花あわせ1



雨の日になると、声が聞こえる。雨音に混じり、雑音に紛れ、誰のものかもわからない声が。
耳を塞いでも聞こえてくるその声が、口から発せられたものではなく、心の奥底で叫ぶ誰かの本音であると気が付いたのは幼い頃のことだった――。

京都、祇園。
しとしとと降る雨のなか、傘を差して二人の男が帰路についていた。一人は鼻歌混じりに千鳥足、もう一人は雨に濡れないように慎重に傘と提灯を持っている。
「数馬、水溜りには気をつけろよ」
「あー?いいんだよ、どうせ帰って寝るだけだ。濡れたって構やしねえ」
数馬…宮川数馬は同じ非番だった上坂幸太郎を誘い、花街・祇園へと足を延ばした。給金も出たばかりだったので、早速高い女と遊び騒いだのだ。
「それにしても、いい女だったよなあ。阿木…だっけ、決して美人じゃねえが器量が良い」
「…そうか?」
「幸太はどうだったんだよ。お前に言い寄ってた女、結構いたよな?」
「別に…」
「相変わらず枯れてんな!」
幸太郎を幸太と呼び、ははっと笑い飛ばす数馬に、軽くため息をついた。
数馬は給金が出た後の花街通いを楽しみにしているようだが、幸太郎はそれに渋々付き合っているだけだ。新撰組のなかにも数馬のように女遊びの為に仕事に励む者も多いが、幸太郎からすれば『馬鹿らしい』の一言に尽きた。
(女なんて…口先から嘘を付いているようなものなのに)
幼い頃から女は特に苦手だった。笑顔の裏で何を考えているのかわからなかった。
「数馬」
「んー?」
「あの女…やめておけよ」
「ん?」
意識の半分ほどは酔っている数馬に、幸太郎は躊躇いつつも率直に述べた。
「あの女はお前のことを馬鹿にしているだけだ。お前が命を賭けて稼いだ金を渡すような価値は無い」
「…」
阿木という女は、新撰組だと聞くと突然態度を変えた。金を持っているのを知って、下手に出て執拗に数馬を持ち上げていたのだ。数馬は女の言葉を真に受けて嬉しそうにしていたが、それを傍から見ている幸太郎は不快極まりなかった。
幸太郎の意見に、数馬は少し怪訝な顔をした。
「…花街なんてそんなものだろ?男は皆騙されたくて通うんだ……全く、お前は真面目っつーか…人を疑いすぎるんじゃねえの?」
「……」
お気に入りの女を貶したのに、数馬は苦笑するだけで怒ったりはしなかった。
「…ま、お前の忠告は聞いておくよ。幸太は人を見る目があるもんな」
「……」
女には滅法弱い数馬だが、それも娯楽の一つと考えているようで男の友情と天秤にかけることはない。最終的には友情を取る…義理に厚い男だ。
数馬は幸太郎と同じ、六番隊の平隊士だ。入隊時期も同じで自然と仲良くなった。六番隊組長の井上源三郎は新撰組の礎である試衛館の出だが、温厚で偉ぶるところもなく優しい。二人とも六番隊に配属されたことは幸運だったと思っていた。
数馬は相変わらずの千鳥足で屯所へと歩く。時折、ふらついて転びそうになるのを幸太郎が腕を引いた。
「おっと、悪い。…そういや、明日は朝の当番だったよなあ…」
「ああ、だから早く帰ろうと言ったのに…」
「お前は先に帰ったっていいんだぜ?」
「…そういうわけにはいかない。お前を一人にしておくと…ろくなことがなさそうだ」
「ひでぇな、俺はガキじゃねえんだぞ」
雨の降るなか傘に弾ける雨音が五月蠅かったが、彼との会話はいつも心地よい。明るく裏表のない数馬は嘘を付くことはない。
数馬が笑い、また他愛のない話を繰り返す。お調子者の数馬としっかり者の幸太郎。幸太郎が数馬の世話を焼いているんだ、と先輩隊士たちは揶揄するがそうではない。
(たぶん、俺が一緒にいてもらっているんだ…)
幸太郎はそう思っていた。
この雑音の中で、何故か数馬の声だけが澄んで聞こえる――。


翌朝の巡察は昨晩から相変わらずの雨が降っていたが、いつもと様子が違っていた。
「…というわけで、井上のおじさん…じゃなかった、井上源三郎組長は体調を崩され寝込んでいます。そこで非番だった私が組長を勤めることになりました。よろしくお願いします」
「はっ!」
穏やかな笑顔で先頭に立ったのは一番隊組長の沖田総司だった。彼と井上組長は親戚筋に当たるらしく、時折「井上のおじさん」と親しげに呼んでいるのは知っていた。
しかし、新撰組の筆頭組長である彼が率いるとなれば、全員が自然と背筋が伸びた。剣の腕では誰も敵わない…数馬と幸太郎からすれば雲の上の存在だ。
「うー…身震いがするぜ。何かとちったりしたら、斬られちまいそうだ…」
数馬はそんな風に冗談を言って茶化したが、幸太郎は「そんなことないさ」と笑った。
(あの人は…人間として信頼ができる)
幸太郎にはその確信があった。
早速、いつもよりも気が引き締まった六番隊は巡察へと向かった。雨が降っているせいで全身びしょ濡れで動きづらい。それに視界も悪く、周囲に目を配るのも一苦労だ。
今日の巡察は入り組んだ町屋の一角。最近不逞浪士が出入りしているということで探索を強化している場所だった。
「今日の死番は?」
「…俺です」
「わ、私です!」
六番隊のなかから二人が名乗り出る。死番とは五人一組で周囲を探索する際に、一番最初に斬りこむ当番のことだ。敵の中に先陣して乗り込み、命の危険が伴うため『死番』と呼ばれている。定期的に回ってくるもので、もちろん誰だって嫌に決まっている。
【怖い…】
ふっと聞こえた声に幸太郎は「え?」と返した。恐怖におびえる声が聞こえたのだ。しかし数馬に
「どうしたんだよ?」
と呑気に返されてしまう。幸太郎はその時に(そうか)と悟った。
(また聞こえたのか…)
誰かの声が、雨と一緒に流れるように。
「では四半刻後にここに戻るように。何かあれば笛の音で知らせてください」
沖田組長の指示に、皆が背筋を伸ばして返答する。そして二組に分かれて歩き出す。組長は大抵、柔軟に対応できるように待ち合わせ場所で待つことになっているが、沖田組長はこちらにやってきた。
「…沖田先生、一緒に回れるのですか?」
「ええ、六番隊の皆さんと一緒に仕事ができる機会なんてないですからね。お邪魔ですか?」
その立場とは裏腹に愛嬌のある笑顔を浮かべる沖田に、幸太郎は「いえ」と首を横に振り、数馬は
「張り切らねえとな!」
と快活に答えた。沖田は「ははは」と笑い、他の隊士も含めてようやく巡察が始まる。
雨は相変わらず降り続けていて、バチャバチャと水溜りを諸共せずに歩いている。
今日の死番は田中だ。幸太郎たちよりも十ほど齢は上だが、最近入隊した隊士だ。猫背で年よりも老け込んで見える。
【いやだ】
【怖い…】
【死番は嫌だ…】
雨の降るなか、幸太郎の耳に入るのは田中の声だろうと思った。沖田に聞かれれば士道不覚悟で斬られてもおかしくはない弱音だが、口に出さない限りは罪にはならない。それを聞いているのは幸太郎だけで、誰にも聞こえはしないのだから。
(…何もなければいいが…)
あまりに恐怖に脅える田中に憐れんでそんなことを願ったが、こんな日に限って不幸なことが起こる。
「新撰組だッ!」
バタバタと数人の足音が聞こえてきた。不逞浪士の類だろう、雨であるが故にその足音が遠ざかっていくのがわかる。
「追いましょう!」
沖田の号令に、幸太郎たちが走り出す。一刻も早く捕まえなければそのまま逃げられてしまうような距離だ。しかし死番である田中は立ち止まったままだった。
「おい!どうしたんだよ!」
数馬が声を上げ、田中の背中を押す。だが、彼は立ち竦んだまま、動こうとはしない。
田中の顔は青ざめていた。唇が真っ青になって、手足が震えていた。
【死にたくない…!】
雨音に紛れて、彼の声が聞こえる。彼はもう戦意を喪失させていた。
「…先に行きなさい」
それまで穏やかで明るかった沖田組長の声が低く冷たいものに変わる。組長も田中の様子に気が付いたのだろう。
数馬は「ちっ」と舌打ちして走り出したが、幸太郎はその場にとどまった。
「お…沖田組長!」
「何ですか、あなたも行きなさい」
沖田は幸太郎にさえ冷たく一瞥した。『死番』は誰よりも勇敢に戦場に飛び出さなければならない、それができないのならば隊士でいる資格はない…その目が、そう語っているような気がした。
「…たっ…田中さんは、具合が悪いんです…」
「…」
「死番は、俺が…代わりに勤めます。だから、見逃してやってください!」
雨の中で叫ぶ。一緒に処断されてしまうかもしれない、という不安は否めなかったが、田中の【声】を耳にしてそのまま立ち去ることはできなかった。
沖田組長と幸太郎の視線が絡む。思わず怯みそうなほど強い視線だったが、どうにか逸らさないで懇願した。
その時だった。
【俺はもう駄目だ…!】
「えっ…?」
「わあああああああっ!」
それまで立ち尽くしていた田中が突然刀を抜き、沖田に斬りかかったのだ。
(無謀だ!)
幸太郎がそう思った刹那、沖田は一瞬で刀を抜き、田中を切り捨てた。新撰組一の剣豪に、田中の様な恐怖に慄いた男が敵うはずはない。
「…ああ…あああ…」
か細い声を上げて田中はその場に倒れた。雨と真っ赤な血が混じりあい、足元を汚していく。
「…上坂さん、でしたよね?」
血を払うように、刀を振った沖田はそのまま鞘に戻す。
「あなたは…わかっていたんですか?」
「…え?」
「田中さんが刀を抜く一瞬前に…あなたは何かに気が付いていた。まるでこの先の展開が読めているかのように」
「……」
それはたった一瞬のことだったはずだ。
田中が刀を抜く前に、幸太郎は察していた。田中が沖田に襲い掛かり、逃げ出すのだろうと。そしてその一瞬を沖田には見破られてしまった。
俺には聞こえていた。
「俺は…聞こえていました」
「…聞こえていた?」
「俺には田中さんの…いや、人の心の声が…聞こえるんです」



