身を知る雨





空を見上げて想いを馳せる。
飛び立つための翼さえない身体は重くて、地面に張り付いたままどこへ行くこともできない。
次第に雨が降り、濡れた場所から滴る雫が雁字搦めになって、重たくなって、歩き出すことさえままならず。
ただ顔を上げてこの場所でもがき続けているーーー。


土方が目を覚ましたのは、夕暮れ時のことだった。嵐は収まったようで、障子の隙間から覗く黒と橙の絶妙なコントラストはとても眩しい。
「…ん…」
隣で衣擦れの音がした。眠りについた琴の白い背中が目に焼きつく。
その妖艶な姿を見て寝起きのぼんやりとしていた頭が冷めて行く。手に残る柔らかな感触、鼓膜に残る甘い声、そして気怠げなこの感情…何度も味わったことのある感覚だったが、しかし今回は決して心地の良いものではなかった。
(最低だな…)
自己嫌悪を感じ、土方はくしゃっと髪を荒くかき乱す。
いつまでも待ち続け、何もかもを理解して受け入れる…そんな琴に苛立ち『何も知らないくせに』と怒りをぶつけた。男を知らない彼女にとって、まるで嵐のような出来事だっただろう。
(…わかっているんだ…)
それは偽善でもなく、彼女の素直な気持ちだったということは。だから、それを受け入れる度量を持っていなかった自分こそが責められるべきなのだ。
(だが…これで終わりだろう)
琴の背中を見て土方はそう思った。
長い時間待たせ続けたことは申し訳なく思うが、それでも彼女へ婿入りしてその身を捧げることなどできない。彼女への愛情どころか同情すらない。
むしろ一刻も早く自分のことなど忘れて、新しい道を歩んで欲しい…そう思える。
そして彼女もこんな乱暴な男は嫌だと拒絶するに違いない。
「ん…?」
障子の隙間から橙色の光が差す。その場所に置かれた手紙が目に入った。それは偶然だったが、
『お琴殿へ』
と、そう書かれた文字には既視感があった。琴を起こさないように慎重に手を伸ばし、悪いとは思いながら中を見る。
内容は恋文だった。琴への淡い気持ちが綴られており、読むのも恥ずかしいような内容だ。しかし言葉を交わしたことのない琴へのひたむきな愛情が綴られており、今の土方からすれば眩いほど純粋に感じられた。
しかしそれ以上に気がかりな点がある。
「これは…総司か…?」
顔立ちに似つかわしくない角ばった無骨な文字…この筆跡は間違いなく総司のものなのだ。何度も代筆をさせたことがあるので間違いない。
手紙を読み進めれば最後にその名前が出てくるはずだ…と読み進めようとしたが。
「なりません」
と琴の声が聞こえ、手を止めた。着物を羽織りながら、琴は土方に近づくと手にしていた手紙を取り上げた。
「これはわたくし宛てのお手紙です。ここに込められたお気持ちもわたくしだけのもの。ですから読んで良いのはわたくしだけです」
きっぱりと言い切った彼女の主張は至極当然なものであったので、
「…悪かった」
土方は素直に謝った。勝手に手紙を読まれては気分を害するのは当たり前だろう。だが、このまま引き下がることはできなかった。
「それは…誰からのものだ?」
結局、差出人が誰なのかは彼女に遮られ読むことができなかった。
総司の筆跡であることには確信が持てる。しかし歯の浮くようなセリフの数々を総司が書き記したとは思えなかったのだ。
だが、琴は首を横に振った。
「…言えません。歳三様はお相手が気になるのですか?」
琴が期待を込めた眼差しを向ける。それに応えることはできなくて、「いや」と土方は返答するしかなかった。
「帰る」
土方は衣服に袖を通し、せっせと帰り支度を進める。一刻も早くこの部屋を出なければ彼女を勘違いさせてしまいそうだった。
「歳三様」
「…」
「また来てくださいますか?」
土方は何を答えるべきか考えた。
こっ酷く拒絶すれば良いが、それでは為次郎の顔を潰すことにある。かといって適当な口約束をすれば彼女のことだからそれを本気で信じるだろう。
「さあ…」
土方は中途半端な言葉しか口にすることはできなかったが、琴は
「お待ちしています」
と微笑んだ。
土方はその返答を聞かなかったフリをして、部屋を出て庭の裏口から外に出る。
夕焼けの橙色と夜の漆黒が交わろうとしていた。鈍く光る空を見上げて、ままならないことばかりだとため息をついた。


それから土方が試衛館に戻ったのは、深夜のことだった。
煌めく月と星の明るさのおかげで提灯が必要出ないほど明るい夜だったが、土方の気分はいまいち晴れなかった。
琴のこと…だけではなく、あの部屋で見つけた手紙のことが引っかかっていたのだ。筆跡と内容があまりに総司と結びつかず、だんだんと他人の空似なのではないかと思い始めた。だが幼少の頃からよく知っている総司の筆跡を見間違えるわけはない。
(…もしかしてあいつ、お琴に気があるのか…?)
