身を知る雨






浪士組の出立が二月に決まった。
身分や年齢を問わず、犯罪者や農民であろうとも参加できるとあって、その話は瞬く間に江戸中に広がり、多くのものが参加の名乗りを上げた。支度金が支給されるという条件もまた参加者を増やす要因となり、その人数は予想以上に膨れ上がったらしい。
「松平様が取締役を辞退して、鵜殿様が就任されたそうです」
「なんだか先行きが不安ですね」
「まっ、金が貰えればいいけどさ」
試衛館の食客たちは当然参加するものとして会話を交わしている。家や故郷から離れて試衛館の食客となっている彼らには縛られるものは何一つない。今回の浪士組の参加も祭りのようなもので重く受け止めることはないのだ。
盛り上がる食客たちから少し身を引いて土方は縁側に横になっていた。今日は冬にしては暖かい陽が差し込んでいて心地よいが、気分は晴れなかった。
(どうしたものか…)
土方は悩んでいた。
家督を継いだ喜六だけでなく、長兄の為次郎や姉ののぶすら浪士組参加に難色を示している。この歳になって家族に反対されたからといって従うような性質(タチ)ではないが、このまま勝手に京へ行って手柄を立てたところで彼らは土方を認めず喜ばないだろう。
(これはいい機会だろう)
いい年をして試衛館の入り浸っていると誤解され、琴のこともその気がないのに許婚に留まらせてきた…ズルズルと引き伸ばしてきたあらゆる問題を解決する絶好の機会だ。
そしてその全てに区切りをつける方法が、為次郎が言っていた『覚悟を見せる』ということなのだろう。けれどその方法がわからない。
「…覚悟ってなんだよ」
「決闘でもするんですか、歳三さん」
土方の独り言を逃さず聞いていたのは総司だった。皿いっぱいに乗せた饅頭を頬張り、独り占めするように食べている。
「行儀が悪いな。何食べてるんだよ」
「贔屓にしている饅頭屋の饅頭です。都へ行ったらしばらく食べられないですから、こうして食べ貯めてるんです」
「…浪士組の支度金をそんなくだらないことに使うなよ」
土方は呆れてしまうが、総司は気にする様子はなく土方の隣に腰掛けた。
「それで、『覚悟』ってなんですか?歳三さんのことだから何か厄介ごとに巻き込まれているんでしょう。面倒なことは江戸の仇は長崎じゃなくて江戸で討つべきです。さっさと解決しておいた方が今後のためですよ」
「何わかったようなことを言ってるんだよ。…別にそういうことじゃない」
「じゃあ女の人のことですか?」
「…」
総司は何の気なしに尋ねてきたが、土方はドキッとした。琴の元にあった『恋文』…その送り主のことについてまだ尋ねていなかったのだ。
「…女はいねえよ。お前こそそういう相手にちゃんと挨拶しておけよ」
「何を言っているんですか?」
「…」
まるで心当たりのないという呆けた顔をした総司に、土方はさらに言葉を重ねようとして、しかし飲み込んだ。
(余計なことを言わずにこのまま黙っておく方がいいのかもしれない…)
ただでさえ忙しない浪士組出立前にややこしい事態になっては困る。
「なんでもない」
そう言って土方はようやく身体を起こした。
饅頭を食べる総司と並んでぼんやりと試衛館の庭を眺める。庭園というほど立派なものでもなく、荒れ果てているわけでもない。ふでやつねによって管理され、季節が移ろえばその速度に合わせるように花が咲く。
この庭を今までは空虚な気持ちで眺めていた。黒船の来航、幕府の後退…時代は変わろうとしているのに、全てが手の届かない場所でまるで他人事のように進んでいく。苛立っても、強がっても世の流れに従うしかない日々がひどく虚しかった。
浪士組に参加したところで何かが変わるわけではない。たった半年で何事もなく元の生活に戻るのかもしれない。けれど、名を残すことはできなくても、その歴史の片鱗に触れることはできるだろう。農民や商人の末弟という、いてもいなくても変わらない自分が剣を続けてきた意味をようやく見出すことができるかもしれない。