巡察が終わるころには雨が上がり、屯所に戻った時には晴れ間が覗いてた。
沖田に斬りかかった田中は返り討にあい、死亡。死番を恐れ、発作的に逃げ出したのだと話は広まった。
「おい、幸太!」
巡察を終え、雨に濡れた衣服を六番隊の部屋で着替えていると、数馬が慌てた様子でやってきた。
「お前、なんかやっちまったのか!?」
「何かって…数馬、声が大きい」
「なんで、んなに冷静なんだよっ!土方副長から呼び出しだぞ!」
数馬の遠慮のない声の大きさのせいで、六番隊の部屋…いやその隣室までも彼の声が響き渡る。そのせいでしん…と
部屋に静寂と沈黙が訪れてしまった。平隊士が鬼の副長に呼び出される…その用事といえば悪い方向にしか想像できないだろう。
沈黙を終えると部屋中の隊士たちがざわざわと騒ぎ始めてしまった。
「大丈夫だって。沖田先生も一緒だし…」
「そういう問題じゃねえって!田中さんの件、お前も傍にいたんだろう?なんかやらかしちまったのか??庇ったとか…!」
「…」
数馬が「やらかした」と思う方面と、幸太郎自身が「失敗した」と思う内容は少し違うだろう。
(沖田先生は…さすがに、鋭かった…)
田中が【もう駄目だ】と心で叫んだ声が聞こえ、幸太郎はそれに素早く反応してしまった。そのあとに
目に見える形で田中が沖田に襲い掛かり、返り討ちにあった。沖田はその一瞬早い幸太郎の反応を見逃さなかったのだ。
沖田はその場では幸太郎を問い詰めることはしなかったが、おそらくいま呼び出されているのはその件だろう。
「おいおい、幸太!聞いてんのか?!」
数馬は幸太郎の腕を掴み、揺さぶる。友人の危機だと取り乱す数馬に小太郎は
「とりあえず行ってくるよ」
と淡々と返したのだった。


部屋には土方副長と沖田のみがいた。思えば、一介の平隊士である幸太郎が土方と相対して言葉を交わすのは初めてのことで表情は強張っていた。
土方は腕を組み、じっと幸太郎を見ていた。その表情から声は読み取れず、幸太郎はうつむいてその強い視線を躱すのが精いっぱいだった。その様子を傍で見ていた沖田は、最初は黙って様子を見守っていたが、次第に笑い始めた。
「土方さん、あんまり睨んじゃだめですよ。上坂さんが困っているじゃないですか」
「…別に睨んでいるつもりはない」
「え?」
そんなに強く見ていたのに?と幸太郎は驚いた。沖田がそのリアクションにやはり笑った。
「ほら、土方さんがそんなつもりなくても、そう思うんですよ?」
「…うるさいな」
沖田が茶化し、土方が居心地が悪そうに腕を組みなおす。軽快な二人のやり取りで、幸太郎は少なくも自分が責められることはなさそうだと安堵した。
土方は「ごほん」と一度咳払いをして、幸太郎を見た。
「…で、上坂。お前の話は総司から聞いた」
「は…はい」
「人の心の声が聞こえる…それは本当なんですか?」
沖田からの直球の質問に、幸太郎は最初、口を噤んだ。沖田は半信半疑、土方は全く信じていないという様子だ。変な回答をすれば「頭がおかしいのか」と土方には罵られてしまいそうだ。
(だが…嘘をついても仕方ない)
幸太郎は意を決して答えた。
「…本当です。俺にはあの時…田中さんの声が聞こえました。『もうだめだ』…あの人はそういって沖田先生に斬りかかった」
「…」
「…」
二人が驚いたのと同時に黙り込んでしまい、幸太郎は(やはり)と思った。
このことを話すのは、二回目だ。最初は幼い頃、突然聞こえるようになったことを母親に告げた。しかし母はまったく信じようとせず
『この子はおかしい』
と周囲に触れ回った。そのせいでこの年になっても母とは距離を置いたままだ。
それ以来、これは誰にも理解されない、信じてもらえないことなのだと悟った。だから誰にも話すつもりはなかった。親友の数馬にさえ話していない。近しい存在であればあるほど、声が聞かれていることを恐れるだろうから。
「…では、いま私が何を考えているのかわかるのですか?」
沖田は恐る恐る訊ねてくる。誰しも自分の心の中を覗かれるのは良い気分ではないのだろう。
しかし、幸太郎は首を横に振った。
「残念ながら、今はできません」
「なぜだ?」
「…声は、雨が降っている時だけ聞こえます」
不思議なことに、心の声が聞こえるのは雨が降っている時だけだ。雨音と一緒にまるで流れ込むように聞こえてくる。
だから今日はたまたま田中の声が聞こえてしまったのだ。しかしそのことを証明しようにも、既に雨は上がり晴れ間が覗いていた。
「そうですか…残念だなあ」
沖田は暢気に笑う。土方はふう、と深く息を吐いた。
「上坂。俺はお前のその…聞こえるというのを、信じちゃいない。だがそれが本当だとしたら…」
「わかっています。俺のこの…変な力は、新撰組にとって邪魔ですよね」
雨の日に限るとはいえ、誰が何を考えているのか読み取ることができる。平隊士の些細な心の内なら構わないが、大幹部である土方たちにとっては迷惑なことだろう。
(除隊か…?)
そう告げられるのかと思い、幸太郎は覚悟を決めたが、
「じゃあとりあえず、一番隊で預かりましょうか」
と、傍にいた沖田が笑った。
「え?」
「私なら別に心の内に聞かれて困ることはありませんし、難しいことはわからないですからね。さほど不便もないでしょう」
「し、しかし…」
「お前が良いのならそうしろ」
沖田が幸太郎の身を預かると言い出すと、あっさりと土方は了承した。幸太郎は拍子抜けしてしまう。
「あ…あの…」
「心配しなくとも、他言はしません。この件は私と土方さんのみでとどめておきますから」
「いえ、そういうことではなく…俺は新撰組にいてもいいのですか?」
「何か問題でも?」
沖田は首を傾げた。邪気のない表情に彼が嘘をついていないということは心の言葉を読まなくともわかってしまう。
「あ…いえ、問題はありません…」
「じゃあ決まりですね」
戸惑う幸太郎を尻目に、沖田は笑い、土方はあっさりと受け入れたのだった。


「何を考えているんですか、土方さん?」
幸太郎が去った部屋で、沖田は早速土方に尋ねた。土方は手にしていた手紙を折り、机に置いた。
「別に…まだ何も考えちゃいねえよ」
「まだ…ですか。真偽のほどはともかく、彼が言っていることは嘘がないように思いましたけど」
「お前は信じているようだな」
「だって田中さんが逃げるということが彼にわかった理由がつかないですもん」
「…」
その点は土方も同じだったようで、ふう、と息を吐いて考え込むような仕草をした。
「…とにかく、他言無用だ。上坂が変な動きを見せたら…すぐに報告しろ」
「やだな、そういう意味で傍に置いたんじゃないんですよ」
「じゃあなんだっていうんだ」
「秘密です」
総司はほほ笑んで、それ以上は何も言わなかった。