てっきり総司は剣ばかりで女に関心がないのかと思っていたが、土方が知らないだけで、総司の中にああいった女性に対する淡い恋心のようなものがあるのかもしれない。いい加減子供ではないのだから、異性への憧れがあってもおかしくはない。
だが、その相手がまさか仮とはいえ自分の許嫁とは。
「…くそ…」
知らなかったとはいえ、まるで総司の思いを汚してしまったような気持ちであり、また短絡的な思考でさっさと決着させようとした自分を咎められているみたいだ。それになにより総司にそういう相手がいたというのが引っかかる。
土方は試衛館の裏口から物音を立てないように中に入った。幼子のたまが起きて泣き喚いては大事だが、皆も寝ているのか試衛館は静かだ。
(あいつには会いたくないからな…)
土方が少しの安堵を覚えながら?を進めると
「おかえりなさい」
と声が聞こえ、ビクッと身体が震えた。しかし声をかけたのは総司ではない。
「…なんだ、お前か…」
「俺で悪かったですね。誰を期待していたんですか?」
「別に…」
縁側に佇んでいたのは伊庭だった。彼が試衛館に屯しているのは珍しいことではないがこの時間なら他の食客と共に雑魚寝をしているはずだ。
土方は縁側に腰掛ける伊庭の隣に座った。
「お前はこんな夜更けにここでなにやってるんだ?こんな寒い場所で…」
「…ちょっと考え事をして眠れないだけですよ。別に土方さんを待っていたわけじゃありません」
「お前でも眠れないことがあるんだな」
「健康な男子ですからね。土方さんみたいに不健康な生活を送っていれば悩みなんてないでしょうけど」
「なんだ、いちいち棘があるな」
小気味良いやりとりはいつものことだが、伊庭はチクチクと土方を責める。
そして彼は顔を寄せて鼻でクンクンと匂いを嗅いだ。
「…女ですね。しかも上品なお香の匂いがします」
「お前は犬か」
「実家でこってり絞られてきたのかと思ったら、早速女遊びですか?反省がないなぁ」
土方が日野へ行ったことは試衛館の誰かが話したのだろう。それさえ話せば頭の良い彼がその先の推測をできてしまうのは当然のことではある。
しかし今の土方にはその言葉を重荷に感じた。
「…うるさいな。長兄に言われて許嫁のところに顔を出したんだ」
「許嫁?!」
伊庭が驚きのあまり叫び、「おっと」と手で口を塞ぐ仕草をした。試衛館の狭い庭に響いたが、幸運なことにたまや食客たちを起こさないで済んだようだ。
「…びっくりしたなあ。土方さんに『許嫁』なんて高尚な存在がいたんですね」
「長兄が勝手に決めているだけだ。俺にそのつもりはない」
「へえ、そういうくせに抱いてきたみたいですけど?」
「…」
図星を突かれ何もいえなくなった土方をみて、伊庭は笑った。
「お盛んだなぁ。もう良い年なんですから食い散らかしてばかりいたらいつかはバチが当たりますよ」
「今日のは違う。夢見がちなお嬢様に現実を教えてやっただけだ」
為次郎から何を聞いたのかは知らないが、琴は土方のことを物語の主人公のように『勘違い』しているようだったが、今日のことで本当はその正反対の『悪人』であるのだとわかったことだろう。
もう二度と会わない。そしてあちらから婚約を破棄させれば、兄も納得するーー。
