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わらべうた



526


初めて若様と会話を交わしてから、同じだと思っていた日々に変化が訪れた。若様は二人きりになると俺に会話を求め、邸内の散歩には乳母の千代や女中たちに『イチと行くから』と遠ざけた。生来無口な俺は若様の話に相槌を打つ程度なので、何が彼を喜ばせているのかわからなかったが、若様はいつも楽しそうにしていた。
もちろん若様の魂胆や俺が若様と会話を交わしていることを彼女たちは分かっているだろうが、それを咎めるようなことはしなかった。俺のことをそれなりに認めてくれたのか、若様の望みだからなのか…それはわからない。ただ俺は若様に会うことが存外楽しいと思い始めたのだ。
その矢先のことだった。
「おい、山口」
稽古を終えると梶谷が声を掛けてきた。珍しくいつも連れている取り巻きがおらず、一人だった。だが尊大な態度は相変わらずだ。
「…何の用だ」
このあと俺は若様に会いに行くので梶谷に付き合っている暇はない。
「そんなにつれない態度を取るなよ。…後悔するぜ」
「…話がないのなら帰る」
苛立った俺は踵を返すが「待てよ」と肩を掴まれた。そして梶谷が小声で囁いた。
「お前、紀伊の藩邸に通っているんだろう?」
「!」
「お前が裏口から出入りしているのを見たって奴がいるんだ」
瞳孔がカッと開き、驚いた俺を見て梶谷は確信を深めた。素知らぬ顔をすれば良かったのだろうが、出入りする姿を見られたという失態に焦ってしまったのだ。
それに加えて梶谷の言葉に動揺していた。
(紀伊…だと)
どこかの藩邸だということは察していたが、まさか親藩の紀伊藩だとは思いもよらなかったのだ。
俺は梶谷の手を払い、鋭く睨んだ。
「…お前には関係ない」
「関係なくはないだろう?…将軍様の継嗣の問題はお国の問題だ。道場でも度々話題になっている」
「…」
「ははっ まさかお前、何も知らないのか?」
梶谷は何も答えない俺を高らかに嘲笑した。
勿論世間で話題になっているのでそれなりに理解していたつもりだが、興味が無いため明確に説明できるほどではない。墓穴を掘るのは面倒だと思い黙っていると、彼は得意げに話し始めた。
「今の大樹公はお身体が優れずお子の望めないお身体故に、早急に後継が必要だ。老中様をはじめとした島津と水戸は一橋様を推したが、大樹公や譜代の大名は一番血筋が近いことを理由に紀伊の若様を押し上げている。俺は幼少の紀伊の若様よりも聡明で博識な一橋様が将軍職に就かれたほうが良いと思っている。お前はどうせ何も考えていないのだろう?」
「…」
「図星か」
梶谷はまた笑ったが、遠く手に届かないような将軍家の問題を、なぜ自分のことのように置き換えて議論できるのか…俺にはそのほうが不思議だった。
梶谷は続けた。
「まあお前が無知だろうとどうでもいい。だが、お前が紀伊の若様にお会いできるなら話は別だ。後継から辞退するようにお願いできるだろう?なあ、俺も連れていってくれよ」
「断る」
俺は即答した。そもそも内密の任務であり、馴れ馴れしい梶谷のいうことを聞いてやる義理はなかった。
俺の返答に対して梶谷は「ふうん」と含みのある表情をした。そして再び小声に戻るが、今度は脅しだった。
「紀伊の藩邸に通っていること、バレたくないだろう?俺ならお前を見たってやつの口止めもできる。…お前の父君だって立場がある、皆に知れたら困るんじゃないか?」
俺は反射的に梶谷を突き飛ばしていた。梶谷はそのまま尻餅をつく。
俺は梶谷に吐き捨てた。
「黙れ。お前には関係がない!」
「こ、この野郎!」
顔を真っ赤にした梶谷はすぐに立ち上がり猛然と俺に掴みかかってくる。襟を掴まれ頬を殴られたので、俺はすぐに同じように返したが一つ年上の梶谷の方が少し体格が良いため、殴られた衝撃は俺の方が大きい。だが怯むことなく俺は梶谷を殴った。
自分のためではない。父のためでも、家のためでもない。
ただ俺は守りたかったのだ。若様との穏やかな時間を梶谷なんかに邪魔されたくはなかった。ただそれだけの思いで拳を振り上げていた。
そうしていると塾頭の先生が「やめなさい!」と俺たちの間に入って静止した。互いに息が上がり、痣だらけになり梶谷は鼻血を出していた。俺も口の中が血の味がしたので唇を切ったのだろう。
先生は眉を釣り上げて怒った。
「梶谷君、山口君。君たちには三日間稽古を禁止します」
「な、なんで…!こいつが先に俺を突き飛ばしたんだ」
「喧嘩両成敗だ。頭を冷やしなさい。…山口君、君もだ」
「……はい」
俺は唇を拭いながら頷いた。一方納得のいかない梶谷は「畜生!」と吐き捨てて去っていく。
先生は「やれやれ」と呟きながら俺を見た。
「紀伊…だとか不穏な言葉が聞こえたがなんの話をしていたんだい?」
「…俺は知りません」
俺は表情を変えずに淡々と答えた。梶谷の前での失敗を繰り返すつもりはなかった。
すると先生は「困った子だ」と言いながらそれ以上は何も聞かなかった。