近江国彦根出身。
剣の腕は目録止まり。
学はないわけではないが特筆した才能はない。どちらかと言えば無口で、上司に取り入って出世を目論むこともなく淡々と職務をこなす。まさに「平隊士」のなかの一人でしかない上坂幸太郎の一番隊への異動は隊内では大きな噂になった。
「…本当に異動なんだよなあ…?」
特に親しい宮川数馬はいまだに信じられないという顔を浮かべていた。
幸太郎は「そうだよ」と繰り返しつつ、荷物をまとめる。
沖田に呼び出され、土方から一番隊への異動がその日すぐに命じられた。てっきり除隊を言い渡されると思っていた幸太郎は全く心の準備もできていなかったが、それ以上に同じ六番隊の同僚たちは思わぬ発表に度肝を抜かれていた。
花形であり局長の親衛隊でもある一番隊への出世…よっぽど剣の腕が際立っているか、功績を上げなければ異動にはならない。その一番隊への異動を命じられた幸太郎は最初は好奇の目で見られたが、その視線は次第に不愉快なものに変わっていった。
「なんであいつが異動なんだ?」
「沖田組長に取り入ったのか?」
「不相応だろうよ」
心無い噂が聞こえてくる。もっとも、雨が降っていればもっと酷い文句が耳に入ってきていただろう。
「気にするなよ」
「ああ…」
数馬はそう言って幸太郎を励ましたが、幸太郎は雨の日になれば、表には出さない人の心の声を聴いている。それに比べれば、気に病むほどのものではない。
それよりも気にかかるのは一番隊への異動の理由だ。幸太郎自身にもよくわからない。人の心の声が聞こえる…そう聞けば、普通は気味悪がって遠ざける。幸太郎自身もそういう目に遭ってきた。しかし、沖田はそれを許容し「構わない」と受け入れた。土方も異論はないようだった。
(まあ…沖田先生の手元に置いて、監視する…ってところか)
それをポジティブな理由とは思えなかったので、どうにか自分を納得させる理由を見つけつつ、荷物をまとめる。物に固執しない性格ゆえか小売りの中は数着の着物と身の回り物だけだ。往復することなく済むだろう。
すると
「上坂さん」
と部屋の外から声がかかった。顔を出したのは沖田組長だった。
「お、沖田先生…」
それまでひそひそと噂話をしていた隊士たちの表情が固まるが、沖田は気にせずに上坂のもとへやってきた。
「荷物まとまりました?」
「え?ああ、はい…」
「じゃあすぐに来てください。早速、みんなが歓迎会をしようって言っているんですよ。一番隊に新しい人が来るのは珍しいですからね」
「はあ…」
「待ってますから」
沖田は曇りのない笑顔で去っていく。まるで六番隊の暗澹とした部屋に吹き込んだ爽やかな風のようだった。
傍にいた数馬もぽかんと口を開けていたし、幸太郎も戸惑ったが、どこかで安堵していた。
(歓迎…されているようだ)
組長によって各隊の雰囲気は変わるという。一番隊はあの穏やかで笑顔の絶えない沖田が組長を務めている分、雰囲気も和やかなものなのかもしれない。
「…じゃあ…行くよ」
幸太郎が行李を持ち上げると、数馬が「待った」と袖を引いて引き止めた。
「お前が一番隊に行っても…これまで通りだよな?」
「これまで通り?」
「…その、飲みに行ったりとか、遊びに行ったりとか…そういうことだよ」
数馬は心配そうに顔を歪めて尋ねる。まるで遠くに引っ越してしまう友人を引き留める子供のようだ。幸太郎は内心微笑みつつ
「当たり前だろう」
と答えた。


歓迎会から数日、ようやく一番隊に馴染み始めた頃に小雨が降った。
「上坂さん、出かけましょう」
非番であった一番隊では各々が悠々自適に過ごしていたが、沖田組長は幸太郎を指名して外出に誘った。
その意図を、幸太郎は察していた。
(試したいのか…)
次、雨が降った日にはおそらく沖田か土方は幸太郎の能力の真偽を確かめるだろうと思っていたので、
「わかりました」
と、すぐに誘いに乗った。それに雨の日に人の多い屯所で過ごすのは聞こえなくてもよい声が聞こえてくるのであまり好きではない。
傘を差し、屯所から大通りへ出る。ぽつぽつと耳元で弾く雨音に混じって通り過ぎていく人の声が聞こえる。雑多な会話の内容ばかりだが、口から出ていく言葉と重なって煩い。
「上坂さん、聞こえているんですか?」
隣を歩く沖田は率直に尋ねてきた。これまでひた隠しにしてきた分、幸太郎には新鮮だった。
「…まあ、はい」
「私が何を考えているのかも?」
「先生は…」
老若男女、数ある声の中から沖田の声を探す。するとその心は微笑ましいことを口走っていた。
「…【みたらし団子が食べたい】、と」
「ははっ 正解です。本当に聞こえているんですねえ」
「…」
沖田は手を叩いて喜んだ。普通、心の声を見抜かれて喜ぶということはないと思うのだが、まるで子供の遊びのように楽しそうだ。
「この先にあるみたらし団子のおいしいお店に案内しようと思っていたんです。上坂さん甘いものは?」
「積極的に食べるわけではありませんが…嫌いではありません」
「良かった。土方さんは付き合ってくれないんですけど、一番隊の皆も気に入っているお店なんです」
口にする言葉と心の声が一致している人は少ない。表面では取り繕い、心で悪態をつく人なんて山ほどいる。
そんななかで沖田の存在は珍しい。心の感情と実際の表情が一致している。
「そういえば、宮川さんでしたっけ?」
「え?」
「六番隊の…仲いいですよね。彼の声を聴いたことはあるんですか?」
数馬とは入隊時期が重なったこともあり、親しい。この不思議な能力について打ち明けていないものの、傍から見ても新撰組の中で一番近しい存在と言えるだろう。雨の日、彼とともに過ごすことも沢山あった。しかし
「いえ…聴いたことはありません。聞かないようにしています」
「そうなんですか?」
沖田は意外そうな顔をした。
「…近しい存在で在ればあるほど…聴きたくはないんです」
沖田のように表裏のない人間なら良いけれど、しかしそれがもし違ったら。
数馬が幸太郎のことを疎ましく感じているようであったら。
(俺は…その声を聴いてしまった自分を恨むだろう)
「…そういうものかもしれませんね」
沖田はそれ以上は尋ねず、「行きましょう」と足取り軽く歩き出す。
雨の中を、軽やかに。


