身を知る雨





晴れていたはずの空は、太陽が傾き始める頃にはまた厚い雲に覆われて、そのうち雨が降るだろうというどんよりとした天気となった。
「ご無沙汰しております。お元気にされていらっしゃいましたか?」
穏やかな笑みで問いかける琴に土方は「ああ」と戸惑いながら返答した。
見合いの日から数年、なんの音沙汰もなかった土方が突然訪ねてきたというのに、彼女は温かく迎え入れた。
遠目にも美人だとは思ったが目の前にするとさらに際立っていて、今まで引く手数多であるはずだ。事情を知らない者からすれば何故嫁ぐことなく独り身で過ごしているのかと疑問に思うことだろう。
「為次郎様にはこちらに足を運んだ際にはいつも良くしていただいております。美味しいお菓子やお茶をご馳走になって…」
「兄が宜しくと」
「ありがとうございます」
琴は恭しく頭を下げた。すると女中が顔を出し二人に煎茶を差し出した。
大店の娘である彼女はこの家を別宅のように扱っていて、時折女中とともにこちらにやってきては三味線や花、茶を嗜むという。為次郎も盲目でありながら同じような趣味を持つため親しくなったようだ。
穏やかなお嬢様という様子だが、先ほどの力強い三味線の音色を聞く限りでは凛としたところもあるらしい。
「それで、本日はどのようなご用件で?」
「…どのようなって…」
土方は少し呆然とした。数年ぶりに再会した許婚が茶飲話をしに来たというわけではないことくらい、彼女にだってわかっているはずだ。しかし彼女は安穏としていて、土方は拍子抜けしてしまう。
「私と…あなたの縁組の件ですが」
「はい。でもそのことならとっくに答えが出ております」
「は?」
驚く土方とは正反対に、琴はゆったりと微笑んだ。
「あのお見合いからもう…何年経つでしょうか。あの時はあまりのことに驚いてしまいましたが…あれは見合いを断る逃げ口上で、歳三様は男色家ということではないのでしょう?吉原でも沢山の馴染みの方がいらっしゃるのだと伺いました」
「…」
為次郎の入れ知恵なのか、土方の悪名が彼女の耳に入っているのか…あの時の見合いが、ただ『嫁を貰いたくない』という土方のわがままだったのだということを彼女はよく知っているらしい。
「…だったらあなたにどのような答えがあると?」
そんな男など真っ平御免だと言われてしまいそうなものだが、琴は土方を受け入れ、未だに独り身を貫いている。彼女の意図が読めずに土方は先へと促した。
「ただ、待ちます」
「…待つ?」
「人はいずれ一人で生きて行くことに寂しさや苦しさを覚えるもの。ですから、歳三様が嫁を得るというお気持ちになるまで私は待つつもりです」
それはなんの迷いのない言葉だった。あの見合いの日からずっと彼女はその決心を秘めて待ち続けていた…しかし土方にはそれを俄かには受け入れ、信じることはできなかった。
「…あなたとお会いしたのはあの時のただ一度きりだったはず。なのになぜそこまで思いつめるのです」
琴は楚々とした美人であるが、とっくに女としての華々しい歳を過ぎている。行き遅れと笑われても仕方ないのに、根拠のない口約束を信じいつまでも待っている。そこには深い思いが必要なはずだが、彼女とはそれほどの仲とは言えないはずだ。
しかし琴は「いいえ」と笑った。
「確かにお会いしたのはあの一度きりでしたが…ずっと為次郎様から歳三様のお話を伺っておりました」
「兄が?」
「幼い頃からやんちゃで手のかかる弟で…とても剣の好きな子だったと。けれども家のことを思い家業を手伝ってくれる、乱暴そうに見えるけれど心根の優しい弟だと…たくさん話してくださいました」
「…」
琴はまるで慈しむようの語るが、土方は頭を抱えた。兄は一体何を話したというのだろう。恥ずかしさとともにいたたまれなさを感じる。
「お会いする前から為次郎様から色々と伺っておりましたから、見合いの席でお会いした時にはまるで物語に出てくる勇ましい若武者にお会いするような心持ちでした」
「…言い過ぎだ」
「そんなことはありません。想像通りの方でした」
なんの悪びれもなく純粋で無垢な瞳に見つめられ、土方は悟った。
(面倒だ…)
乙女という年齢ではないだろうが、彼女は恋に恋する深窓の令嬢だ。為次郎が語る夢物語に思いを馳せ、その主人公である土方に思いを寄せてしまっただけのこと。
いるはずもない、幻想に。
「…兄の話は大げさなものが多い。それなのに私がどのような人間か、あなたにわかるとでも?」
「歳三様がお優しい方だというのは分かっています」
(優しい…?)
