身を知る雨






「あれ…帰ってきていたんですか?」
「…」
早朝。
総司が勢い良く障子を開けたせいで、土方の寝床に容赦なく朝日が差し込む。そのせいで目を覚ました土方は顔を顰めて背を向けた。
「…まだ眠いんだ」
「ダメですよ、起きないと。歳三さん、実家に帰ってお兄さんに叱られて反省してきたんでしょう?その成果を見せてくれなきゃ」
「…」
小生意気な口をきく総司に対して、朝が苦手な土方は怒る気力さえない。布団を深く被り「いいから、寝かせろ」と訴えるが、
「良いんですか?昨晩は伊庭くんが泊まっていったから歳三さんの分の朝餉はありません。つまり、早く起きないと食いっぱぐれますよ」
「……」
総司は脅し半分で茶化したが、それは昨日殆ど何も口にしていない土方にとって死活問題だった。
土方は仕方なくどうにか気怠い体を起こした。冬の冷たい空気が肌に張り付いて強制的に意識を覚醒させて行く。
「さあさあ、着替えてください」
総司は土方の背中を押すように布団から追い出して、せっせとそれを仕舞い始めた。それは下働きを始めた頃からの習慣であったし、普段通りの行動に違いない。
その姿を見ながら、土方はふと琴のもとにあった恋文のことを思い出していた。無骨で力強い筆跡から流れ出る思い…土方からすれば甘ずっぱい内容のそれをとても総司が書いたとは思えなかったが、しかしあの筆跡は間違いなく総司だった。それに琴が手紙を取り上げる姿だって必死に隠しているようにも見えたのだ。彼女は総司…宗次郎のことを知っているのだから。
「どうしたんですか?」
じっと見つめすぎていたせいか、総司がその視線に気がついた。土方は「なんでもない」と頭を振ったが、彼は首を傾げた。
「そんなにこってり絞られたんですか?」
総司は誰に何を聞いたのか、土方が実家に戻った理由は説教だと思っているらしい。その呑気な様子に力が抜けてしまう。
「…別に叱られたわけじゃない。喜六兄さんが小言が多いのはいつものことだ…一昨日は為次郎兄さんに呼び出されただけだ」
「長兄のお兄さんですよね。普段は放っておいてくれていると言っていたのに…何かあったんですか?」
「…」
実は許婚がいていい加減身を固めろと叱られた…と素直に白状する気にはもちろんなれなかった。
「別に…」
そう言って誤魔化して視線を背ける土方を見て、総司は訝しげに見ていたが
「…じゃあ早く着替えてきてくださいよ」
と言い残して部屋を出て行った。
下働きとして試衛館にやってきてから数年…今まで感じたことのない罪悪感を覚えた。総司の良心を踏みにじるようで居心地が悪い。
(二度とお琴には会いに行くまい…)
総司に知られる前に許婚も解消し、できれば添い遂げるように配慮してやる…それが兄弟子としてのせめてもの務めだ。
だからそれを、
(胸糞悪い…)
などと思うのは勝手な感情に違いないのだ。


