄いわけではないようだ。
本を熟読していた山南が手元から総司へと視線を移す。
「なんでも兄上に呼び出されたとか」
「兄上…喜六さんかな」
「長兄の方だよ。為次郎さん…だったかな」
「へぇ…」
次男である喜六とは顔を合わせたことがある総司だが、長兄の方は一度もない。盲目だが面白い人物で土方が頭が上がらない存在であるということは近藤から聞いたことがあった。
「ますます珍しいですね。何の用だろう…」
「さあねぇ…呼び出された本人はあまり良い顔をしてしなかったけれど」
「なにか後ろめたいことがあるんですよ、きっと」
山南は「言うね」と苦笑した。
そんなことを話していると遠くで聞こえていたはずのたまの泣き声が、だんだんと大きく近づいてきた。
「いたいた、総司」
食客部屋に顔を出したのはたまを抱えた近藤だ。腕の中で泣き喚くたまは目を腫らし、声を枯らしながらも泣いていた。
「頼む、代わってくれ」
近藤は困ったように助けを求める。総司は近藤の腕からたまを受け取ると、しばらくは泣いていたがジッと総司の顔を見てぴたりと泣き止んだ。そのまま目を閉じて穏やかな寝息を立て始めた娘の姿に、父である近藤は苦笑するしかない。
「不思議なものだなぁ。総司がそうするといつもすぐに泣き止む。いくらあやしても泣き止まなかったのに」
「総司は女顔だからな。近藤先生は顔が怖ェんだよ」
原田の遠慮ない指摘に近藤は「やはりそうか」と頭を掻く。永倉は手入れをしていた刀を仕舞い総司の隣にやってきた。腕の中で眠るたまをマジマジと見る。
「泣いている顔は近藤先生に似ているが、こうして目を閉じているとつね殿に似ているな」
「確かに、そのようですね」
山南までも同意したので、総司もたまの顔を見る。泣き喚くと般若のように歪む顔が、小さな寝息を立てると女の子らしく優しいものになる。
「私は近藤先生に似ていると思いますけど。娘は男親に似ると言いますし」
「俺に似るよりつねに似る方がたまのためだろう。俺のような厳つい顔になっては嫁の貰い手に困る」
「それはそうだ!」
大きな声を上げて笑う原田のせいでたまの顔が歪む。総司はとっさに立ち上がり体を揺らして眠りを促す。たまは再び安らかな寝顔を取り戻したので、総司もつられて微笑んだ。
「嫁…だなんてまだ何年も先ですけど…近藤先生もそんなことを考えているのですね」
「ん?ああ…俺もたまが産まれるまではこの先のことなんて考えなかった。その日を楽しく過ごせばいい…そう思っていたが、やはり子ができると違う。この子のために頑張ろうと思えるんだ」
近藤は大きな手でたまの小さな頭を撫でた。愛しくて仕方ないと言う近藤の表情は長年共に暮らしてきた総司にさえ知らなかった、穏やかで慈愛に満ちたものだ。
近藤の目には何が見えているのだろう。この先の未来にどんな希望を持っているのだろう。
(この先…)
総司にはよくわからなかった。


翌日は朝から久々の晴れ日となり、水たまりも鏡のように青空を映しだしていた。
土方は朝早くに目を覚ました。試衛館にいたならまだ寝ている時間だが、次男であり当主の喜六に叩き起こされたのだ。
久々に家族を囲んでの朝食となったが、喜六の小言は朝から冴えていて、生活態度一つ一つから注意を受けた。両親が早く亡くなったため若くして家を背負うことになった喜六はその責任感からかすっかり煩くなってしまった。土方は右から左へと聞き流していたが、終いには長兄の為次郎が
「傍で聞いてる俺でさえもう小言は飽きちまったよ」
と喜六を宥めて話を切り上げた。
土方は内心深くため息をつきながら朝食を摂り終えると、そのまま家を出ることにした。このまま居座っては小言で耳がタコになりそうだ。
家を出る前に離れの為次郎を訪ねると、三味線片手に縁側に佇んでいた。
「歳三、行くのか?」
「ああ。言われた通りお琴んとこに寄っていく」
喜六からの小言には素直になれない土方だが、為次郎の言うことは何故か逆らえず、気は進まないもののお琴の元に足を運ぶことにした。
為次郎は「うんうん」と満足げに頷いた。
「お前が知ってるお琴さんよりも随分と美しくなっている。その気がないお前もコロッとやられちまうかもな」
「お琴の顔なんて知らねえくせに」