その言葉に土方は苦々しいものを感じた。
人は決して優しいだけではできていない。
優しさの裏には優柔不断という言葉が付き纏い、ある人には優しさと感じられることが別の人には裏切りだと蔑まれることがある。
(そんなことが、このお嬢様にはわからないのだろう…)
卵から孵った雛が目の前にいる人間を親だと勘違いするように、彼女は土方歳三という人間を勘違いしている。
それが、土方には腹立たしい。
「…歳三様?」
突然、大粒の雨が降り始めた。小さな庭に弾丸のように打ち込まれる雨はとても煩い。
「嵐でしょうか…もう秋なのに」
琴は不安そうに顔を歪めながら、障子を閉めた。
そして土方は琴の手首を掴んだ。
「え…っ?」
戸惑う彼女を引っ張って組み敷いて、土方は見下ろした。
ゴロゴロと雷が鳴っている。
土方は帯紐を解く。流石に深窓の令嬢でもこれから何が起こるのか分かっているはずだが、琴は抵抗はしなかった。ただ恥ずかしそうに?を赤らめてされるがままに身を任せた。ずっとこの時を待っていたかのように。
帯を抜き、身を包む薄手の着物を取り払う。
「歳三様…」
白く、柔らかい肌。まるで誰の足跡もない一面の真っ白な雪に触れるようだ。
(何も知らない…)
何も知らないなら、思い知らせてやろう。
琴が物語の主人公のような幻想を抱くほど、『優しい』人間ではないということを。
そして幻滅して、終わりにさせてやるーーー土方はそんなことを考えていた。


枯れ木が寂しい試衛館の庭にも大粒の雨が降り続けていた。
「嵐になっちゃいましたねぇ」
縁側からその様子を見上げていた伊庭八郎は困ったように眉をひそめた。
心形刀流伊庭道場の御曹司である彼は、本来ならば縁もゆかりもないこの貧乏道場に足を踏み入れる理由すらない旗本武家の立場だが、吉原で土方と出会い意気投合したことがきっかけでまるで我が家のように試衛館に顔を出すようになった。
今日も酒と肴を手に遊びにやってきたのだが、家に戻ろうかといっているうちに嵐になってしまったのだ。
「こりゃ家まで帰れないな」
「泊まっていったらいいじゃないですか?今日は歳三さんも戻らないようですし」
総司が誘うと「そうしようかな」と伊庭は障子を閉めた。
「土方さんは何処へ行かれているんですか?」
「日野へ。兄上に呼び出されたそうですよ」
「へぇ、何か悪いことでもしたのかな。心当たりがありすぎてどの件かわからないけれど」
土方の気性をよく知っている伊庭は笑い飛ばした。総司にはわからない世界だが、彼らは吉原では相当名を馳せている遊び人らしい。
総司は急須を手に温かい茶を差し出した。すると遠くから赤子の泣き声が聞こえてくる。たまが泣いているのだろう。
「嵐が怖いのかな。赤子がいると心が和みますね」
伊庭は茶をすすりながら微笑んだ。総司も頷いた。
「よく泣く赤子なので、おつねさんは大変そうですけど、そうは言いながらも二人とも幸せそうですからね」
「沖田さんも望めばいつでも嫁をもらってもいい年頃でしょう?」
「伊庭くんだってそう変わらないじゃないですか」
「俺は当分、そういうつもりはないですね」
意外にも伊庭はあっさりとそう言った。
「…良いんですか?家のこととかもあるでしょう」
「まあ、それはそれですけど。家族とか嫁とか…そういうので身動きが取れないのは嫌なんですよね」
「はあ…」
それは気軽に女遊びができなくなることへの危惧なのか…と総司が訝しんでいると、伊庭が
「違いますよ、そんな呆れた顔をしないでください。女のことじゃありませんから」
と笑った。同じ遊び人とは言っても頭の良さが土方とは違うところではある。
「ただ…身軽でいたいんですよね。何があっても自分の意思が貫けるように。家族がいることが悪いことではなくて、自分の決意を鈍らせてしまいそうで嫌なんです」
「…」
わかる、と口にすることはできなかったが、それでもその意味を感じ取ることはできた。守るべきものがいることは強さに繋がるが、足枷にもなる。
「沖田さんはどうなんですか?」
「私は…」
答えようとしたその時、
「ああ、ここに居た」
と、原田と永倉そして藤堂が顔を出した。彼らは酒や肴になりそうなツマミを運んできて、今から宴会を催そうとしているらしい。
「平助の慰労会だそうだ」
「慰労会?」
「振られちまったから、慰めてやろうってな」
「まだ振られてませんよ!」
三人は総司と伊庭とともに輪になるように座り、早速酒を注ぎ始めた。
「手紙は渡せなかったんですか?」
総司が藤堂の代わりに認めた恋文なので他人事とは思えず、その結果は気になっていた。
すると藤堂は複雑そうに顔を歪めた。
「…渡すことは渡したんですけど。でも本人じゃなくて、女中に手渡して…」
「そうしたらさ、その女中からとんでもないことを言われたんだよな?!」
面白がる原田を「からかうなよ」と永倉が制する。藤堂は深いため息をつきながら
「…女中が教えてくれたのですが…その方にはすでに許婚がいるそうです…」
と落胆した様子で答えた。
総司は「えっ」と驚き、事情を知らない伊庭でさえ「ああ…」と察したように声を漏らした。振られたわけではないが、答えは目に見えてしまったのだ。
永倉は藤堂の肩を叩く。
「でもまだ嫁いだわけじゃない。その手紙にコロッと心が動かされるかもしれないじゃないか」
「うぅ、そう言ってくれるのは永倉さんだけです」
「俺はもうダメだと思うけどなー!」
「左之助!」
酒のせいもあって涙目になる藤堂を慰め続ける永倉と、ネタにしてからかう原田。伊庭はその三人の会話に上手に入り込み、楽しそうに笑う。そうしていると騒ぎを聞きつけた山南が顔を出し、酒は飲まないが藤堂の話を穏やかに聞いていた。
総司はその輪の中にいながらも、少し離れた場所からその様子を見ていた。
『沖田さんはどうなんですか?』
伊庭の問いかけた言葉が、ずっと頭の中で反芻されていた。