沖田に案内された甘味処は近所でも評判だそうで、人ごみで賑わっていた。すべての席が埋まっていたが、沖田の顔なじみの女将が奥の席へと案内してくれた。
「こちらへどうぞぉ」
【雨やまねえなあ】
「お嬢ちゃん、茶ぁおかわりー!」
「ただいまー」
【あいつ、陰口言ってやがるに違いねえんだ】
【佐幕の奴らを都から追い出すんだ】
「あの島原の女がさあ…」
奥の席とはいえ、雨音に混じって人の声は聞こえてくる。それが口を伝ったものなのか、心のそれなのかはわからない。
「…大丈夫ですか?」
沖田は幸太郎の顔色を伺ってきた。二重になって聞こえる人の声は、まるで耳鳴りのように響く。自然と顔が歪んでいたのだろう。
「大丈夫…です。慣れてます」
「…聞こえるようになったのはいつからなんです?」
「覚えていません。物心ついた頃には既に…でも最初はこれが人の心の声だとは気づかなかった」
だから最初は聞こえてきた言葉が何を意味するのかわからずに、聞こえてくるすべての言葉に返答をしていた。すると次第に母が気味悪がり、周囲から特異なものを見るように遠巻きにされた。
「聞いてはいけないものを聞いているんだと気が付いたのは、十も過ぎてからでしょうか…」
「ふうん…時々、幽霊が見えるっていう人もいますけど、そんな感じなのかな」
【土方さんは幽霊自体信じてないけど】
「…はあ、まあ、たぶん」
沖田の楽観的な感想に、幸太郎は拍子抜けする。評判には聞いていたが、この組長はどこかほかの人と感覚が違うように思う。
(でも…居心地がいい)
恐れられることはしばしばあったが、極端に興味を持たれるのも迷惑だった。しかし目の前の彼は程よい距離感で接してくれている。
「二人前、お待ちどうさんどすー!」
店の女将が温かい茶と注文していたみたらし団子を持ってきた。沖田は満面の笑みになる。
「わあおいしそう!」
「せんせ、いつもと変わらしまへんえ」
「いつもおいしそうだって思ってるんですよ」
「ふふおおきに。ごゆっくりどうぞぉ」
中年の女将は顔に皺を作って喜んで去る。
【新撰組は嫌いやけど沖田せんせは感じがええわ】
幸太郎は彼女の心の声が聞こえてきた。新撰組を嫌う町人は山ほどいるが、彼には好意的に接する人が多いようだ。彼の人柄ゆえだろう。
「遠慮しないで食べてください。ほんと、おいしいんですから」
「…いただきます」
沖田に勧められるままみたらし団子に手を伸ばす。少し焦げた餅が黄金色のたれに絡まって照っていて口に含むとその甘さが口に広がった。しかし不快な甘さではない。
「おいしい…」
「ふふ、ですよね。気に入りました?」
【土方さんも気に入ると思うんだけど付き合ってくれないんだよなあ…】
「…はい」
まるで子供のように団子を頬張る沖田の心の声が聞こえた。ちらほらと『土方』の名前が出てきてそのたびに幸太郎は落ち着かない気持ちになる。
(噂通り、二人は…そういう関係なのだろう)
彼が心の声で『土方』を呼ぶとき、いつもどこか幸福に満ちた甘い囁きのような声になる。色恋沙汰に縁のない幸太郎でさえその理由は明らかだった。
しかし、首を横に振った。
(…こういう詮索は良くないな)
かつて好意を持ってくれていた女の子の心の声を覗いたことがある。その女の子は自分ではなくほかの人のことを好きで、幸太郎は酷くショックを受けたのだ。それ以来、特に恋色沙汰にはこの不思議な力を使わないように意識していたのだ。
気を紛らわせよう、ともう一本の串に手を伸ばす。すると沖田はすでに完食していた。
「…で、上坂さん。今日一緒に来てもらったのには理由があるんです」
「は…はい」
幸太郎は手にしていた串を皿に戻す。先ほどまであっけらかんとしていた沖田の表情が変わっていたからだ。
「出入り口の…すぐ隣の席。ああ、振り向いちゃだめですよ」
「は…」
「浪士風の三人組です。いつもここで屯しているんですが、監察によるとどうやら討幕派らしいということでしたが…確証が掴めていないんです。…上坂さん、何か聞こえませんか?」
「……」
なるほど、と幸太郎は得心した。沖田の目的はみたらし団子だけではなく、屯している三人組の調査も兼ねていたらしい。気は進まなかったが、断る理由はなく
「…少し、集中してみます」
と目を閉じた。すると雑多な声が行き交うなかで、不穏な声が聞こえてきた。
【新撰組のせいで動きづらい】
【壬生を襲撃すればいい】
【桂さんは何をしてる…】
「…桂さん…」
「桂小五郎ですか?」
聞こえてくる大物の名前。沖田は目を見開いて驚いた。不穏だと警戒はしていても、そこまで大物とつながっているとは思っていなかったのだろう。
「確信はありません。俺はまだあの三人組の実際の声を聞いていませんから」
「…なるほど、その声が三人のものかどうか、確かめなければならないんですね」
沖田が思案し始めた同じタイミングで、三人組が席を立った。
「女将、お勘定だ」
「へえ、おおきに!」
小銭を置いて出ていく三人。そのリーダー格の男の声は、一致した。幸太郎は沖田と視線だけを合わせて頷き立ち上がる。幸太郎は残っていた一本を急いで口に放り込んだ。
「女将、こっちも」
「もうお帰りどすか?」
「急ぎの用事が入ったんです。また来ます」
幸太郎は総司とともに急いで店を出る。雨の中、三人組は傘も差さずに店から大通りに出て右の角に曲がっていた。
二人は後追い、同じ角で曲がった。
「くそ、傘持ってくればよかった」
「もう濡れちまったんだから、仕方ねえよ」
幸太郎と沖田の気配に気が付いていない三人組は、緊張感のない他愛のない会話を交わしている。
(間違いない…)
心の声と一致する声色。幸太郎は沖田に視線をやると、彼もその意図に気が付いたようだ。すると沖田は突然叫んだ。
「桂小五郎ッ!」
すると三人組は機敏に反応し振り向いた。
「な、なんだお前たちは!」
【なぜ先生の名前を?!】
「何者じゃぁっ!」
明らかな敵意を向ける三人は、刀を抜いて構える。桂小五郎の名前に動揺を隠しきれない。幸太郎も柄に手をかけたが、沖田に
「下がっていてください」
と阻まれた。
「しかし…!」
(一人で三人なんて…)
幸太郎からすれば、相手の力量も分からないなかで、三人を相対するなんて無謀だとしか思えない。
しかし沖田は特に表情を崩すことなく、ゆっくりと刀を抜いた。
丁度、雨が強くなっていく。
敵対する三人からは
【新撰組か…?!】
【ふん、たった一人じゃ!】
と興奮した声が聞こえてきた。しかし沖田からは何の声も聞こえなかった。
不自然なほど、静まり返っている。
(無心…か…)
刀を抜いた彼の横顔はまるで別人のように研ぎ澄まされている。
おそらく雨に打たれても、冷たいとすら感じていないのだろう。
「ヤアアアアアッ!」
「おおおっ!」
三人のうち二人が沖田に斬りかかってくる。狭い道幅では並んで斬りかかることはなく、沖田はまず最初の男を薙ぎ払い昏倒させる。そして次の男に向かい、頭上から振り落とされる刀をあっさりと跳ねのけた。
「ひ、ヒィッ…!」
【鬼…!】
手から刀を奪われ、恐れを成した男は心から恐怖し、沖田に平伏すようにその場に座り込んだ。
「ち、畜生…!」
唯一、斬りかからずにいた男はそのまま仲間を置いて走って逃げていった。沖田は深追いすることなく刀を鞘に収める。
「上坂さん、捕縛です」
【あーよかった。土方さんも喜ぶだろうな】
「…は」
「捕縛」
「は、はい…」
剣を抜いたあの時。
ひたすらに無心だった沖田の声が、また聞こえ始めた。それがあまりに子供のように無邪気で。
幸太郎は正直、拍子抜けしてしまったのだった。



振り続けていた雨が止む頃、幸太郎は屯所に戻ったのだが。
「お手柄だなあ!上坂!」
飾りのない賛辞で幸太郎を出迎えたのは、一番隊伍長の島田だ。大きな体躯で威圧感のある見た目に反して内面は人が良く穏やかな彼は、周囲から頼られ好かれている。
しかし、彼が何をほめているのかわからずに幸太郎は首を傾げた。
「お…お手柄?」
「沖田先生から聞いたんだよ!討幕派の奴ら、三人も捕縛したんだって?」
「え?」
幸太郎の困惑をよそに、島田は肩を組んで続けた。
「何でも桂小五郎に近い浪人だったらしいな!」
「は…はあ、まあそうだったようですが、俺は…」
「土方副長も上機嫌だってさ!」
まるで自分のことのように喜ぶ島田は、幸太郎の話が耳に入っていないらしい。
三人の浪人を捕縛したのは沖田だ。自分はそのきっかけを作っただけで、刀すら抜いていない。しかし沖田はそれを幸太郎の手柄にしたらしい。
(俺への気遣いかもしれないが…)
突然、六番隊から一番隊へ『昇格』を果たした幸太郎は好奇な目に晒されていた。土方に取り入ったのだとか、沖田から気に入られただけだとか、不愉快なうわさが飛び交った。しかし幸太郎自身は、実際に実力がないのだから仕方ないと思っていたのだが、沖田はこうした実績を作ることで幸太郎への心無い批判を取り払いたかったのかもしれない。
(…だが…)
心の声を聴かなくともわかる。
島田と同じように幸太郎を称える一番隊の隊士たち。
遠巻きにちらちらとこちらを見ながら、羨望と悔しさをにじませる他の組の隊士たち。
そして、かつて所属していた六番隊の隊士からは『なんで上坂が』と言わんばかりの冷たい視線。
(目立ってしまったようだ…)
幸太郎は内心溜息をついた。この特殊な能力が宿っていると知ってから、どこか自分の身を隠すように
過ごしてきた幸太郎としては不本意な状況だ。
だが、島田は気が付かず
「今日は宴会だ!」
と隊士らと騒ぎだす。他の隊に比べても結束力の強い一番隊隊士たちは、すっかり乗り気だ。
「ちょ、島田さん…」
「何処にするか!」
「やっぱり島原か、上七軒あたりか」
「お前お気に入りの女がいるところがいいんだろう?」
「そんなんじゃねえよ!」
ワイワイと今夜の祝宴の場所について盛り上がり、話が進んでいってしまう。幸太郎としてはこれ以上、騒ぎ立てられるのはさらに高貴な目線が集まってしまうし、そもそもなぜ捕縛できたのか…その時の状況を探られると困る。
(どうしたものか…)
慌てていると
「島田先輩」
と澄んだ声がその場に響いた。
「山野」
「上坂さん、困っていらっしゃるじゃないですか。それにこういうことは沖田先生にお伺いしてからの方が良いのではないですか?」
同じ一番隊の山野だ。島田に比べれば一回り以上小柄な山野は、整った愛嬌のある顔立ちで評判であり、中性的な雰囲気を醸し出すが、実は一番隊の中でも一番のしっかり者で、こまめに良く働いている。沖田にも気に入られ、隊内でも一目置かれている存在だ。
「そ…そうか。いや、そうだな」
それまで興奮気味だった島田が、急に大人しくなり頭を掻く。ひとまず沖田の指示を仰ぐということになり、その場は収まった。
「…ありがとう」
幸太郎はこっそりと山野に声をかける。山野は「いいえ」と首を横に振った。
「皆、悪い人じゃないんです。本当に心から上坂さんのことを祝っているんです」
「それは…わかる」
六番隊のギクシャクした人間関係に比べれば、一番隊はフランクな仲に思える。お互いがお互いを信頼している…そんな雰囲気を作り出しているのは沖田なのかもしれない。
「また機会を改めましょう」
山野はそう言ってにこやかに笑い、島田のもとへ向かっていく。一番隊の中でも親密な二人はどうやら『そういう』関係らしい。それに気が付いてしまったのは、少しだけ小雨が降った数日前、島田の聞いているだけで恥ずかしい、溢れだす山野への心の声を聴いてしまったからだ。
「…ふう」
話が収まり、ようやく一息つく。
それにしてもこんなに大ごとになるとは思っていなかった。沖田に誘われ、言われるがままに心の声を聴いた。それはこの能力の『良い使い方』なのかもしれないが、そのせいで自分の評判が上がりそのままそれが昇進につながってしまうのだとしたら、後ろめたい。
(これから…どうなるのだろう)
漠然とした不安を抱えていると、
「幸太郎!」
と親しげに声をかけてきた。
「数馬…」
「どうしたんだ、こんなところに突っ立って。…話聞いたぜ、大手柄だって?」
六番隊にいた頃と変わらない気さくな雰囲気に幸太郎は安心する。まだどこかで一番隊に馴染めていない自分がいるのだろう。
「ああ…でも、俺の手柄っていうわけでもないんだ。だから大手を振って喜ぶわけにはいかなくてな」
島田や山野には言えなかった心情も、数馬になら吐露してしまう。数馬は首をかしげた。
「そうなのか?まあいいか、ちょうどこっちもこれから非番なんだ、一緒に飲みに行こうぜ。詳しくはその時に教えてくれよ」
彼の誘いに幸太郎は迷ったが
「わかった」
と承諾した。
空はまた雨が降りそうな、薄い雲が覆っていた。