朝餉のあと。
「腹でも下しているんですか?」
帰り際、玄関先で伊庭は土方の顔を見てそう言った。
「別に下してない」
「そうかなぁ。渋り腹でも抱えたような顔をしていましたけど。鬼のような形相で」
「…そういうお前は昨晩とはえらい変わり様だな」
昨晩は弱気なことを口にしていた伊庭だが、朝起きてみると終始笑顔で食客たちと談笑していて、その様子に土方は少し気が抜けてしまったのだ。
伊庭は苦笑した。
「忘れてください…とは言いませんけど、気にしないでください。そういう年頃なんです。若気の至りというか」
「自分で言うなよ」
「それよりその…許婚のこと。早めに結論を出した方が良いのではないですか?」
「…嫌なことを思い出させるな」
伊庭に促されて、琴のあの純粋無垢な眼差しを思い出す。それだけで胃がキリキリと痛くなる。それは、己の罪悪感と彼女への苛立ち…この二つの感情は自分勝手なわがままだと言うことがわかっているからだ。
「尾を引くのは残酷ですよ」
伊庭のお節介な一言をいつもなら「うるさい」と一蹴するところだが、
「ああ」
と受け入れる。
すると伊庭はどこか含みのある笑い方をしたがそれ以上は何も言わなかった。
「じゃあまた来ます」
下駄を履いた伊庭が立ち上がる。今にも一歩踏み出そうとした彼を
「…ちょっと聞きたいんだが」
土方はそう言って引き止めた。
「なんです?」
「…お前、総司から何か話を聞いてないか?」
「話…ですか?」
「最近はどんな話をしている?」
「…土方さんが日野に帰っているとか、きっと二番目の兄上に怒られているに違いないとかそういう他愛のない話ならしましたけど、それ以外は特に…」
首を傾げる伊庭には全く心当たりがないらしい。土方はさらに問い詰めた。
「…例えば、好いた女子がいる…とかは?」
「はぁ?」
伊庭が大口を開けて声をあげたので、土方は「しっ」と声を顰めるように人差し指を立てた。
「大声を上げるなよ」
「藪から棒に土方さんが驚くようなことを言うからじゃないですか。俺はそんなことは知りませんよ。たとえ沖田さんにそんな相手がいたとしても俺なんかにベラベラと話すような性格ではないでしょう」
「まぁ…そうだな」
「それに、昨晩は藤堂さんの思い人の件で盛り上がりましたけど、沖田さんはまるで心当たりがないと言う顔をしていましたよ。近藤先生のように娶ることにも関心がなさそうでしたし…そういう女子はいないんじゃないですかね」
「そうか…」
伊庭の話を聞いて、どこか安堵している自分がいた。
だったら琴の家でみたあの恋文は見間違いだったに違いない。筆跡が似ている者などたくさんいるだろう。
それに昔から試衛館で育って来た総司には女っ気がない。吉原への誘いもいやいやついて来ていたのだから、色気付いて手紙など送るという発想すらないはずだ。
「…どうしたんです?」
伊庭が顔を覗き込むようにして来たが、土方は「なんでもない」と手を振って
「さっさと帰れよ」
と促した。伊庭はあからさまに不満顔を作って
「引き止めたのは土方さんじゃないですか」
と言いながら去って行った。
伊庭を見送った土方はその姿が見えなくなっても、しばらくその場に立ちっぱなしでいた。
(…そもそも、なんであいつのことでこんなにも考え込まなきゃならねえんだ…?)
総司に好いた女子がいようがいまいが、それが琴であろうがなかろうが…全ては偶然の出来事だ。ありのままを話して事実を確かめればいいだけだ。それなのに。
(だが、俺にはそれができない…)
それは長年待たせ続けている琴のことを慮っているからではない。
もし、あれが総司の手紙ならば、傷つけるに違いないと思ったからだ。自分の軽率な行動のせいで彼の気持ちを踏みにじるのは嫌だ。そしてそんな軽薄な存在だと軽蔑されたくない…。
「…あ?」
土方は髪をくしゃっとかき上げた。
(俺はあいつに嫌われたくない…とかそんなことを思っているのか?)
兄弟子と弟弟子。その関係は出会った時から生まれ、今まで続いて来た。子分のように接してきたし、本当の弟のように思っている部分もある。けれど、この感情は決してそんな甘やかされた家族のようなものではない。
「歳三さん、どうしたんですか?」
「っ!」
総司に背後から急に声をかけられ、心臓が飛び跳ねた。
「…っ、なんだよ、お前!」
「そんな怒鳴るようなことをしていないじゃないですか。伊庭くんは帰ったんですか?」
総司は玄関を覗き込むが、そこに伊庭はいない。
「…さっき、帰った」
「そうですか。じゃあ、客間に来てください。近藤先生からお話があるそうですから。食客のみんなも集まっていますし」
「話…?なんの話だ」
伊庭が帰ったのを確認してから食客を集める…きっと重要な話だろう、と土方は推察する。しかし目の前の総司は呑気な顔をしていた。
「さあ…わかりませんけど、歳三さんの素行の悪さとかそういう話じゃないですか?」
「お前な…」
「昨日だって夜遅くに帰って来たみたいじゃないですか?」
昨日…琴の元から忍び足で試衛館に戻って来たときのことだ。そのあと伊庭と話し込んでしまったので、総司に気づかれてしまったのだろう。バツの悪い土方は「うるさい」と一蹴し
「行くぞ」
と客間に向けて歩き出す。

近藤の口から語られたのは、『浪士組』に参加したいという強い決意だったーーー。