身を知る雨






将軍警護のため、都へ向かう―――。
近藤のその言葉を土方は俄かには信じられなかった。突然降って沸いたような話であり、武士でもない農民の身分である立場では、将軍を警護する…そんなことを夢見ることさえなかったのだ。
しかし、爛々と輝く幼馴染の眼差し、それに導かれるように希望を抱き活気立つ食客たち…その光景を見ていると、それが本当のことだとようやく飲み込むことができた。
何者でもない自分が、『何か』になることができる―――胸に沸き立つ興奮は隠すことができず、土方は久し振りに食客たちと飲んだ。
そうして迎えた朝は、これまでに感じたことがないくらい、清々しいものだった。


翌朝。
「歳三さん、まだ寝ているんですかねぇ」
朝餉の席には相変わらず土方の姿はない。朝餉を食べ終えた総司は首を傾げたが、原田はハハッと笑った。
「昨晩は遅くまで飲んでいたからなぁ、平助」
「はい。でも珍しいですよね、土方さんが試衛館で飲むのは」
「もともと酒をあまり嗜まないそうだが、昨晩はよく飲んで、酔っ払っていたな」
原田とともに笑う藤堂と永倉…彼らも遅くまで飲んでいたのだが、すっかり酒が抜けて普段通りだ。
温かい茶を飲みながら総司は笑う。
「普段飲まないから適量がわからないんですよ」
「それを総司が言うのかよ。お前はさっさと寝ちまったもんな?」
原田の言葉に、総司は頭を掻いた。
試衛館をあげて浪士組に参加する…その感動と興奮に酔いしれて、近藤を始めとして食客たちは夜遅くまで飲んでいたが、総司は酒を口に含む程度にしてさっさと寝床に就いたのだ。
「いつも通りの時間に寝ないと翌日の体調が優れないんですよ。それに今日は出稽古ですし…」
「ったく、冷めてやがる。本当は都へ行きたくないのか?」
「そんなことはありませんが…」
「原田さん、まだお酒が残っているんですか?」
絡もうとした原田を藤堂がやんわりと止めたので、総司は苦笑しながら部屋を出た。
ボロボロの試衛館には冬の冷たい風が流れ込んでいて、乾燥した空気に白い息が上がる。
冷めているわけではない。
『浪士組に参加しようと思う…!』
昨晩、近藤が満面の笑みでそう言った時心から祝福し、ともに喜んだ。少し前、講武所教授方に推挙されながらもその出自から拒まれてしまった近藤の落胆を目の前に、何もできなかった苦々しい記憶や自分の無力さを覚えている。だからこそ、今度は近藤のために自分ができることなら何でもしよう、と心に決めていた。
そのチャンスが訪れた―――どんなに危険な場所であったとしても、共に行く以外の選択肢が浮かぶはずはなかった。
試衛館の荒れ果てた小さな庭。たった一枚の枯葉が地面を舞う。
(ああ…そうか…)
総司は気がついた。
彼らのように興奮して喜べないわけ。
それはきっと、絶好の機会を与えられた喜びよりも、『そうすべきだ』という責任感の方が大きいからだ。それ以外の選択肢を選べるわけがないと決め込んでいるからこそ、喜びという個人の感情よりも違うものが優った。
庭にたった一枚だけ残った枯れ葉のように、木枯らしに吹かれるのは寂しい。
(ダメだな、僕は…)
自分のことなのに、自分の意思で選ぶことができていない。誰かの意思に従う方が楽だと思ってしまっている。子供だと言われれば反発するのに、大人にはなりきれていない。
『沖田さんはどうなんですか?』
身軽でいたいと語る伊庭が、総司に投げかけた何気無い質問。その答えが見つからないのは、この先の道を選ぶのはきっと自分ではないと思っているから。
(…なんて、歳三さんに言ったら怒られそうだ)
総司は眺めていた庭から視線を外し、冷たい歩き出す。
(そういえば歳三さん、まだ寝ているのかな)
出稽古の準備のついでに総司は通りかかった部屋を覗く。すると部屋は人の姿すらなくしんと静まっていて、土方の寝床も片付けられていた。
「歳三さん…?」
名前を呼んでも、その返事はなかった。