数馬とともに行きつけの居酒屋にやってきた頃には夕方になり、ぽつぽつと雨が降り始めてしまった。
「…」
恨めしげに幸太郎が雨雲が流れる空を見上げていると、
「どうした?」
と数馬が尋ねてきた。
容易に人の声を聴けてしまう雨の日は外出を控えていたが、途中からこうなってしまっては仕方ない。
「何でもない」
幸太郎はそう答えて、数馬とともに暖簾をくぐった。
顔なじみの女将に「いつもの」と慣れた様子で注文をする。沖田とともに甘味屋に向かうのも悪くないがやはり親しい顔とともに親しい場所にいる方が落ち着く。
幸太郎は周囲の心の声をシャットアウトするために、数馬との会話に集中することにした。
「どうだ、一番隊は?」
酒を注ぎながら、数馬が問いかける。幸太郎は「うん」と少し返答に迷いつつ答えた。
「沖田先生や隊士の皆は親切に接してくれているが…やはり分不相応な気がする」
「相変わらず馬鹿真面目だなあ」
「真面目とかそういう話じゃない。あそこはやっぱり秀でた人が選ばれて、集まっているんだ」
誰よりも忠実で、誰よりも剣術に長ける。そんな選ばれしものが集まった花形。一番隊という場所に属していながらも、幸太郎にはその場所にいることに対して落ち着かなかったし、そんな自分を俯瞰して見ていた。
「…まあ、だから周囲が俺の陰口を言うのはわかるよ。身の丈に合っていないってな」
この不思議な能力さえなければ配属されなかったということは誰よりも自分が良く知っていた。そして土方が「使えるものは使う」主義だったからこそ、一番隊に移動になったのも分かっている。
しかし、数馬には理解できないだろう。
「俺は我慢ならないな」
数馬は悔しそうに顔を顰めて、一気に酒を煽った。
「お前、またそんなに飲むなよ。すぐに悪酔いするんだから」
「胸糞悪くて仕方ねえんだよ。六番隊の奴ら、仲間だったのに幸太が移動になった途端、まるで敵みたいに陰口ばっかり叩きやがって……幸太が一番隊に移動になったのは、沖田先生や土方副長が認めたからだろ?だったら周囲の奴らが文句を言う資格なんてないんだよ」
友情に厚い数馬は苛立って吐き捨てる。酒を煽るのは戴けなかったが、それでも自分のことでもないのに幸太郎のことを心配する数馬には、感謝の気持ちでいっぱいになった。
(良い奴だよな…)
入隊時期が重なり、同じ六番隊に配属された。すぐに意気投合して、今では一番の親友だ。
新選組に入隊したことを後悔することはあっても、彼との出会いには感謝できる…そんな仲だ。
そして同じように数馬も思っていることだろう。
「良いんだよ。言われたい奴には言わせておけば…相手にするだけ無駄だ」
「そりゃあ、そうだけど…俺が喧嘩っ早いのは幸太だって知っているだろう?いつか殴っちまいそうだ」
「勘弁してくれ。私闘を許さず…局中法度にもあるだろう」
「冗談だよ」
冗談だと言いつつも、数馬はまだ納得できない表情を浮かべていた。
勇猛果敢ではあるが屈強な男たちのなかでは小柄な数馬だが、喧嘩っ早いところがあるのは玉に瑕だ。
幸太郎は話題を変えることにした。
「それはそうと…阿木の所にはまだ通っているのか?」
「阿木…?ああ、祇園のか…」
阿木は数馬の馴染みの女だ。非番の日には足しげく祇園に通い、数馬の方が彼女に惚れこんでいる様子だった。
しかし数馬の反応は鈍い。
「…なんだ?」
「最近は…通ってないな」
「そうなのか?」
「…お前が言ったんだろう?あの女はやめておけって…」
数馬に連れられて、幸太郎も祇園に通っていた。相手の阿木のことも良く知っている。甲高い声の大きな瞳で、唇の厚い女。傍から見れば可愛らしい女性に映るだろう。しかし、ある雨の日に彼女の本音を聞いてからは毛嫌いしていた。
『ただの新撰組の薄らボケ』
『田舎者のくせに』
数馬に愛想を振りまきながら、心では彼のことを軽蔑をしていることに吐き気がするほど嫌気がさしたのだ。
それから幾度となく『あの女はやめておけ』『他にもいい女はいる』と諭してきたが、数馬は聞く耳も持たなかったのに。
「別に良い女でもできたのか?」
色恋に浮足立つ数馬のことだ。阿木よりも良い女でもできたのかと疑うと
「女遊びなんかしてねえって!」
と、思いがけず彼が大きな声を上げた。夕暮れ時で賑わっていた居酒屋が少し静まる。
「数馬…?」
「あ…ああ、ごめん。あはは、すんません、ちょっと酔ったみたいで」
数馬ははっと我に返ったかのように笑い、周囲の客にも手合わせて軽く頭を下げた。それで居酒屋の雰囲気は戻るが、幸太郎にはもちろん違和感が残った。
(酔ったって…)
酒に弱いとはいえ、まだ二杯ほど煽ったくらいだ。酔うほどは飲んでいない。それに酔ったとしても数馬は悪酔いするタイプではない。
「ごめん、急に大きな声出ちまった。お前がしつこく聞くからさ…もう女の話はいいだろう?」
「あ…ああ」
かっと熱くなったと思えば、すぐにいつもの笑顔を浮かべる。
そんな数馬のことが、幸太郎にはわからない。
(何だ…?)
彼と離れてまだ数日しか経っていない。今まではお神酒徳利のように何も口にしなくても通じ合えたとおもっていたのに、今はそれを感じることができない。
何か言ってはいけないことを口にしたのだろうか。
もしくは、阿木と何かあったのか?
…それとも。
(他の隊士たちと同じように…お前も俺のことを良く思っていないのか…?)
数馬には上昇志向はなかったはずだが、一番隊に行ってしまった幸太郎のことを怨めしく思っていてもおかしくはない。
(何を思っているんだ…?)
幸太郎はふっと外の音に耳を澄ませた。
大雨だ。
ざーざーと降り注ぐ音と、その雨粒が地面で弾ける音が聞こえてくる。
「…あーあ、すげぇ、雨だなあ…」
数馬は何かを誤魔化すように話を続けようとする。しかし彼がどれだけ誤魔化そうとも、茶化そうとも、この雨の中では無意味だ。
(お前が何を思っているのか…俺にはわかってしまうんだから…)
幸太郎は躊躇いつつも耳を澄ませた。今まで堰き止めてきた欲望に負けて、今目の前の親友の心の声を聴こうとしている。
背徳感はある。
罪悪感もある。
けれどそれ以上に、
(数馬がほかの奴と同じことを考えているのかもしれない…)
親友だと思っているのは自分だけで、数馬でさえも離れていくのかもしれない…そんな不安に駆られてしまったのだ。
すると次第に周囲の心の声に混じって、数馬の声が聞こえてくる。
【何で阿木の話なんかするんだよ…】
数馬の声は寂しげだ。
やはり阿木の話をしたのがいけなかったのか…幸太郎は安堵しかけたが、
【俺はお前が好きなのに…】
「え?」
その言葉に、耳を疑った。
「…ん?幸太、どうした?」
「え…?いや…何でも、ない…」
聞かなかったふりをして、平然を装う。
そんなことすらできずに、ただそう答えるのが精いっぱいだった。