「見たことにないが心根の優しい娘だ。つまりは美人に決まっているだろう」
為次郎はふっと笑って三味線をつま弾いた。お琴と為次郎は三味線仲間だということなので、土方よりも兄はお琴のことを知っているのだろう。
「…なあ、為次郎兄さん」
「ん?」
「毎日、楽しいか?」
長居をするつもりなかったのに、土方は隣に腰を下ろして続けた。
「うむ…それは目が見えないからか?」
「そういう意味じゃねえけど…まあ、俺よりも出来ることは少ないだろう。諦めてきたこともある…」
「まあ、そうだなぁ」
為次郎の手元の三味線がポロンと心地の良い音を立てた。その音に導かれるように土方は続けた。
「俺は…不自由ない暮らしをしていると思っている。家は貧乏じゃねえし、試衛館は居心地がいい。悪くない人生だと思うが…でも『こんなものか』と諦める事はまだできない」
「お前の人生はこれから長いからなぁ」
「だが嫁を貰ったらその先には…行き止まりしかない気がするんだ」
お琴は一人娘だということなので、末っ子の土方は婿養子に入ることになるだろう。それはこれまでの人生を忘れて新しい生き方をするということだ。近藤が試衛館の道場主として、嫁を迎えて子を持ち家を守るのとは違う。
「剣術だってまだ道半ばなのに、こんなもんで…手を打ってお琴と縁組。それが俺の望む先なのかわからねぇ」
「じゃあ、試衛館にいればその先が見えるのか?」
ポロン、と三味線の音が二人の間に流れる。為次郎の指摘に土方は思わず言葉に詰まった。
「…それは…」
「道場主は勝太、塾頭は沖田くん。お前は何者でもない。そんな状態のままズルズルと暮らした先にどんな未来がある?」
「…」
手厳しい問いかけに、答えられなかった。
近藤や総司にはその肩書を背負い、試衛館を守るという使命がある。他の食客たちはいまは居候の身だがもともとは武家の出だ。この先の道はいくらでも開けるだろう。土方とは立場が違う。
(違う…)
為次郎は続けた。
「さっきのお前の質問に答えるならば、俺は毎日楽しい。出来ないこともあるが不自由というわけでもなく、家は喜六に任せて好き放題やらせて貰ってるからな。心は満たされている。その証拠に句作や三味線はお前よりも上手に出来る」
冗談っぽくハハッと笑う為次郎の手元から再び三味線の音が響いた。耳なじみの良い軽やかな音のおかげで深刻な雰囲気にならずに済んでいる。
そんな為次郎を見ていると彼が盲目でなければどんなに立派な人物になったのだろうかと土方は考えることがある。頭の回転が早く人柄も優れて、器用に何でもこなす。きっと立身出世を果たし土方には手の届かない存在になったことだろう。
為次郎は微笑んだ。
「生まれつき目の見えない俺には見えていないものが沢山あるが…見えていないからこそ見えるものもある」
「…なんだよ、それ禅問答か?」
「お前の心さ。久しく立ち止まっているようだな」
「…」
立ち止まっている。
(その言葉が一番近くて…だから一番もどかしい)
「…もう行くよ」
土方は重たい腰を持ち上げた。
「ああ。俺からもよろしく伝えておいてくれ」
「わかった。じゃあ」
土方は水たまりを避けながら離れを去った。為次郎の爪弾く三味線がいつまでも聞こえていた。


土方はお琴に会うために為次郎から聞いていた住所に向かっていた。そこは琴の実家ではなく別宅のようなもので数人の女中とともに暮らしているそうだ。
(周りから行き遅れと噂されているだろう…)
許嫁のまま数年が過ぎていて、すでに花の時期は終えている…そんな歳まで待たせたことに罪悪感はあったが、彼女の方も事態を動かそうとはしなかったのだからおあいこだろう。
言い訳じみたことを考えながら生垣が続く道を歩くと、また三味線の音が聞こえていた。為次郎のそれとは違う優雅でサラサラと流れる川のように涼やかだ。
琴だろう、と直感した土方は生垣の合間からその姿を見ようと覗き込んだ。ちょうど縁側で腰を下ろす女性がいた。
「…あ…」
薄っすらと記憶の奥底にある数年前の琴の姿が重なった。すっかりと大人びていたがその面差しが残っていて、一言で美人だと思った。吉原なら評判の花魁として男たちが群がったはずだ。
そんな琴に土方はしばらく釘付けになっていた。