『じゃあ、試衛館にいればその先が見えるのか?』
為次郎はそう尋ねた。目の見えない長兄が、その先にある光景とはなんだと問いかけたのだ。その時は何も答えられなかっったが
(今は…朧げだが、見える気がする)
なぜ近藤や食客たち…田舎道場に似合わない剣豪たちがどうしてここにいるのか。皆がきっとこの試衛館に引き寄せられて、この先の未来を共にする運命にあるのだと今は確信している。
土方はちらりと隣に座る総司に目をやった。総司もまたなぜこんな所にいるのかとおもってしまうほどの『天才』である。今更彼らと別れて別の道に歩むことなど、土方の中の選択肢にはない。
彼らと共に生き、彼らを守り、共に戦い続けるーーー。
「歳三さん」
「…っ、なんだよ」
なんとなく答えが見えかけたところで遮られてしまったので、土方はつい苛立って総司を睨んだ。しかし彼はそんなことは知る由もなく、笑顔を向けていた。
「なにか詠んでくださいよ」
総司は屈託のない表情だったが、土方の趣味である『発句』を揶揄しているのだ。
「…いま忙しいんだ。俺をからかうなら後にしろ」
「縁側に寝そべっておいてなにが『忙しい』ですか。…歳三さんの俳句は上手じゃないけど、好きですよ。率直で、素朴で…全然歳三さんらしくない」
「褒めてるのか貶してるのかどっちだ」
「もちろん褒めてます」
いつもは散々にからかう総司だが今は他意はないようだったので、土方は握った拳を緩めた。
そして総司は庭を見渡しながら続けた。
「京に行くのも楽しみなんですけどね…試衛館と離れるのも寂しいんです。ここには何も無いし、いつも貧乏だけど…愛着はある。こうして名残を惜しむのは実は皆と一緒に行くことに『覚悟』がないんじゃないかなって」
「覚悟…」
総司も理由は違えど同じことを考えていた…土方は少し驚きながら耳を傾けた。
「いつもの『日常』を捨てるのってなんだか寂しいし、新しい場所に行くのは楽しみだけど怖くもある…そんな風に感じるのは『覚悟』がないから故の弱さのせいかもしれません。食客の皆はとても楽しそうだけど…このところの歳三さんは考え混んでいる感じだから、なにを思っているのだろうと思って」
「…それでなんで『俳句』になるんだよ」
「だからさっき言ったじゃないですか、歳三さんの俳句は率直で素直だからですよ。もし私が直球で本音を聞いたってきっと捻くれた答えしか返ってこないでしょうから、俳句の方がわかりやすい気がします」
「…」
「ね、だから、お願いします」
からかわれているのか、馬鹿にされているのか…どうも腑に落ちず土方は怪訝に思うが、応えなければしつこいので頭を捻ることにする。
試衛館に居候して、仲間が増えて…けれど持て余す日々だった。出口のないなか、近藤に持ち上がった講武所教授方への推挙も身分が理由に取り消され、まるで自分たちの前に透明で大きな壁が聳え立っているようで絶望した。
けれど、ようやく訪れた浪士組への参加という好機を前に不安よりも胸は踊り清々しい気持ちが勝っている。大手を振って参加するためにも何とかして兄弟を説得したい。
「さしむかう…心は清き、水鏡」
「…さしむかう、ですか?」
総司は目を丸くした。
相対して座っている者同士、心が清らかであり水鏡のようだーーーつまりは総司の心も同じということだ。
「たぶん、お前も俺もあれこれ考えすぎなんだ。いざ出立してみればたぶん心は晴れやかに違いない。今までの鬱屈した気持ちが晴れて…明鏡止水、澄み切って落ち着いた心地になる」
人生を変えてやる。
この先、近藤という兄貴分を盛り立て、仲間を守り、壁を破っていく。
(ああ、そうか…)
この身を賭してがむしゃらに突き進んでいくーーーそれが覚悟だ。
そう答えが出た途端、土方は急に立ち上がった。
「総司、一緒に来い」
「え?でもまだ饅頭が…」
「俺はお前の言うことを聞いたんだから、今度はお前の番だ」
「…わかりました。でもどこへ行くんですか?」
総司は渋々立ち上がる。土方は
「いいからついて来い」
と歩き出したのだった。