その日の夕暮れ。居酒屋を出て屯所に向かう頃には、豪雨はすっかり上がっていて雨の滴が葉先からポツポツと落ちるだけになっていた。
「雨、上がって良かったよな。傘持ってなかったからずぶぬれで帰るところだったぜ」
「…そうだな」
数馬は足取り軽く幸太郎の前を歩く。水たまりを跳ねるように飛びながら歩く数馬は、辺りで遊ぶ童と変わりなく、無邪気に見えた。
雨が止んだ今、彼の心の声はもう聞こえない。雨脚が強ければ強いほど、それに連動するように心の声ははっきりと聞こえる。だからあの時聞こえた数馬の声は、確かに彼のものだ。
【俺はお前が好きなのに】
幸太郎は頭をくしゃっと掻いた。その言葉の意味が分からなくて、混乱していた。
(どういう意味なんだ…)
好き、の意味は様々あるだろう。友人としての好意なら有難く受け取ることはできる。しかしまさか懇意にしていた阿木を引き合いに出して自分の名前が語られるとは思っていなかったのだ。
もちろん幸太郎も数馬のことは親友だと思っている。
新撰組に入隊して一番良かったと思えたことは数馬と出会えたことだ。それまで不思議な能力のせいで家族や友人と距離を詰めることができなかった幸太郎にとって、なぜか心を許せる唯一の存在だ。
けれど、それ以上はない。
それ以上の関係を築こうと思ったことはない。
「幸太、どうした?」
「…え?」
「あはは、眉間に皺!」
数馬がからかって、幸太郎の眉間を指先でつつく。深く刻まれた皺が幸太郎の顔を歪めていたのだ。
けれど
「やめろ」
幸太郎はとっさに、数馬の手を振り払った。叩き落すように強く払ってしまったのは指先から伝う彼の体温が身体を強張らせたからだ。
反射的な行動に出てしまったものの
(あ…)
とすぐに後悔した。数馬が一瞬、傷ついた顔をしたのだ。
「数…」
「わ、悪い!びっくりさせたよな?」
幸太郎は動揺を隠せなかったが、数馬はすぐに笑って「ごめんごめん」と軽く謝った。けれど幸太郎は数馬が一瞬見せた悲しい表情が目に焼き付いていた。
(何を…思っているんだろう)
笑って見せる彼の裏で、いま何を思っているのだろう。
手を払い除けたことを、どう思っているのだろう。
誰かに対してこんなことを考えたのは初めてだ。今までは誰の何の感情も声も「知りたくない」と願い続けていた。目の前の人間が笑顔の裏で、何を考えているのかなんて知りたくもなかったから。
まるですべてが嘘に思えてきそうで。
何もかもを信じたくないと絶望しそうで。
でも
(俺は何でこんなにも…知りたいと思うのだろう)
自分のことを好きだと思っている数馬の、何もかもを知りたい。それは友情なのか好奇心なのか、幸太郎にはわからない。
でもその一方で、罪悪感も募っていた。
「幸太?」
「あ…いや、何でもない」
「どうした、調子でも悪いのか?お前、居酒屋でも途中から変な顔してたし…何かあったのか?」
「…」
(俺はお前の心を盗み聞いた…)
伝えるつもりはなかったのかもしれない。ずっと心に秘めて友人として一緒に居たかったのかもしれない。
でもいま、幸太郎が彼の声を聴いたことですべてを台無しにしてしまったのではないか。
すべてを壊してしまったのではないか。
「…そうかもしれない」
「ん?」
「先に戻る」
幸太郎は心配する数馬を置いて歩き出す。彼が「おい」と呼んだのを背中で聞いたが、聞こえないふりをした。
(忘れよう)
幸いにも隊を離れたいま、数馬の心の声を聴くことはない。遊びに誘われても雨の日を避ければ問題ない。
(もうあいつの声を聴くことはない)
それが唯一自分にできる『誠実』な行動だと、幸太郎は自分に言い聞かせたのだった。


屯所に戻ると、夕陽はすっかり落ちていて辺りは薄暗くなっていた。
「ああ、お帰りなさい。夕餉を食べ損ねるところでしたね」
幸太郎が丁度鉢合わせたのは、組長である沖田だ。夕餉を終え食べ終えた食器を下げるところだったようだ。
「いえ…俺は、外で…食べてきましたから」
「そうですか。そういえば今日の昼間は豪雨が降ったでしょう。大丈夫でしたか?」
「…」
能力のことを知っている沖田は気遣っているつもりなのだろうが、今の幸太郎にはぐさりと刺さる言葉だった。
(雨さえ降らなければよかったのに)
どうしようもない後悔といら立ちに襲われる。
数馬の声を聴いてしまったのは自分の弱い心のせいなのに、八つ当たりをしてしまいそうになる。
「…大丈夫です」
ぐっと感情を堪えて、できる限り表情には出さずに返答したつもりだったが、沖田は「ふうん」と訝しげに首を傾げた。だがさすがに沖田に事情を話すわけにもいかず、これ以上探られるのも億劫だったので
「すみません、少し調子が悪いので休みます」
と軽く頭を下げて通り過ぎた。
一番隊の隊士たちが寛ぐ大部屋に入り、袴を脱いで布団を敷いた。
「もう寝るのか?」
「早いなー」
揶揄する隊士たちには返答もせずに、すぐに頭まで布団を被った。
目をぎゅっと閉じて、身体を丸めた。早く眠りたかったのに、けれどすぐには眠ることはできなかった。
(人の気持ちなんてわからなければ良いのに)
自分の気持ちだけで精いっぱいなのに。
幸太郎は自己嫌悪に陥っていた。





「それで、どうなんだ…上坂は?」
「何がです?」
まるで心当たりがないという返答をした総司に、土方は少し呆れたような表情を浮かべた。
「決まっているだろう。人の心が聞こえるっていう…」
「ああ、あれですね。本当みたいですよ、どうやら」
総司は広げられた煎餅に手を伸ばした。
「この間も見事に浪士の捕縛に成功したでしょう?それに私が思っていたことも一語一句間違いなく諳んじていました。すごいですよねえ」
硬い煎餅をかみ砕きながらの暢気な言葉に、土方はやれやれと言わんばかりにため息をついた。
「すごいとか、そういう話じゃねえんだ。それが本当なら…適材適所、考えなければならない」
「監察へ異動ですか?」
たとえ雨の日限定だとしても、人の心を読み解くことができる幸太郎の力は監察で最も有用だろう。総司は単純にそう考えたのだが、土方は「いや」と拒んだ。
「余計なことを探られても困る」
「あはは、土方さんは何を警戒しているんですか?」
「警戒するに決まっている。お前だって何もかも聞かれてしまうのは良い気はしないだろう」
「別に私はやましいことはありませんけど…。あ、本当は土方さんが嫌なんじゃないですか。自分の心の声を聴かれて一番困るのは土方さんなのでしょう?」
「…」
「図星なんですね」
軽快に笑う総司を横目に、土方は「ふん」と息を吐き手にしていた書類に目を通す。
「何ですか、それ」
「上坂が入隊したときの名簿だ。近江、彦根の出か…」
「別に上坂さんを探ったところで何もないと思いますけど…人の声が聞こえるようになったのは、幼年のことだそうですよ。最初は普通のことだと思っていたせいで、周囲からは見えないものが見えているのではないかと、遠ざけられたそうですが…」
総司の話に土方は「そうだろうな」と頷く。人の心を言い当てられるのは気持ちの良いものではない。それが能力に無自覚な幼年の頃ならなおのことだ。幸太郎がどこか他人に関わることなく距離を置いていたのも、そのせいなのだろうと土方は推察する。
総司は二枚目の煎餅に手を伸ばした。
「…まあ、このところはどこかふさぎ込んでしまいましたけど」
「何?」
土方が『鬼副長』の表情を覗かせたので、総司は慌てて
「ああ、いえ、隊務に支障をきたすほどではありませんよ。きちんと仕事はしているし、怠慢ではありません」
と否定して続けた。
「宮川君と何かあったんじゃないですかね。先日、二人で出かけて戻ってきてから様子がおかしいですから」
「宮川…宮川数馬か」
「ええ、もともと六番隊にいた頃、二人は親しい友人だったそうですよ。花街なんかも一緒に出掛けたり…」
「ふうん…」
土方は幸太郎に続いて数馬の書面を探し当てた。総司もそれを覗き込んだ。
「同じ近江の膳所か…入隊時期も同じだな」
「ああ、だから仲が良いんですね」
「…」
土方はどこか難しい顔をして書面を伏せた。それまで総司の隣でどこか気を緩めていた表情とは違い、『鬼副長』のそれになっている。
「…どうかしました?」
「いや…お前には関係のない話だ」
「…そうですか」
(きっと何かに気が付いたのだろう)
副長として表沙汰にできない事柄は、土方は決して誰かに相談するということはない。監察に指示を出し適格な判断で結果を得る。一番近しい総司でさえ、漏らすことはない。
(それが悪いとは言わないけれど…)
それをいくつも抱えていては、重たくて仕方ないだろうとも思う。
総司は最後の一口を放り込んだ。
「…あ…」
開いていた襖の隙間から、ぽたぽたとか細い小雨の音が聞こえてきた。雨脚は激しくなり、バチバチと地面に落ちる音がすべての音をかき消していく。
(きっとまた上坂さんは声を聴いてしまうのだろう)
本人が望む、望まないに限らず、その音を拾って抱え込んでしまう。
「土方さんに似てるな…」
人の心の声が聞こえる。それを誰にも言えないで、聴いたことも聞かないふりをするしかない。自分だけが抱えて、生きていかなくてはならない。そんな彼の状況が土方のそれと重なった。
「…なんだって?」
激しい雨の中でも土方は総司のつぶやきを聞いていたらしい。相変わらずの地獄耳に総司は苦笑する。
「いえ…」
(土方さんの声が聞こえればいいのに)
少しだけそう思って、しかし総司は首を横に降った。
声が聞こえないからこそ、思いやることができる。
何もわからないからこそ、気遣うことができる。
何もかもがわからなかったとしても、そんな関係で構わないのだろう。