すると伊庭がその眼を開いて唖然として、
「…びっくりした」
と意外なことを口にした。
「さっきも同じセリフを言ったぞ」
「二回びっくりしたんですよ。土方さんってたくさん遊んでいるくせに、意外と女子の気持ちがわかってないんですね」
「は?」
伊庭の言葉に、今度は土方が唖然とする番だった。
土方が散々吉原で遊びつくしていることは彼が一番よく知っているはずだ。あちこちの女を口説き落としてきたのだから、女子の気持ちなど知り尽くしているという自負があり、伊庭のコメントは心外だ。しかし彼は
「手練れの女ばかり相手にしているから視界が曇っているんじゃないですか?」
とさらに笑っている。
「どういう意味だよ」
「『夢見がちなお嬢様』だからこそ、簡単に手を出しちゃいけないんですよ。ずっと待ち続けた相手にようやく抱かれることができた…って、いまはそんな恍惚に浸っている頃じゃないですかね。残念ながら土方さんのことを諦めたりしないでしょう」
『また来て下さいますか』
『お待ちしています』
喜びと期待に満ちた彼女の表情。伊庭は琴のことなど知らないはずなのに、言い当てていた。
「…ああ、そうだ…その通りだな。何で気づかなかったのか…面倒くさいことになった…」
「面倒なことにしたのは土方さん自身だと思いますけどね。そのつもりがないのなら、これ以上早々に決着をつけたほうがいいですよ」
「そうだな…」
客観的だからこそ伊庭のアドバイスが的を射ている気がした。
深いため息をつく土方の隣で、伊庭は未だにぼんやりと庭を眺めている。
彼は土方よりも年下なのだが時折、大人びた憂いを見せることがある。女遊びをしていても夢中になることなく一歩引いた場所から笑い、視線を外して考え事をしていることがある。その時の伊庭はどこか近寄りがたく、色気があるのだ。
「…そんなに深刻な『考え事』なのか?」
「え?…ああ、そうですね…いや、そうでもないのかも」
伊庭は言葉と視線を泳がせる。
「…試衛館に来ると自分がとても狭い場所で生きて来たのだと実感させられるんです。ここにいるみんなが何にも縛られることなく自由で…羨ましい」
「…お前が思うほど楽しいことばかりじゃないさ」
伊庭の目に映る自由に生きている姿は、ただ彼らなりに足掻いているだけなのだ。食客たちのほとんどは脱藩し、流浪の末にたどり着いた強者ばかり。いつまでも試衛館にとどまっているわけがない。
伊庭は頷いた。
「わかっています。ただ…こんな静かな夜には自分自身の虚しさを感じるんですよ。いかに自分が何にもない、空っぽなのかと」
「感傷的だな」
「そうですね。…羨むばかりの俺はいつか皆んなに置いていかれてしまうんでしょう。無い物ねだりばかりして、本当に欲しいものは手に入らないまま…」
彼らしくない弱気な発言に、土方はじっとその顔を見た。しかし間の悪いことに月の光が夜の雲に遮られて彼の表情はよく見えない。
「…なんて。ちょっと感傷的になりすぎましたね。冷えてきましたし、もう寝ます」
「おい…」
「おやすみなさい」
そういうと伊庭は立ち上がり、そのまま客間に戻っていく。そうすることであからさまに彼は土方の追求を避けた。
伊庭はいつも見通すのに、土方には彼が何を言いたいのかわからなかった。