それから、道場を出て若様のところへたどり着く頃には、俺は冷静になっていた。
(若様は…紀伊の、若様だったのか…)
若様が乳母やたくさんの女中に囲まれ、どこか浮世離れしていたのも、この広い邸宅が親藩の紀伊家の藩邸だということも、それが紀伊の若様だということなら頷ける。
それに
『私の周りは少々複雑で、いろんな思惑を持った大人が出入りしている』
若様はそう語っていた。それは将軍継嗣を巡る問題を指していたのだ。
俺は若様の正体を知ることで、感情を乱されていた。
ずっと若様のことを知りたいと思っていたが、知ってしまうと若様の望んでいた『友人』にはなれないのではないかと恐れていた。穏やかで朗らかな若様の望んでいる『存在』で在りたい。だがこんな不本意な形で知ることになってしまった。梶谷を恨むが、いずれ知ることになったことだろうとも思う。
(できれば…若様のお口からお聞きしたかったが…)
何にせよ、俺が若様にお会いするのは今日で最後になるだろう。梶谷に知られてしまったのは俺の落ち度なのだから。世話役の篠原に知られる前に自分で辞することを申し出るべきだ。
俺はそんな覚悟を胸に、裏口から中に入った。咲き誇る花々はすっかり見慣れてしまったがそれも今日で終わりかと思うと目に焼き付けたくなる。花に囲まれた道を歩むと庭に抜ける。
縁側には若様がいて、乳母が隣に控えていた。
「…イチ?」
俺は黙って若様のお側に近づき、膝を折った。土埃が袴を汚してしまうのも構わずに、若様の前に平伏した。
若様は俺の顔を覗き込むようにして
「怪我をしているの?」
と尋ねられた。若様は梶谷に殴られて赤くなった頬と唇の切り傷に気づかれたのだ。
(大事ありません)
そう答えたいのに乳母がいるので口を開くことができない。もどかしい気持ちに苛まれていると、若様が乳母の千代に
「塗り薬を持ってきて」
と頼んだ。乳母は戸惑っていたが「お願い」と若様が念を押したため立ち上がり奥の部屋へと向かっていった。
「イチ、喋っていいよ」
「…若様、大事ありません。自分のことなど…」
「イチは私の『友人』だよ。怪我をしていたら薬を塗ってあげる…それは友人として当たり前のことだ。…ほら、顔を見せて」
俺は若様に導かれるままにゆっくりと顔を上げた。若様は俺の傷を見て「ひどいな」と眉をひそめたが、俺は若様の顔をまじまじと見ていた。
細い髪の毛にほっそりとした輪郭。白い肌、まるでビードロのように澄んだ瞳。形の良い鼻筋に優しげな口元。精巧すぎて触れれば壊れそうな危うさと、しかし慈愛に満ちた眼差しが俺に向けられている。
俺はそれを記憶に焼き付ける。忘れないように、刻み付けるように。
「イチ?」
いつもと違う俺の様子に気がついたのだろう。若様は首を傾げた。
「…自分は、若様の『友人』にはなれませぬ」
「どうして?」
無垢な若様に尋ねられ、俺は迷いながら言葉を選んだ。
「…若様のことを…知ってしまったからです」
俺の若様への態度は自然と硬化していた。それはやはり次期将軍である若様に対して萎縮していたからだ。それは決して若様の望む『友人』ではあるまい。
俺は続けた。
「それから…ここに足を運んでいることを知人に悟られてしまいました。このままでは若様にご迷惑をおかけしてしまいます」
俺は顔を伏せた。
「…今日で最後にさせてください…」
思った以上に、その言葉は俺自身を傷つけていた。まだ短い間だけれども俺は若様にお会いすることに喜びを感じていたのだ。
するとポタポタ、と地面が濡れた。雨が降ってきたのかと思ったがそれは同じ場所を濡らし続ける。
「…わ、かさ」
「嫌だ…嫌だよ、イチ」
若様のビードロのように大きく輝きに満ちた瞳から、大粒の涙が?茲を伝い、地面に落ちていた。雨ではなく若様の涙だったことに気がつき、俺はどうしていいのかわからなかった。
だが若様は足袋のまま庭に飛び降り、俺に抱きついた。
「若、様…」
「私は何者でもない…なのに、皆は特別だという。囃し立てて飾り立てて…利用する。そんなのはもうウンザリだ。私が欲しいのは心を許せる友人だけなのに」
いつも穏やかで喜怒哀楽のない朗らかなお方だと思っていた。けれどそうではない。若様は己の感情を隠し周囲が望むように振舞っていただけだ。
嗚咽を堪えながら若様は俺に問いかける。
「イチは私の友人だ、そんなの誰に知られたって良い。それともイチは私が友人だというのは恥ずかしいの?」
「違います…しかし、ご迷惑が…」
「迷惑なんてかけてもいい。私がイチを守る…だから…そばにいて」
涙を流しながら俺を離さまいと強く抱きつく若様が、俺の心を揺さぶった。離れて別れを告げることこそ最良だと分かっているのに、脆く崩れる若様を突き放すことなんて俺にはできない。
(俺は…この方を守りたい)
若様にとって『友人』でも『犬』でも構わない。
いつか会えなくなっても、遠い場所に行ってしまっても、その気持ちはいつまでも揺るがないだろう。
明日のことさえ無関心だった俺が、そんなことを思った。
「…わかりました」
「イチ…本当?本当だよね」
「本当です」
若様が俺を必要としてくれている。父にも母にも兄弟にも見放され、見放してきた俺にとって誰かに必要とされるは初めてのことだった。
若様は目尻に涙を浮かべながら微笑んだ。
「…イチが笑ったの、初めて見た」










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解説
なし

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