その頃、土方は川辺の近くの小道を歩いていた。
足取りは久し振りに軽い。道に落ちていた形の良い小石を蹴りながら、再び実家である石田村に向かっていた。
(都へ行く)
その言葉の持つ力に、いつになく昂り酔いしれていた。
自由である一方でこの先はないという閉塞感。自分の出自というどうしようもない壁を目の前に足踏みしていたばかりの日々が、これで終わるだろう。
将軍警護―――それは幼い頃、近藤が語っていた夢だ。
『いつか武士になって、将軍様のお役に立つ!』
子供の土方にだってわかる、途方も無い夢。けれど近藤はそれを叶えるための努力を怠らず、試衛館の道場主まで上り詰めたのだ。その努力がようやく実る…たとえ半年のこととはいえ、人生の転換点となることを予感していた。
(早く行きてぇな…!)
決して顔には出さまいと思っても、喜びが溢れてしまう。
そうしているうちに実家が目の前になった。するとちょうどどこかへ出かけるところだったのか、次男の喜六の姿があった。次兄もまた土方に気がついた。
「どうした。もう戻ってきたのか?」
小言の多い喜六は、長兄の代わりに家長として家を仕切っているためぞんざいな口調だが、今日の土方は苛立つことなく「まあな」と答えて続けた。
「話があるんだ」
「話?…悪いが、今からお得意さんのところへ行く。帰りは遅くなる」
「だったら今話す。…都へ行くことになった」
「都?」
土方の突然の報告に、喜六は何をバカな、と言わんばかりの呆れ顔を作った。
「忙しいんだ、与太話なら帰って…」
「与太話じゃねえ。試衛館をあげて、将軍様の警護隊に加わることになったんだ。身分を問わない…志があれば誰でも参加できる」
「…」
江戸ではすでに広まった話だが、剣術道場などない田舎にはまだ知られていないことらしい。喜六は苦い顔をして腕を組んだまま、何も言わなかった。
土方は続けた。
「二月には出立する。半年くらいの任務になるそうだが…どうなるかはわからない」
都はいま、複雑な事情が絡み江戸よりも政治が動く場所になっている。そんな場所に踏み込んで行くのだから、何が起こってもおかしくはない。
土方の話を聞き終えてしばらく沈黙し、喜六はようやく口を開いた。
「…お前みたいな半端もん、野垂れ死ぬに決まってる」
「な…っ!」
土方の喜びに水を差すように、喜六は厳しい眼差しを向けた。
「お前は商いも剣術も、半端にこなして自分はできるものだと思い込んでいる。そのくせ家や許嫁のことを放り出して、上京だと?」
「別に半端なことなんて…!」
「本当にそう思っているなら、お前は自分のことがわかっていない。自分のことがわかっていない奴に、何ができるというんだ」
「…」
喜六は淡々としていた。
都行きを喜んでくれると思ったわけではない。けれど心のどこかで、温かく送り出してくれるはずだと期待していた。けれど、現実とは真反対だった。
「…とにかく、今は急いでいるんだ。話は後だ」
「…」
喜六はそう言って足早に去っていった。
残された土方は奥歯を噛み締めた。喜六の言い放った言葉が脳裏に、そして言い返したかった言葉が喉元に残っている。
だが、それを言うことはできなかった。
(くそ…!)
土方は苛立ちと悔しさを抱えながら実家の門を潜った。すっかり敷居が高くなったその場所が喜六の暮らす場所だと思うと入るのが億劫で、土方は庭を抜けて離れへ向かった。
離れにはやはり長兄の為次郎がいた。縁側で三味線の手入れをしているようだ。
「大きな声だったなあ」
「…聞いてたのかよ」
「聞いていたのではなく、聞こえていたんだ。耳はいいからな」
為次郎は笑う。盲目の兄は『耳がいい』ことを昔から自慢にしていた。
土方は為次郎の隣にドカッと音を立てて座った。そんな弟の苛立ちに聡い為次郎が気づかないわけがない。
「都…か。なかなか突拍子の無いことを言う」
「嘘だって言うのかよ」
「嘘なんてついてどうするんだ。それにしても試衛館をあげて将軍警護…か」
「…もっと喜ぶかと思ってた」
喜六は天領の民として将軍を思う心はある。だからこそ末弟がその一端に関わることを誇らしく思ってくれるはずだと簡単に考えていた。
為次郎はやはり笑っていた。
「だが、歳三。…喜六の言うことも間違ってはいない」
「…結局、喜六兄さんの味方かよ」
「お前は相変わらず、敵か味方かなんて子供みたいなことを言いやがる」
「…」
バラン、と三味線の音が鳴った。
幼い頃、土方は周囲のほとんどが敵だと思っていた。剣術がやりたい、商いなどやりたくはない…そんな子供のワガママを誰も受け入れてくれなかったからだ。
「喜六の言い分がほんの少しでもその通りだと思ったからこそ、お前は何も言い返せなかったのだろう?」
「…」
「そうやって都合が悪くなると黙るのも、お前の悪い癖だ」
為次郎の目ざとい指摘に土方はさらに押し黙った。
喜六や為次郎は昔、幼い土方が奉公に出しては問題を起こして出戻りしていたことを知っている。商いにも興味がなく、気が向いた時に家業を手伝う…そんな末弟を不甲斐なく思っていたのだろう。
けれど、もう自分は幼い頃とは違う。
「…今までとは違うんだ。誰に何を言われたって俺はかっちゃんたちと一緒に都へ行く…」
「言葉だけじゃダメだ。だったらそれを示すしかねぇな」
「示す?」
為次郎は三味線を置き、土方に手を伸ばした。探りながら肩に手を置き、何度か叩く。
「都は危ない場所なんだろう。だったら死ぬ気で行かなきゃならねえ。だが喜六の言う通り、お前はこのままじゃ中途半端…覚悟がない奴は野垂れ死ぬ」
「…」
「覚悟を見せろ、歳三」
為次郎の力強い言葉だった。
彼には見えないだろうけれど、土方は頷いた。