幸太郎が土方に呼び出されたのは小雨の降る夕刻の頃だった。
(嫌だな…)
と、そう感じたのはもちろん隊内で『鬼』と呼ばれる土方から呼び出しを受けたせいもあるが、それが雨が降っている今だということがさらに拍車をかけていた。土方の心の声を聴いてしまうかもしれない。彼がどんなことを考えているのか知ってしまうのかもしれない。
だが、同時に腑に落ちないこともあった。
(副長はそれを知っているはずだ)
隊内の様々な事情に絡む土方には知られたくないことも多いだろう。それなのに呼び出したのはよっぽど事情があるはずだ。土方の部屋に呼び出されているが、そこの向かう幸太郎の足はさらに重くなった。
そんな時。
「幸太!」
「!」
声をかけてきたのは数馬だった。彼はいつもと同じように片手をあげてこちらに駆け寄ってくるが幸太郎の表情は自然と強張った。
【俺はお前が好きなのに…】
彼の顔を見た途端、忘れようと、聞いていないことにしようと思った言葉が反芻した。
「幸太、今日は非番だろう?俺のところも非番なんだ。暇なら遊びに行こうぜ」
「…」
「どうした?」
いつものトーン、いつもの口調で話しかけてくる数馬に幸太郎は何と答えたらいいのかわからなかった。何の返答もしない幸太郎に対して、数馬は首をかしげる。
「何だよ、あ、もしかして今からなんか用事か?だったら待ってるし」
「その…副長に、呼び出されて…」
どうにか絞り出した言葉に、数馬は表情を歪める。
「な、なんでだよ!お前、なんかしちまったのか?あ、だから、お前変な顔しているんだな?」
そういうわけではない…と答えようとしたが、それで誤魔化せるなら好都合かと思いなおす。
心配する数馬は幸太郎の腕を掴み激しく揺さぶった。
「借金か?それとも喧嘩か?!」
「違う。呼び出された理由は…俺も、わからん」
「えぇ?」
幸太郎の返答に数馬は拍子抜けしたのか「何だ」と安堵したように力を抜く。
「だったらそんな悲壮な顔するなよ。大丈夫だって!殺されるわけじゃあるまいし」
「…まあな…」
「話が終わったら、祇園。ちょうど阿木から端紅がとどいたところだ。気晴らしに飲みに行こう」
「…端紅?」
「ん?ああ。近頃、顔を出さないから催促されちまった」
モテる男はつらいな、と数馬は頭を掻きながら笑う。しかしそんな数馬に対して幸太郎は怪訝な顔が隠しきれなかった。
(この間、阿木のことを聞いたときは酷く怒ったくせに…)
目の前の数馬は、親しい女からの呼び出しを受けて鼻の下を伸ばしている。
それにあの時聞こえた
【俺はお前が好きなのに…】
という言葉は、まるで嘘だったかのようだ。この数日悩み続けていたことが急に馬鹿らしく感じた。
(意味がわからん…)
幸太郎は無性に苛立った。
「…悪いが、今日はそういう気分じゃない。またの機会にしてくれ」
「え?」
「じゃあ、急ぐから」
呆ける数馬をよそに、幸太郎は歩き出す。しかし幸太郎はなぜ自分が苛立っているのかわからなかった。
(阿木と懇意ならそれでいいだろ)
男の自分のことを好きだというよりは、よっぽどいい。これまでの友情が壊れることもないし、このままでいられる。
でも
【俺はお前が好きなのに…】
そう心の中で寂し気に呟いた彼の言葉が嘘だったとは思いたくない。
しかし、そんなことを考える自分は自分勝手だと思った。


数馬を振り切って土方の部屋までやってきた幸太郎は、大きく息を吐いて
「失礼します、上坂です」
と声をかけた。するとなかから「入れ」と土方の声が聞こえてきて、一層緊張は高まった。
膝を追って丁寧に襖を開ける。
【遅かったな】
雨のせいで土方の心の声が聞こえた。
「…遅くなりまして、申し訳ありません」
幸太郎は心の声にはそ知らぬふりをして頭を下げたが、土方は「ふん」と鼻で笑った。
「総司から聞いていたが…心の声が聞こえるというのは本当のようだな」
「…」
「中に入って襖を閉めろ」
土方の命令に従い、幸太郎はゆっくりと襖を閉めた。もしかしたら沖田がいるかもしれないと少し期待していたがその姿はなかった。土方は早速口を開いた。
「用件を手短に話す」
「…はい」
(雨が降っているから、余計なことを聞かれたくないのだろう)
土方は幸太郎を警戒している。しかしそれは当然の行動だとも思ったので気にならなかった。
「お前は六番隊の宮川と仲が良いらしいな」
「…宮川…数馬ですか?」
「ああ…間者の疑いがある」
「え?」
土方の口からいち平隊士である数馬の名前が出たことにすら驚いたというのに、さらにその口から間者という言葉が出たことに驚愕した。
「ま…まさか」
「監察から宮川が懇意にしている阿木という女は長州者に情報を渡しているらしいと報告が上がった」
「そんなはずはありません!あいつは…」
酒が好きで、女遊びを好み、少し浮ついたところはあるけれど、新撰組隊士であることに誇りを持っている男だ。決して隊を裏切るような行動をとるとは思えない。
しかし、土方は厳しい表情を崩さなかった。
「だったらお前が証明しろ」
「…え?」
「友人の疑いを晴らしたいなら…お前が見極めろ」
雨が強くなった。
不思議と、土方の心の声は雨音にかき消されるように何も聞こえなかった。




幸太郎は土方の部屋を飛び出すように出て、そのまま祇園へと走った。
小雨が降り続けている。いつもなら「早く止めばいい」と怨めしく空を見上げるところだが今ばかりはどうか降り続けてほしいと勝手なことを思った。
『お前が証明しろ』
土方の言葉の重さを感じていた。
幸太郎は数馬が懇意にしている阿木に対して以前から不快なものを感じていた。口先では甘いことを言って内心では新撰組や数馬のことを馬鹿にしている…それを雨の降る日に耳にしてから、忌々しく思っていた。
(加えて間者だと…!)
そんな女に入れ込んでいる数馬も馬鹿だが、だからと言って土方から間者の疑いをかけられるなんて黙っていられない。
(俺のこの能力があいつを助けるならそれでいい…!)
数馬の疑いを晴らす――その一心で急いで店の前までやってきた。数馬がよく来ている茶屋だ。
「おいでやす、上坂様」
年配の女将が出迎える。一見すると上品で穏やかな様子だが
【何や騒がしい…】
傘も差さずに息を荒げて飛び込んできた幸太郎に心の中で毒づいているのが聞こえた。いつもなら苛立ってしまうが
(聞こえるようだ)
と安心した。
「悪いが、宮川は来ているか?」
「お越しになってますえ」
「…あいつと約束をしている。案内してくれ」
「へえ」
女将が二階へと案内してくれた。一番奥の座敷から数馬の声が聞こえてくる。
「失礼しますえ」
女将の柔和な声とともに障子が開く。部屋には数馬と阿木だけがいた。
「幸太?」
幸太郎が顔を見せたことに数馬は驚いていた。先ほどは「気分じゃない」とつれなく断ったのだから当然の反応だろう。
「上坂様、おこしやす」
しなを作って頭を下げる阿木に冷たい目線を向けつつ「どうも」と言って部屋に入った。
【うちのこと、やっぱりお嫌いみたいや】
阿木の声が聞こえる。幸太郎が抱いている彼女への嫌悪感は伝わっていたようだ。一方で数馬の方は
「どうした、副長から叱られたのか?」
と幸太郎を本気で心配した。先ほど自分勝手に冷たくあしらった幸太郎のことなんてすっかり忘れて嬉しそうにしている。
「…ああ、まあそんなところだよ」
数馬の様子に安堵しつつ、腰を下ろした。
「悪いな、邪魔して」
幸太郎は数馬とそして阿木に声をかけた。数馬は「そんなことない」と満面の笑みを浮かべたが阿木は曖昧にひきつった笑みを見せた。
【ほんまに邪魔や…】
外の雨の音ともに阿木の心の声が流れ込んでくる。いっそ清々しいほどの本心だ。
そのうち下女が酒を持ってきて、三人で改めて乾杯となった。幸太郎は阿木とは直接話さず数馬を介しての雑談を交わす。それはいつものことなのだが、彼女が間者という根拠は聞こえてこない。
「阿木、幸太は最近一番隊に異動になったんだぜ?」
数馬はまるで自分のことのように阿木に切り出した。
「いちばんたい?」
「隊の中でも精鋭が集まる部隊だよ。いざ戦となれば先駆けて戦場に突っ込む…名誉ある部隊なんだ」
「まあ!」
口に手を当てて大袈裟に驚く阿木。いつもなら幸太郎は「隊の話はやめろよ」と数馬を制するところだが、
(何か聞こえるかもしれない)
と思い、そのまま続けさせた。既に酒の入った数馬は饒舌に語り続ける。
「この間も討幕派の浪士を捕縛したんだ。それを見て最初は冷やかしてた連中も最近では黙り始めたよ」
「上坂様の実力ですもの」
【阿保みたい。たまたまやないの】
「そうだよな、幸太はすごいんだ!」
【自慢の親友だ】
阿木の心情を聞き取ろうとする合間に流れ込んでくる数馬の心の声。キラキラと目を輝かせて友人を語る数馬の言葉に嘘はない。
【俺はお前が好きなのに…】
この間聞いた言葉は、もしかしたら『親友として』という枕詞が付くのかもしれない。彼の純粋な友情を変に解釈してしまったのは幸太郎の方で。
(だったら…俺は何でそんな風に思ったのだろう…)
まるでそういう意味だと期待していたみたいだ。
「幸太は沖田先生にも気に入られてるんだよな」
「…もしかして、新撰組の沖田総司様?」
「知っているのか?」
数馬が尋ねると、阿木は少し沈黙して「勿論」と微笑んだ。
「新撰組で評判の剣客やて聞いたことがありますえ」
【新撰組で一番の鬼や】
蔑むような阿木の心の声。それを誤魔化すように数馬に酒を注いだ。
彼女の声に幸太郎はより一層耳を澄ました。
「沖田先生は新撰組で一番の使い手だけど、優しくて子供っぽい人なんだぜ?甘味なんかもお好きでさ」
「ほんまに?」
「ほんまほんま。幸太も一緒に言ったんだよな?」
調子よく阿木と会話する数馬が幸太郎に話を振った。それまで黙り込んでいたので気になったのだろう。
「ああ…屯所に近くに行きつけの甘味屋がある」
「へえ、なんていうお店?」
阿木が珍しく話に食いついた。いつもは数馬ばかりを構い、幸太郎には見向きもしないので珍しい。
「――たまや、だったかな」
幸太郎は適当な店の名前を告げた。
新撰組隊士ではなく、組長の行きつけの甘味屋だ。浪士たちにとって有用な情報となるだろう。
すると阿木の声が聞こえた。
【壬生のたまや…横峰はんにお知らせせな…】
「横峰とは誰だ?」
幸太郎は阿木を睨んだ。その名前を聞いた阿木は一気に青ざめ、咄嗟に口を押える。幸太郎が心の声を指摘すると大抵の人間は最初に自分が喋ってしまったと勘違いする。
「な…なんやの…?」
「お前が言ったんだ。横峰という者に知らせると」
「…!」
「幸太、何言ってるんだ?阿木は横峰なんて名前、口にしてねぇぞ?」
事情の分からない数馬は首をかしげる。その隣で阿木は「そうや」と数馬に乗っかって否定する。しかし彼女のその表情は先ほどまでのものとは明らかに違う…幸太郎は確信した。
(横峰という男が、討幕派の浪士か…)
一方で数馬の方は
【どうしたんだ、いきなり…】
と心の中の声でもその男の名前を知っている様子はない。やはり数馬が間者だというのは勘違いであり、懇意にしている阿木が別の男に情報を流していたのだ。
(俺はお前を守りたい…)
阿木と馴染みである数馬の無実を証明するのは、自分しかできないことだ。
けれどそれは同時に『心の声』が聞こえるということを数馬に話すということだ。
数馬は驚くだろう。
そして「今までも聞いていたのか」と疑い、そして幸太郎から離れていくかもしれない。
でも、それでもいい。
「お前は口にはしていない。だが、俺には聞こえた」
「幸太、何言ってるんだ?」
「頭おかしいんやないの!」
【何でやの!何であの人のこと…!】
阿木は必死に幸太郎を否定する。だが「横峰」という名前が出てきた理由は勿論わからない。
幸太郎は告げた。
「俺はお前が心で何を思ったのかが聞こえる」
「…え?」
雨は、まだ降り続いていた。




「聞こえる」
そう言うと、大抵の人間は驚き「嘘だ」とあざ笑う。証拠を突きつけるように幸太郎が心の中の声を代読してみせると、見る見るうちに顔色を変えて「化け物だ」と指をさす。
阿木も同じ反応を見せた。
「阿呆やないの?」
幸太郎を見て阿木は取り繕うようにぎこちなく笑う。
【はったりに決まってはる】
「はったりに決まっている…そう言ったな?」
幸太郎が阿木の目を見て告げる。冗談ではなくすべて聞こえる…それを睨みつけるように突き付けると彼女の唇が小刻みに震え始めた。
「な、なんやの?気色悪い…!」
【気味の悪い子】
阿木の蔑む言葉に母の言葉が蘇る。
母は幸太郎が心の声が聞こえると知ってもまったく信じようとしなかったため、その心では自由に言葉を放っていた。
最初は傷ついていた。けれど次第に人間の心なんてそんなものだと思い始めた。口にしない限りは誰も傷つけない。だから心の中で何を考えて何を思おうが勝手だ。そしてそれを責めることはできない。
(数馬…)
青ざめる阿木の隣で、数馬がポカンと口を開けたまま幸太郎を見ていた。
彼は何を思っているのだろう。
入隊以来、誰よりも親しくしてきた。互いに信頼していた。けれど幸太郎は数馬の声を聞くことができた。
実際には聞いていないけれど、数馬にその言い訳は通じないだろう。
雨は降り続けている。彼の声は聞こえる――。
「そこまでです」
幸太郎が背にしていた襖が突然、大きな音を立てて開いた。そこには沖田をはじめとした一番隊の隊士たちが控えていてすぐにぐるりと囲むように立ちはだかった。
場は一気に緊張感に包まれる。
「何やの!」
【壬生狼…!】
「…沖田組長…?」
阿木の悲鳴に似た声。そして数馬は突然一番隊が揃って現れたことに驚いたようだった。
「沖田先生…!」
幸太郎はタイムリミットが来たのだと思った。土方副長は数馬が間者なのではないかと疑っていた。
沖田たち一番隊は数馬を捕らえに来たのだと。
しかし沖田は幸太郎を見てゆったりと微笑む。
「…上坂さん、報告をしてください」
「ほ、報告…?」
「あなたが聞いたことを報告してください」
聞いたこと。
それはもちろん数馬の口から放たれたものではなく、その奥にある心の声のことだ。
沖田には普段の穏やかな様子はなく、厳しい眼差しでまっすぐに幸太郎を見つめていた。
「数馬は…いえ、宮川は…間者ではありません。彼はこの女と懇意にしていただけで隊を裏切るようなことは何も。…俺がこの命をかけて保証します」
「か…間者だって…?!」
【俺が?!嘘だろう?!】
数馬の心の叫びが聞こえた。その声を聞いて、数馬は阿木に利用されていたのだろうと確信した。
「女は『横峰』という男に新撰組の情報を伝えているようです」
「…そうですか、わかりました。島田さん、この女性を捕らえなさい」
「はっ!」
隊で一番大柄の島田が阿木の腕を引っ張り上げる。阿木は咄嗟に振り払おうとしたが女の身では巨漢の島田が相手では歯が立つわけがない。
「何やの!手ぇ離して!うちは何にも知らへん!!」
悲鳴を上げる阿木を島田が抱えて部屋から出す。彼女は鋭く幸太郎を睨みつけたが、そのまま隊士たちに連行された。
部屋には幸太郎と沖田、そして腰を抜かしたままの数馬だけが残された。
「あの…沖田先生」
「お手柄でしたね、上坂さん。土方さんには私から報告しておきますから…」
「そうではなくて…どうして信じてくださったんですか?」
「ん?」
沖田は首を傾げた。先ほどまでの鋭い表情はすっかり消えている。この二面性にはまだ慣れず、幸太郎にとってまだ沖田は親しいと言える存在ではなかった。
なのに。
「俺が数馬を庇うために嘘をつく…その可能性だってはるはずです。心の声は俺にしか聞こえない…俺にしか本当のことはわからないのに、どうしてすぐに信じたんですか?」
誰もが疑うはずだ。
「ああ、なるほど」
【そういうことか】
沖田は表情では顕さなかったけれど心の中では笑っていた。軽やかな微笑みだった。
「…心の声が聞こえない私にだって、あなたが嘘をついていないことくらいわかりますよ」
「え?」
「それに土方さんも本気で宮川君を疑っていたわけじゃありません。あの人はあなたを嗾けて面倒な仕事を一つ減らしただけなんです」
【めんどくさがりだからなあ】
沖田は笑って「じゃあ」と言って背中を向けた。軽やかに部屋を去っていく沖田の背中に幸太郎は深く頭を下げた。
一番隊に異動になってずっと居心地が悪かった。周囲の目に気づかずと心の声が聞こえなくなって、ここにいるべきではないそう思っていた。けれど沖田の言葉にようやく安堵できた気がしたのだ。
すると、そのやり取りを聞いていた数馬が
「…本当、なんだな…」
と呟いた。その表情は暗い。
「数馬…」
「お前が、心の声が聞こえるってやつ。あの沖田先生がそう言うんだから…本当なんだな?」
「…ああ」
数馬は「ふん」と吐き出すように息を吐く。
「じゃあ…俺が何を思っていたのかも、知ってたってわけだよな?全部、丸聞こえだったんだよな?」
「違う…。もともと声は雨の日にか聞こえないし、お前の声は聞かないようにしていた」
「聞かないようにってことは聞いたってことだろ?!」
数馬は声を荒げた。幸太郎は彼が怒るのは当然だと思った。
誰よりも近くにいた親友がずっと声を聴いていたのだと知れば、気分を害する。信用できなくなってもう友人なんて思えなくなるだろう。
(それをわかっていたんだ…)
けれど数馬が間者だと疑われているのがたまらなかった。誰よりも新撰組隊士であることを誇りに思う彼がそんな見当違いな立場に追い込まれているなんて、悔しくて、だから一刻も早くその疑いを晴らしたかった。
「何を…聞いたんだ?」
「…数馬…」
「幸太、何を聞いたんだよ…」
【俺が、お前を好きだって思ってるのを…聞いたのか?】
「…そうだ」
幸太郎は敢えて心の声に答えた。数馬が不快に思うとわかっていたけれどもう隠すことなどできなかった。
親友だからこそ、
一番近い存在だからこそ、もう隠さない。
数馬は幸太郎の返答にカッと目を見開いた。そしてそのまま何も言わずに俯くと暫く黙り込んだ。
そのうち、雨が止んだ。耳障りな雑音が消える頃、数馬は力なくゆらりと立ち上がった。
「数馬…?」
数馬はそのまま幸太郎の傍を通り過ぎた。そして
「…絶交だ」
そう言い残して部屋を出た。
幸太郎はその場に立ち尽くした。数馬が放った言葉が、時間の経過とともに大きくのしかかっていく。
雨は止んだ。
心の声は聞こえない。
でも
(…こんなに聞きたいと思ったのは初めてだ)






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